米沢城
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本丸の土塁と堀(09年2月)

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天地人の城。雪深い米沢だが、今年は少ないとは言っても、本丸跡の上杉神社や公園は雪に埋もれていた。まったくの平城で本丸も土塁。堀と土塁が妙に似合う。見ていると、心に安らぎを感じる。石垣で武装された城は堅苦しい。それに比べると、土塁の持つあたたかみが何ともしっくりする。方形の堀に囲まれた上杉神社は、たくさんの人であふれていた。神社宝物殿を拝観したが、目指す兼続着用の「愛」の兜はひっそりと片隅にあった。ほとんどが謙信公のもの、見ごたえのあるものばかりである。二の丸にある元上杉伯爵邸も見応えがある。

米沢城(現地説明板より)

伊達氏、上杉氏の居城で、松岬城、舞鶴城とも呼ばれた。 米沢城の起源は、暦仁元年(1238)に地頭長井時広が築城したと伝えられるが判然としない。長井氏は八代約二〇〇年間にわたり置賜地方を治めるが、天授六年(1380)に伊達氏に攻め滅ぼされる。伊達氏は伊達、信夫を本拠としていたが、天文十七年(1548)に伊達晴宗が本拠を米沢に移し、米沢城の整備が始まる。永禄十年(1567)には米沢城で伊達政宗が誕生、政宗は会津の芦名氏等を破り戦国大名として飛躍するが、天正十九年(1591)に豊臣秀吉の命により岩出山城(宮城県)に移され、青年期を過ごした米沢を去った。伊達氏の統治は二一〇年に及ぶ。 政宗に替わって米沢城には、会津若松城主となった蒲生氏郷の家臣蒲生郷安が入るが、慶長三年(1598)に秀吉の命で会津一二〇万石に上杉景勝が入ると、米沢城主は景勝の重臣直江兼続となる。 慶長六年(1601)、前年の関ヶ原の戦いで西軍方についた上杉景勝が米沢三十万石に減封され米沢城に入城、城下の整備に着手した。以後、寛文四年(1664)に後継問題で米沢藩は十五万石となるが、米沢城は約二七〇年間にわたり上杉氏十三代の居城として明治維新を迎える。 城郭は平城で本丸は東西七十五間、南北六十間、徳川幕府に対する配慮からか天守閣はなく、藩主の住む御殿が中央にあった。また、南東隅の高台には上杉謙信の遺骸を祀る御堂が建ち、北東と北西の隅には三層の隅櫓があった。石垣ではなく土塁を廻らした珍しい城である。 明治になって御殿や隅櫓は取り壊され、本丸跡は松が岬公園と上杉謙信を祭る上杉神社となっている。堀と土塁が往時を偲ばせ、堀の周囲には桜の木が並び桜の名所ともなっている。     米沢市

上杉記念館(現地説明板より)

明治二十九年米沢城二の丸・寺院跡に上杉茂徳伯爵邸として新築されたが、大正八年の米沢大火で類焼。現邸は大正十四年五月再建されたもので、設計者は中條精一郎(作家宮本百合子の父)。銅板葺の入母屋造り。庭園は東京の浜離宮に模して造られている。 戦前はしばしば皇族の御宿所に当てられた。戦後一時進駐軍の将校クラブとして接収されたが、昭和二十四年米沢市が上杉家より譲り受け、中央公民館として使用、同五十四年から上杉記念館として市民に親しまれている。

上杉謙信祠堂(御堂)跡(現地説明板より)

江戸時代、上杉謙信の遺骸を安置した御堂(祠堂)が建っていた場所である。 謙信は天正六年(1578)三月十三日、越後春日山城で逝去、享年四十九であった。その遺骸は甲冑を着せ甕に納め、漆で密閉したと言われている。 その後、謙信の跡を継いだ上杉景勝が会津120万石、米沢30万石に移封されるに伴い、謙信の遺骸も移され、米沢城南東隅のこの地に御堂を建て安置した。 謙信遺骸の左右には善光寺如来と泥足毘沙門像が置かれ、その後は歴代藩主の位牌も祀り、最も神聖な場所として厳重かつ鄭重に祀られた。 明治四年の廃藩に際し、仏式を改め神式とし、謙信は上杉神社の祭神として祭られる。謙信の遺骸は、同九年に歴代藩主が眠る御廟所(上杉家墓所)に移された。   米沢市