中野城
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学校敷地に建つ石碑(12年11月)

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山形市から六十里越街道(現在の国道112号線)を寒河江に向う途中、中野地区の大郷小学校が跡地。小学校の校内に石碑と案内板が立つ。前面の川が須川に通じており、六十里越街道と合せて、水陸交通の重要地点だったことが想像できる。山形城の外城としての役割もあり、城主も山形城と兼務したこともある。城は平城で、町には城下特有の狭い道と、あて曲げが見られる。しかし、遺構としては皆無に近い。最上氏は平城が多い。高擶長瀞寒河江など、重要な交通の要地に築かれている。ここも、典型的なその例である。それに対して、天童城長谷堂城など、堅固な山城もある。ここ中野城は、石碑に当時を偲ぶしかない。

中野城の由来(現地説明板より)

 中野城は、中世における山形城の支城として、山形三代最上満直の次男満基が、応永年間(15世紀初め)に築城した連郭式の平城である。本丸は東西約340m、南北約250mで、約73000uの広さであるが、二の丸を含めると171500uで、内堀は幅6mから10mで、高さ2mの土塁を巡らし、二の丸に当る南西部には外堀を構築し、東北部には寺院を配置している。 中野の地は、戦略上、経済上のみならず、水・陸の交通上からも重要な地点であった。しかも、宗家最上氏と中野氏は、次の如く、最上一族中最も密接な関係にあった。

初代 満基 山形三代最上満直二男、中野氏を称す。

二代 満氏 満基長男、七代山形城主、山形・中野両知行。

三代 義淳 満氏長男、八代山形城主、山形・中野両知行。

四代 義建 義淳二男。兄義定は九代山形城主。

五代 義清 義建長男、最上義守(山形一○代)の父。

六代 義時 義守の二男

 六代義時にいたり、兄義光との家督争いから不和となり、更に天正三年(1575)、義時方の義光呪詛一件が露見して、義光方の夜襲にあい、中野城や寺院は灰じんと化したという。義時は切腹し、その子備中は仙台へのがれ、中野氏はついに滅亡した。中野領は義光の支配となり、重臣を輪番で中野城に配置し、中野氏の旧臣は、最上氏の家臣団に編入された。 元和八年(1622)最上氏の改易後は、この城も廃城となり、ついに破却された。現在、当時の面影を偲ぶものは、堀形の一部と、楯・北口・中小路・楯坂・袋町・御倉前・築坪山・七日市場・的場・大手窪・馬場宿・馬洗場などの地名である。現在の大郷小学校は、本丸の西部に位置している。

平成元年三月 大郷郷土研究会