高擶城
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高擶城二の丸大手門口跡に建つ石碑(08年11月)

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天童市高擶地区の中心に城址がある。昭和40年代までは内堀も残っていたが、今は皇太神社(城の守護神)付近に本丸の雰囲気が残る。楯之内公民館入口に城址石碑がある。方形をした平城で、周りに寺院群を配してはいるが、単独で戦える城ではない。天童山城と連携した戦いを想定して造られたもの。南朝方の大江氏に対して、山形城に入った出羽国按察使斯波氏二代直家四男義直が入った。始めは旧街道の「楯の城」付近にあり、その後高擶地区中心地に移っている。父の実家が堀端と呼ばれた内堀の辺にあった。子供の時よく連れて行かれたが、家の前にまだ広い内堀が存在していた記憶がある。父の先祖は、仙台の方から来た殿様に従った別当であると言う話をしていた。史実からすればそういう殿様はいない。楯の城が伊達の城と変化し、文字から仙台と勘違いして伝承されたのかも知れない。近くに伊達城という史跡もあり、こちらも高擶城の前身という説がある。伊達氏との関係がある伊達城主に従ってきたのが先祖かも。その時代、伊達氏の拠点は仙台方面にはない。山形県内に居城はあった。伊達政宗も米沢で生まれている。伊達家と最上家の結びつきも多々ある。天童城落城も裏で伊達氏が糸を引いていたとの伝承もある。この辺が史実に現れない事実なのかも。

高擶城跡(現地説明板より)

高擶城は、最上氏二代斯波直家の四男義直が応永年間(1410年頃)に館を築いたのが創始といわれ、文明年間(1470年頃)以降天童城の支城高擶城となり、遺構図に見られるような城郭に整備された。  江戸時代の初期は、山形最上氏の家臣宮崎内蔵丞(四千石)、次に斉藤伊予守(五千石)が城主として在城したが、元和八年(1622年)最上氏の改易とともに廃城になった。なお、幕末に館林城主秋元氏の陣屋が二の丸の西側に置かれ、明治維新まで家中屋敷と呼ばれておった。  高擶城は、立谷川扇状地末端部の微高地に立地し、方形輪郭式の平城で、その規模は、本丸東西約四○間、南北約五○間、二の丸東西約一一○間、南北約一五○間、その外側に北方を除いて三の丸があり、さらに四の丸もあったと推定され、二の丸は昭和四十年代まで堀に水がたたえられ遺存しておったが、現在宅地として埋められ、その面影を失いつつある。