鶴岡城
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本丸の護国神社と堀(08年11月)

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鶴岡市の鶴岡公園が城地。周りは官庁や学校が建つ。二の丸、三の丸の一部を利用したもの。現在二の丸本丸が公園となり、本丸には本丸御殿跡に荘内神社が、隅櫓跡に護国神社が建つ。土塁もかなり残る。堀では冬の渡り鳥が遊んでいる。百間堀から二の丸、大寶館から本丸に入り、護国神社、土塁、櫓台、荘内神社と見て廻ったが、東北の押さえに位置した、譜代酒井藩の力を見せるにふさわしい規模である。ここも山形県に多い平城であり、幅広い堀などがあるが、実戦的というよりも政治に中心をおいた造りの様に思える。わが故里、天童陣屋がこの庄内藩に焼き討ちにされている。敵地に乗り込んだような複雑な心境である。

鶴ヶ岡城のうつりかわり(現地説明板より)

鶴ヶ岡城は古くは大宝寺城とよばれ鎌倉期以来戦国期まで庄内に君臨した武藤氏の居城であった。天文年間(1533年頃)兵火のため武藤氏は大山の尾浦城に居を移し当城はその支城となった。天正15年(1587年)武藤氏が滅び庄内は越後の上杉氏に次いで慶長6年山形の最上義光の支配するところとなる。慶長8年(1603年)大宝寺城は義光の隠居城として修復され鶴ヶ岡城と改称する。元和8年(1622年)最上氏が領地没収となり、その後信州松代より酒井忠勝が入国、庄内14万石(幕末17万石)の居城として整備拡充された。酒井氏は徳川幕府の譜代大名として明治4年まで約250年間庄内を治める。戊辰戦争において新政府軍と戦い降伏。明治8年(1875年)鶴ヶ岡城解体。本丸、二の丸が公園となり本丸跡に荘内神社が建てられた。今では公園のお堀と土塁、お城稲荷の森に、僅かに当時の面影が偲ばれるにすぎない。