楯の城
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楯の城推定地遠景(10年3月)

その他の写真

県立運動公園の南西に芳賀「楯の城」という字がある。国道13号線を挟んだ西側に元諏訪神社が公園になっている。この東側を横街道(旧羽州街道)が通り、ちょうど天童城城下町の入り口を押さえた立地である。南北朝時代に北畠天童丸が山形城の斯波氏と対峙しており、天童城下を守る重要な位置である。もともと横街道沿いに北目、芳賀、清池などの集落があり、横街道が廃れると共に各集落も現在地に移ったものと推察できる。この「楯の城」が高擶城の前身という説もあるが、これはこれでいいのではないか。楯の城は北畠天童丸と共に滅んだと捉えた方が自然で、高擶城は斯波氏により新しく築かれた城とする方が理解できる。今、付近を探索しても、それらしい元諏訪神社の由来と近くにある「元古屋敷」の木標があるのみか。

由緒の記(元諏訪神社の現地説明板より)

芳賀郷

運動公園の南西に、芳賀楯の城という所がある。土地の人は「だてのじょう」と呼ぶ。明治初年の字限図には、楯の城の地内に、濠らしきものを巡らし、堤塘(ていとう)という土塁に囲まれた、約三千坪の舘跡がある。平安時代中期の承平四年(934)、源順(みなもとのしたこう)が著した「倭名類聚鈔わみょうるいしょうじょう」によると出羽最上郡に、那可、山方、最上、芳賀、阿蘇、八木、山辺、福岡の八つの郷名が出てくる。この芳賀の中核は、楯の城周辺に広く点在した集落を含め、当時の行政の最小単位である郷を形作り、山寺立石寺の門前集落としても賑わっていたらしい。倭名類聚鈔には、同じ芳賀郷が北関東以北に五つある。先進地、下野国芳賀郡芳賀郷、今の栃木県真岡市あたりからの移民によって、開発された所だと言われている。芳賀の地は、この遺命を継ぐ所とされ、およそ千二百年の昔、律令によって行政された由緒を誇る先発の地とみることができる。

諏訪神社

南北朝時代、伊達伯耆守が南朝方の一将北畠天童丸を擁して、楯の城といわれる所にいたという言い伝えがある。芳賀の諏訪神社は、そのとき信州諏訪から、勧請されたものだ。明治初年に、稲荷神社と十二木神社が合祀された。****中略****神域の周辺は、古住、湧水が豊富で、古代の移民が住み着いたことが容易にうなずける。芳賀の集落は、このあたり一帯に点在していたのだが、慶長のころから、西方に集中移住し現在に至っている。社叢には四本の楡(にれ)の大木がある。古語をタモまたはタマといい、豊饒の地に育つという。高擶(たかたま)の名に由来する種類だと言われている。 平成十年八月吉日 芳賀町内会 敬白

 

史蹟 此之付近 芳賀古屋敷之跡(現地木標文面より)

昭和六十一年十二月二十一日  工藤 富雄

今から約三百七十年程前の慶長年間に秋田藩主佐竹公により羽州街道旧国道十三号線が整備されるや、芳賀部落は現在地に移住された跡と伝えられ其の後、芳賀古屋敷の地名として名残りをとどめたのである。