山形城
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復元された、二の丸東大手門(04年6月)

その他の写真

JR山形駅で降り、少し北へ向かうと、山形城の堀が姿を見せる。二の丸の堀に、東大手門や木橋が復元され、JR奥羽線を跨いでいる。本丸が奥羽線で分断されなかったのは、すでに山形歩兵32連隊が二の丸の中にあったからなのか。連隊の練兵場として、本丸の石垣や堀はきれいに地下に埋没した。現在その復元工事が進行中で、地下から数々の遺物が出土している。何年後かには、本丸が復元される。(ちなみに天童陣屋は中心地をJR奥羽線で分断された)関ヶ原の戦いで、東軍側に着いたので、57万石に加増され、その本拠地としての壮大な城郭が出現する。戦国時代の城には珍しい平城で、城下建設には、最上義光の並々ならぬ工夫が見られる。二の丸はこの東門の他、西、南、北に門がある。現在は北門から車の進入ができる。南門に復元前の城郭のたたずまいを見つけることができる。三の丸には十一の出入口があった。現在も「十日町口」として、歌懸稲荷神社境内に土塁が残る。これは十一の出入口の中でも、一番小さいほうである。現在の城址は「霞城公園」として残り、春の桜の名所ともなっている。復元された東大手門高麗門を入ると、右手に櫓があり、左手に壮大な櫓門がある。櫓門を抜けると、左手には櫓があり、右手に広場が広がる。広場中央には最上義光の銅像が人々を見下ろしている。義光に負けた天童頼久家臣の子孫の一人としては、複雑な気持ちがするのだが。個人的な感情を抜きにして、この壮大な平城を感じるには、二の丸の周りを歩いて一周してください。その大きさが実感できる。高校生の時、よくこの公園に来た。石垣だけの東大手門、城内には野球場もあり、それなりに古城の雰囲気があった。何十年ぶりで見る大手門は何か昔の雰囲気を壊している。でも後何十年かすれば、復元大手門もしっくりしてくるのだろうが。遺構建築物として市内「千歳山 萬松寺」に山門が残る。最上家が取り潰された後、この城は数年おきに、城主が目まぐるしく替わる。

 

史跡・山形城址 二ノ丸東大手門(現地説明板より)

山形城は延文元年(一三五六年)斯波兼頼により、創建されたと伝えられている。現在の山形城跡は、文禄年間(一五九二年〜一五九五年)最上義光により拡張され、鳥居忠政の時代(一六二二年〜一六二八年)に、ほぼ現在の形に整えられた。 昭和六十一年五月、二ノ丸堀から内側の地域が、近世初期の面影をとどめている全国有数規模の近世城郭として、国の史跡に指定された。 山形城の石垣は、市街地を流れる馬見ヶ崎川の玉石(安山岩)を用い、割肌を表面に見せる野石積みで日本でも類を見ない優美で堅固な石垣である。 二ノ丸東大手門は山形の正門である。桝形の南北両側に多聞櫓をもつ独特な形式の桝形門で、江戸城の諸門に匹敵する規模をもつ、現在の建物は、幕末の城絵図や明治時代初期の写真等を参者にして日本古来の建築様式で復原され、平成三年三月に竣工した工期四十五ケ月工費十一億円余。

 

山形城主最上義光顕彰詞(現地金刻文より)

従四位上左近衛少将出羽守最上義光は山形城主義守の嫡男として、天文十五年(一五四六)正月この地に生まれた。 最上氏は源氏の流れをくみ、南北朝時代の初期奥州探題斯波氏の一族、修理大夫兼頼がはじめて山形に入部しこの地方を統治した。以後、代々最上姓を名乗り約一世紀を経て戦国乱世に至り、群雄各地に割拠して奥羽地方もまた争乱が絶えず、山形最上氏は隣邦の侵略圧迫により衰運に傾きさらにその後一世紀の間は存立も疑われた。 義光は逆境の中に生まれ、山形の再興と隆盛を期して外敵の侵犯を排除し、最上村山地方を平定してその統一を実現した。殊に慶長五年(一六○○)の秋、関ヶ原合戦の折、徳川方に属した山形に会津上杉方の部将米沢城主直江山城守は、大軍をもって来襲し、すでに落城の危機に直面したが、義光みずから陣頭に立って勇戦敢闘し、山形城を死守した。その功により庄内三郡、秋田由利郡を与えられ、いわゆる「出羽百万石」の一大領国を築きあげ、東北第一の大名となった。 その府城として大規模の山形城を構築し、城下都市建設に力を注ぎ、まず城外に商業街を設定しまた工業職人街を特設して、諸役務を免除するなど人口の集中と民生の安定をはかった。さらに最上川を改修して舟運の便を開き灌漑排水路を開拓して新田造成を促進する等、産業の振興、物資流通の基礎を築き、神社、仏寺を尊崇保護して民衆教化に寄与すると共に、建築、美術、文学など各方面にわたって中央の文物を導入し、草深い出羽の国に文化の華を咲かせた。のみならず自ら深く連歌をたしなみ、文の面においても第一級の才能を示した。 慶長十九年(一六一四)正月十八日、六十八歳をもって山形城に没し、殉死の家臣と共に市内光禅寺に葬られ、また紀州高野山に壮大な五輪供養塔が建てられた。大正十三年二月十一日、生前の大きな功績が認められ、正四位を追贈された。 いま山形市は、東北内陸における広域経済中核都市として、輝かしい発展と隆昌を続けているが、その都市基盤は全く最上義光の建設に負うものである。かかる恩沢を受けた山形市民は、あつく遺徳をしのび顕彰会を組織し、山形城跡に馬上の勇姿の銅像を建立して、逆境に負けず明日へ向って進みゆく山形の繁栄を象徴するとともに、その治績を永く後世に伝えんとするものである。 昭和五十二年十一月三日 最上義光公顕彰会

 

最上義光公勇戰の像(現地説明板より)

慶長五年(西暦一六○○年)の秋九月 怒涛の如く攻め寄せた上杉方の謀將直江山城守のひきいる二万三千余の大軍をむかえ 自ら陣頭に立って指揮奮戰し敵を撃退してよく山形を死守 した山形城主最上義光が決戰場富神山にむかって進撃せんとする英姿であり 鎧兜は時代考証にとらわれず表現したものであります。 右手にかざして持っているのは鉄の指揮棒で 清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光 と刻んであります。 銅像をとりまく縁石は山形城三の丸をかたどったものであります。 最上義光公顕彰会

 

本丸一文字門石垣復原事業(現地説明板より)

霞城公園の沿革

山形城は、南北朝時代の延文元年(1356)、斯波兼頼が築城したのが始まりとされており、文禄年間(1592〜96)、最上義光によって拡張整備された城である。本丸、二ノ丸、三ノ丸の三重の堀をめぐらし、現在の山形駅、七日町までを含む面積約240haの全国有数の規模を誇る平城であった。最上義光は、関が原の戦功により加増され、57万石の大大名となり領国を治めた。 明治29年(1896)、二ノ丸内に歩兵32連隊が設置され、その時本丸の石垣、堀が埋め立てられてしまった。終戦後昭和23年(1948)、山形市が国から払い下げを受け、スポーツ・文化施設を整備し、霞城公園として市民に開放された。現在公園となっているのは、山形城の二ノ丸内で、堀と土塁、東西南北にそれぞれ門の石垣が残されており、昭和61年5月に、国の史跡に指定された。

壮大なロマン

昭和54年に、市制施行90周年記念事業として、霞城公園の歴史的価値を見直し、山形の歴史のシンボルとなる公園に整備することにし、水が涸れ空堀となっていた二ノ丸西堀に再び水が湛えられた。かつて本丸にあった御殿や門、隅櫓、堀、土塁など山形城の勇姿の復原を図りながら公園の再整備を行う壮大なロマンが始まったのだ。 平成3年3月には、着工以来4年の歳月を費やし、日本古来の伝統的建築様式により二ノ丸東大手門が復原された。平成8年には、本丸の大手門である一文字門石垣の発掘調査を行い、運動公園の土中から櫓や桝形、橋の石垣が、およそ100年ぶりに再びその姿を現した。平成10年度から、その石垣の修復・復原工事に着手し、櫓や桝形の石垣、堀とそれに架かる木橋を復原する計画である。

さがしています、古い写真

石垣の上に建つ一文字櫓を復原するには、霞城公園が国の指定した重要な遺跡であるため、二ノ丸東大手門を復原した時のような写真資料や建物の実測図など歴史的資料の裏付けが必要となる。山形市では、一文字櫓を復原するために、これに関わる写真をさがしているところです。  あなたは、もっていませんか?古い写真。  山形市公園緑地課

 

 

本丸一文字門石垣復原工事(現地説明板より)

復原工事について

現在工事中の個所は、山形城本丸大手門(通称一文字門)の石垣です。 山形城本丸の石垣や堀、土塁は明治期に取り壊され埋め立てられてしまいました。しかし、二の丸の石垣や堀、土塁は現存しており、これらかけがいのない文化遺産を将来にわたり保存し、霞城公園を山形城跡にふさわしい公園とするために「霞城公園整備計画」を策定しました。 本丸一文字門石垣復原工事は、「霞城公園整備計画」に基づいて実施しており、発掘調査を行い、構造や建築技術を解明しながら文化財としての価値を損なわないよう石垣や大手橋の復原を行っていく計画です。 また、櫓門については、今後史実調査を重ねながら復原に向けて検討をしていく計画です。

霞城公園(山形城跡)について

霞城公園は、市街地のほぼ中央に位置し、昭和61年に国の史跡指定を受けた約35.9haの面積を有する山形城跡の都市公園です。 歴史をさかのぼると、1356年頃斯波兼頼が築城したのが始まりとされています。その後、子孫の最上義光時代に三重の堀を有する壮大な城に拡張し最盛期には、57万石の大領国になりました。最上氏改易後、鳥居忠政により大改修(1623年頃)されたと伝えられ、現在の霞城公園の堀や石垣は、この頃の姿を示すものとされています。 山形市

国指定史跡 山形城跡(現地説明板より)

山形城は、山形へ入部した斯波兼頼が延文二年(一三五七)に築城したもの、と伝えられています。これを最も大きい規模に構築したのが山形城主最上義光で、文禄年間(一五九二〜一五九五)のことです。城は本丸・二の丸・三の丸を有する平城で、その規模は東西一四八〇M、南北一八八一Mに及んだと言われています。まさしく平城としては全国有数の大きさでした。ここ歌懸稲荷神社境内の西側に残る土塁は、三の丸の東南方の十日町口に南接する部分にあたります。昔を偲ばせる樹木が繁茂しており、東側には堀跡が窪みとなって残っています。現在は、二の丸の区域内(霞城公園)とともに、山形城跡として国の史跡に指定されています。 山形県教育委員会山形市教育委員会

山門(萬松寺山門の現地説明板より)

山形開城の祖斯波兼頼公(足利時代延文年間)が建立せし霞城(山形城)の大手門(南門)である 最上義光公(戦国時代天正年間)が城堀を改造し石垣城とするに当り旧城門に黒印六十石を付加し當山へ寄進された門である  山門上の額「千崴山」(崴は山冠)は上杉鷹山公の師細井平州の筆

千崴山 萬松寺