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天童陣屋絵図(天童市立旧東村山郡役所資料館蔵)天童陣屋堀跡(昭和20年代)(天童の生い立ちより)
大手門跡にある絵図(03年11月)(T氏撮影) 大手門跡付近の喜太郎稲荷(03年11月)(T氏撮影) 天童駅から南側一帯が城址。駅前から温泉街へ向かう道がにぎやかだ。 織田信長次男信雄の子孫、信学が二万石で入封し、文政9年より工事着工、平地に陣屋を構えた。東西五十四間、南北七十五間、周囲に堀をめぐらし、三箇所の出入り口があり、外周に家臣団の屋敷を配し、それらを外堀が取り巻いていた。外堀で取り囲まれた地域はかなりの広さであり、原則として家臣団の屋敷地となっている。現在の陣屋跡は町の中に飲み込まれ、何も残ってはいない。 上の写真は左が絵図で右が昔と今の現状。下の絵図の北が右上方向になっているので、比較する時は注意してください。上の絵図を基本に下の絵図が描かれている。 明治維新では家老吉田大八が奥羽鎮撫使先導代理を命じられ、官軍の先鋒を担うが、時早すぎて庄内藩に陣屋を焼かれる。この時、天童城下は半分ほど焼失。やむなく奥越列藩同盟に加盟するが、責任を問われ大八切腹。弱小藩の運命か。 維新後、舞鶴山に織田信長を祭神とする建勲神社が祀られる。春の祭礼では町を維新軍楽隊が笛と太鼓で練り歩く。 天童名産将棋駒は、江戸末期に藩が藩士に奨励した内職。天童市立旧東村山郡役所資料館には、織田家に関する資料がそろっている。 明治七年(1874年)織田城郭内(外堀内)に一般人の住居を許可した。以来この郭内を田鶴町と証した。(大字天童乙番地となる)(現地説明板より)
喜太郎稲荷神社由来 御祭神 稲倉穂神 天平神護二年(七六六)和気清麿の三男仲安神社を創立、その末子喜太郎山城国伏見稲荷より御位を請して奉安、これより喜太郎稲荷神社と称したと伝えられている。 南北朝時代舞鶴山頂に城をかまえた天童氏がその祈願所として御朱印を献じ厚く信仰したという。 時代はくだって天保元年(一八三○)この地に城池を築いた織田家が氏神として御陣屋に奉祀したのが当田鶴町の喜太郎稲荷神社である。 昭和五十七年 喜太郎稲荷神社氏子(神社説明板より)
天童織田藩 調武館・稽古所跡(現地説明板より) 織田信長の後裔信美(のぶみ・のぶかず)は、天保元年(一八三○)に御陣屋を高畠から天童に移した。 この場所は御陣屋大手門の所にあたり、当時、北辰一刀流道場「調武館」と稽古所が置かれ、藩士が武術に励んだ。 その後、明治期に入り、この辺り一帯は田鶴町となって、この地に戸町役場が置かれ、天童町政の中枢となったが、今も“元役場”の名残りがある。 昭和六十三年十月 天童市教育委員会
織 田 信 長 公(建勲神社境内説明板より) この地に鎮座まします建勲神社は、天童織田藩の始祖織田信長を祀る。 信長公は、大義を奉じて中原に駒を進め、群雄割拠して乱逆極まりない乱世を鎮めて疲弊絶望の民を救い、新しい秩序をうちたてて日本に近代化の灯をとぼし、一大覇をもたらした傑出した武将であり偉大な経世者である。 河川・堤防の改修、道路・橋の開設、関所の撤廃、楽市・楽座を設けて市場を開放し商人の自由な活動を促進させ、だれでも仕事や営業を自由にできるようにし、城下町・門前町などを繁盛させて貨幣の円滑な流通をはかり、商業の発展、民生の安定と産業の振興に意を注いだ。さらに外国との交易を積極的に進めて、学問・技術・芸術・文学を飛躍的に発展させるなどその功績は極めて大きく、日本の近代化に大きな役割を果した又、皇居の修理をはじめ、皇室の経済の援助、伊勢神宮、熱田神宮の修理、祭典の再興など尊王敬神の念のあつい人物であった。 信長公は、民生の安定、社会開発、文化の興隆と日本の独立に大きく貢献した世紀の英雄であり国家安穏、生産増強、商工繁栄の神としてたたえられる。明治二年十一月十七日 健織田社(たけしおだのやしろ)の神号を宣命下賜される。明治三年十月十七日 宣下により建勲神社と改称される。明治三年十月 織田家第十二代天童藩知事織田信敏この地に神域を卜し神社を創立す。
天童陣屋跡地公園にある石碑表面 従四位子爵織田信恒□額 天童藩據山河形勝固奥羽要樞之區□王政維新之際罹兵燹今僅存其迹己天童養正會員相謀鳩費立碑掲藩主三世 □□□□□□□□忠蔵□文忠蔵亦為會員安得以不文辭乎藩祖恭徳公信美系出孑贈太政大臣織田ハ見公信長元 □□□七月公□□徳公信雄封□上州小幡八傳至浄翁公信邦坐山縣大貳倡尊王説去位介弟瑞岡公信浮嗣立移封 羽州高畑□□世子□徳公承祀□若狭守叙従五位下文政十一年五月移鎮天童即藩祖也食二萬石審度地勢經始城 □□□□□二郭□以塁壕方十四町歩布列邸第區割井然建學堂奨励文武之道而治民有恵政以天保七年八月四日 □年四十四世□□徳公□□□封□伊勢守叙従五位下承先公緒業銃意□治以暇講荷蘭學頗審中外形勢學堂更名 □□□□□□則毎以明大義名分為志挙参政吉田大八督養正館當尊王攘夷論興也大八首倡尊王之説以鼓舞士気 □□□□明治元年正月朝廷召公公適在病□世子高壹公信敏入覲天荷恩綸叙従三位下兵部大輔時命為奥羽鎮撫 □□□□徳公□□□□□□□□□□従四位世子襲封四月十九日鎮撫副使澤公為量至天童大八代為先導而陣新 □□□大八督軍□四月三日賊軍□□天童隔最上川□戰甚烈翌日賊大擧渡川面至我軍奮戰死傷相踵賊乗機縦大 □□□□是月廿二日公日京師□□西奥羽諸藩連盟成□制天童急□公深憂之會諸臣日□勢□山我獨不可晩陽奥 □□□□官軍来援不亦可□議即決大八不従□節而死亂牛二年六月奉□封土任藩知事十一月勅賜太祖ハ見公神 □□□織田□乃営□□舞鶴山明年更賜號曰建勲神社四年七月廃藩置縣□□□貫属東京十七年七月授子爵廿四 年二月□□□□□□年七十三公服□□□□□□除□□□□□□卅四年六月六日叙従三位□日薨年四十九生一 □□子爵相馬公子□□□□即□従四位公□□藩主三世□□□□□□□□公則□年少之□□□□□□□□□□ □□□□□□□□□□□□□□□□王師□□□□□□□不□□所□保□□而全□□□□□□□□藩祖□□□ □□□□□百年□□□□□□□闇境生霊□□□□□安知年三世□□恩□□□□□□□□□□□□三世遺徳如 □天童養正會□□□□□田鶴町之稲荷祠前稲荷□□和気□□之□□太□□□而藩主□□□□□□ 大正十二年□□癸亥四月 舊天童藩臣従六位勲五等佐々木忠蔵 □は判読不能(ご存知の方あればご一報下さい)
推薦図書 → 高橋克彦著「広重殺人事件」講談社刊 |