会津若松城
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廊下橋と天守閣(09年2月)(T氏撮影)

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米沢から峠を越えて会津盆地に入った。若松市内は大きいが平面的な町、城域に近づくが天守閣が見えない。五層の天守閣なら遠くからでも判別できそうなのだが。三の丸駐車場へ車を停めて二の丸廊下橋へ向かう。米沢城を見てきた目には、石垣の圧倒的な威圧感にびっくり。廊下橋からやっと天守閣が顔を見せてくれる。城域の広さ、石垣の高さに、天守閣の高さが負けている。本丸まで行き、天守閣の真下に立つと、その大きさに満足する。まさにそこには写真で見た天守閣が存在した。天守台の石垣は古い積み方でカーブもゆるい。それが高さを強調している。最近復元された鉄門と続櫓から干飯櫓。天守台に開けられた独特の埋め門。天守閣最上階から飯盛山が望めるが、白虎隊の少年たちはどのような気持ちで見たことか。天地人で上杉家は、会津から米沢へ転封させられる。その道順と逆にたどった私の目と、反対に見た上杉家の人々にはたまらないものがあったろう。明治維新時、朝敵にされ徹底抗戦した会津藩、武辺者上杉家が戦いらしい戦いも無いまま、降参。時代の皮肉を感じさせられた。

若松城(鶴ケ城)跡(現地案内板より)

南北朝の頃、芦名氏によって築かれた黒川城は、文禄元年(1592年)蒲生氏郷によって七層の天守閣を築き、城郭は甲州流の縄張りを用いて整備し黒川の名を若松と改め、城の名を鶴ケ城と命名した。  寛永十六年(1639年)加藤明成は七層の天守を五層とし、北馬出、西馬出を北出丸、西出丸に改築し現在の形態となった。  昭和九年(1934年)十二月若松城跡として文部省の史跡指定を受けた。

本丸埋門(現地案内板より)

天守閣の北東にあって本丸奥御殿の北側から本丸帯郭に通じる枡形の城門である。  城内の他の門や建築物に比較して低い門構えで埋門の形態をとっていた。  大手口が東であった築城当時は表門であったが、寛永十六年(1639年)の加藤明成による改築後は裏門となっている。本丸御殿の勝手口としても重要な門である。