長谷堂城
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本丸広場に建つ石碑(10年3月)

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山形市の西部、本沢地区にある城山が城址。旧狐越街道を監視するような立地にある。2009年某放送局の大河ドラマで主人公が見事な引き際をした所。本丸から東側には、上杉軍が陣した菅沢地区が直ぐそこに見える。間に横たわる田んぼが戦場になった事が想像でき、戦死者の供養石もある。現地に来て感じたことは、この小さな城で上杉の大軍を防いだものと感心する。直江兼続は戦を得意とするよりも、謀略を得意とした武将ではなかったのか。須川を挟んで山形城下が見える。伊達の援軍も来るのはわかっていたはず。長谷堂城でぐずぐずせず、本城である山形城を攻撃したらどうだっただろうという疑問も。長谷堂城が上田城に見えてくるのは、私だけだろうか。ともかく東北の関ヶ原はこの地で終了する。以後、直江はなりふりかまわず、徳川に従う事に。菅沢地区にも行ったが、宅地化が進み、当時の面影を探すのに苦労する。長谷堂城の様子からして、敵方の陣地とした所を保存する気が薄かったのか。麓には真新しい駐車場が出来、きれいな水洗トイレも完備した。これは某放送局のおかげかも。お城ファンにとってはありがたい、感謝。

史跡 長谷堂城(本丸の現地説明板より)

ここ長谷堂城跡は、山形城の西南約七キロに位置し、標高二百二十七メートル、比高約八十五メートルの独立丘陵に築かれた山城で、古くから天然の要害の地であった。この地に城塞が築かれた時期は明らかではないが、永正十一年(1514)置賜の伊達稙宗軍に一時占拠されたという文献が残されており、少なくともそれ以前であったと考えられている。その後、最上領西南の守りとして、本沢川から導水して深堀をめぐらし、土塁を築く等強固な城砦に整備された。慶長五年(1600)「出羽の関ヶ原合戦」といわた攻防戦があり、全国きっての智将、会津の上杉景勝の家老直江山城守兼続が、山形の最上義光を攻めた合戦の折、最上軍の将、志村伊豆守光安が長谷堂城に拠って、二万数千の大軍の猛攻撃から、半月間にわたって凌ぎ城を守りきった。このことから、長谷堂城は「難攻不落」として戦史に残る事となる。戦後、光安は加増され庄内酒田の亀ヶ崎城主となり、その後、成沢城から坂紀伊守光秀が移封され、長谷堂城下の整備に尽くした。元和二年(1616)光秀の没後、光重が後を継いだが、元和八年(1622)最上家改易と同時に廃城となった。山形市の調査により、中世の城郭跡としてこれだけの虎口や曲輪の跡が残されているのは珍しく、学術的・文化的価値の高い史跡であることが明らかにされている。 平成十六年十一月吉日 山形市・本沢郷土研究会

長谷堂城跡公園現地説明板より)

長谷堂城は山形盆地の南西端に位置する。麓からの比高差が約八十五メートルの城山と呼ばれる独立丘陵に築城されています。一番高い部分に主郭があり、その下方に幾段もの平坦な曲輪が造成され、間を縫うように通路が造られています。南は本沢川が天然の堀の役割を果たし、西から北端を廻り東側にかけては、一部二重の水堀と土塁が廻っていました。現在、土塁は失われていますが、水堀の一部は水路などとして残っています。内側の水堀と土塁は内町・西向地区を、外堀は出倉地区を包んで、城郭と町場の双方を防御するような構造になっていました。 山形市

横矢掛り(現地説明板より)

侵入者に対して側面から矢を放って攻撃ができるように、屈曲させた通路のことです。この施設は頂上の主郭(山頂広場)につながる通路なので、このように敵の侵入を防ぐ工夫がこらされています。 山形市

曲輪(現地説明板より)

山の斜面を削って平坦に造成され一区画です。建物を構えて寝泊りしたり、柵を立てて防備したりする機能を担いました。長谷堂城では、特に東から南斜面にかけて曲輪が目立ちます。その曲輪をつなぐように、内町口や観音坂口から登る道が整備されています。 山形市

虎口(現地説明板より)

曲輪など各施設への出入口のことです。長谷堂城は方形の区画を置く枡形虎口、土塁、曲輪などを屈曲させてつくる食違い虎口などがあります。城館で防御が必要なところにあたり、工夫がこらされています。 山形市

水堀現地説明板より)

長谷堂城には、堀があったことが知られていましたが、発掘調査の結果、幅七m前後、深さ約二、七mの規模の大きい堀が確認されました。この堀は長谷堂城を一周しており、東側では町場をも囲むように一部二重となっていたと推定されています。 山形市

帯曲輪群(現地説明板より)

細長い平坦面が段々畑状に連なる防御施設です。この施設は他の山城には見られないもので、慶長五年(1600)長谷堂合戦の時、上杉軍(直江兼続軍)の本陣が置かれた菅沢山本陣のちょうど正面に当ります。上杉軍を意識して造成されたと考えられます。 山形市

土塁(現地説明板より)

矢や鉄砲などの攻撃を防ぐため、あるいは敵の進入を防ぐため、要所要所に構築された土手のことです。この土塁は、比較的防御設備の少ない八幡崎口方面から侵入する敵を意識したものと考えられます。 山形市