天童城
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天童城古絵図(天童の生い立ちより)          城址にある天童山城址図(天童ライオンズクラブ設置)

天童城遠望(03年11月)(T氏撮影)         天童城遠望(1965年3月)(東側より撮影)

本丸跡(03年12月T氏撮影)                    井戸(03年12月T氏撮影)

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天童駅をおりると、目の前に舞鶴山(愛宕山)が見える。天童市のほぼ中央にある。駅からぶらぶらと山へ向かい歩くのも良し。タクシーで山頂の人間将棋広場まで行くのも早道。 南北朝時代に北畠顯家の孫、北畠天童丸(伝説上の人物)が築いたと言われている。その後、出羽按察使として山形に入部した斯波兼頼の孫、天童頼直が天授元年(一三七五)に城を構えている。戦国時代の天正12年秋、城主天童頼久は、隣の同族最上義光(山形城主)に攻められ落城、以後この地に城はつくられなかった。一説には、この城地があまりにも堅固なため、義光は本丸跡に愛宕神社を勧請し、城地に再利用されるのを防いだと伝わる。その堅固な城がなぜ落城したのか。疑問でもあり、矛盾もしている。それは最上義光の深謀術策がある。同盟軍の離反、家臣団の分裂工作にのせられ、さらに城を出ての戦いでは、頼久に勝ち目は無い。歴史にもしもは無いが、篭城戦が出来たなら、以後の歴史は大きく変わっていたことであろう。舞鶴山は独立しており、最高所が本丸、四つの峰々には出丸を構え八人の重臣が守り、麓には密教系の寺院をおき、全山が城郭となっていた。大手道の七曲(しずりまがり)、井戸跡、本丸跡、出丸跡が現存するが、一部公園化が進み、変形著しい。

小生はこの城の麓で生まれた。目の前に聳え立つ小高い山を、朝な夕な目にして育ち、山の名前が楯山という事に異を感じていた。その楯山は舞鶴山の支脈の一つである。山頂は平坦地で畑地になっていた。この楯山自体が小生の遊び場の一つであった。今思えば、山頂の畑地は支城の跡。そういえば掘り切りらしい場所も残っていたように思う。ここは現在でもよく保存されている所である。もう一方の支城は山頂が跡形も無く削り取られてしまった。明治期に湧出した温泉のため桜が植えられ、さらに人間将棋会場設置で変形した。祖父につれられ、教えられた井戸の跡。東側から眺めた舞鶴山の円錐形の山容、これらが小生の原点になっている。今も古城を探索している出発点でもある。

 

天童古城址(人間将棋会場にある説明板、天童ライオンズクラブ設置)

  舞鶴山に、最初に城が築かれたのは、南北朝時代の頃、南朝方の柱石、北畠親房の末えい北畠天童丸が、吉野朝興隆のため、村山盆地を一望するこの地に、居を構えたのが初まりといわれている。  その後、北朝方の勢力が強まり、天授元年(一三七五)に、北朝方の成生荘の荘官、里見頼直が、成生からこの地に城を移し、さらに堅固な山城にした。  この城は、全山を自然の城塞としたもので、周壁は、自然の侵蝕に任せた典型的な山城であった。山頂に本丸を構え、これを中心にして、西方の峰々には、八森楯、小松楯などの補助楯を設け、重臣を配し守備させた。大手門は山の東方、搦手口は西方に在って、北目や小路には、それぞれ武家屋敷が建ち並び、門前には市が建つなど、活気ある城下町を形成していた。  領主は代々、天童氏を名乗り、山形最上氏と肩を並べる奥州の名門として、その威容を誇ったが、十代頼久の時代に、義兄の山形城主最上義光に攻められ、壮絶な戦いの末、天正十二年(一五八四)十月十日、ついに落城し、頼久は、伊達家の家臣国分氏にのがれた。ここに、初代頼直から数え、二百九年間の長きにわたる天童山城時代は終わり、以後この地に再び城が築かれることはなかった。  その後、天童は最上家の所領するところとなり、義光は山頂の本丸跡に愛宕権現を祀り、戦死者の霊を慰めるとともに、一族の安泰を願ったが、その最上家も天童落城から三十八年後の元和八年(一六ニニ)徳川幕府によって改易となった。  尚、八幡山の南麓の古戦場には、天童方の戦死者の墓があり、四百年記念碑が建てられている。    「天童の生い立ち」より  天童ライオンズクラブ

 

天童古城  主郭跡(現地説明板より)

  天童古城は、全山が中世山城で、県内随一の規模をほこる。いたるところに削平された平場やそれをめぐる曲輪をみることができる。  もっとも高所のこのあたりが主郭であった。かつてはこのあたり一帯に建物が建ち並び、東側の一段高い場所には櫓があった。曲輪には古井戸が残っている。  周囲には急な崖(切岸)がめぐり、その下方には帯曲輪がとり巻き、さらに段状にいくえにも曲輪が連なる。虎口が愛宕神社参道あたりに開き、西側の尾根を登りつめたところにも出入口があったらしい。  天正十二年(一五八四)10月、南北朝期以来この地を支配していた天童氏は、最上義光に攻められ落城した。       平成十二年十月一日    天童市教育委員会

 

天童古城  物見やぐら台跡(現地説明板より)

  中世城郭の主郭には、城をめぐる櫓が設けられていた。敵方の動きや入城者をさぐるために、見通しがよいところに高台を築き、その上に木造の高い櫓を組み監視にあたった。  上山市中山城には石積みの櫓台が残り、大江町左沢楯山城の山頂部でも櫓跡が発掘されている。  おそらく土を盛って高くもり上げたこの場所に櫓が組まれ、城主のいる主郭から周囲の情況を偵察したのであろう。櫓台のまわりには、柵などがめぐっていたものと思われる。     平成十三年十二月一日    天童市教育委員会

 

天童古城  曲輪(郭)群(現地説明板より)

  城の中心部を本城(本丸)というが、二の丸、三の丸にあたる区画された平坦地を中世では曲輪という。  山城では斜面を平坦にして、防御に備え、周りは高い壁(切岸)を設けた。これらは本城(主郭)をめぐり細長く帯状にまわるもの、ゆるい斜面に階段状に何段かにわたって配置されるものなどがある。主郭から北側にむかって設けられた部分の曲輪群は10段にわたって連なる。  天童古城は、多くの上下に階段状に連なる曲輪群が特色である。とくに愛宕沼東の尾根にみられる曲輪群はみごとである。     平成十四年九月一日   天童市教育委員会

 

天童古城  石組古井戸跡(現地説明板より)

  天童古城には、それぞれの曲輪(郭=防御のために設けられた平坦地)に井戸をそなえている。水は食料とともに、籠城のためには、不可欠であった。  この井戸は、凝灰岩の切石によって井戸わくを造っているが、下方は礫石積みによって構築されている。井戸わくは後補の可能性もある。おそらく井戸には上屋があり、まわりは平坦地をつくり、井戸郭を構えていたのであろう。  主郭を一段下がった南側の郭にも古井戸がある。     平成十三年十二月一日   天童市教育委員会

 

小路喜太郎稲荷神社(現地説明板より)

  祭神は稲倉魂神であるが、天正年間に天童・最上との戦いの中で、天童氏家臣の狐崎喜太郎が幻術をつかい最上勢を悩ませ、更に敗戦により天童氏が逃げのびるのを助けたとの伝説あり、この喜太郎を祀った社である。      平成三年四月    天童市教育委員会

 

愛 宕 神 社

  天正十二年十月十日(一五八四)舞鶴山上の天童城は、最上義光によって攻略され、城主天童頼久は仙台領に逃れた。義光は直ちに城址の山頂に愛宕神社を造営し、社領一三七○石を寄進し、祭神として勝軍地蔵を安置した。社殿全体(慶長八年再建)市指定文化財。

天 童 神 社

  少彦名命と北畠天童丸を祀る。南北朝時代(十四世紀)南朝方の重臣北畠氏の一族である天童丸はこの地を根據として活躍したが、後敗れて津軽鰺ケ沢に遁れた。    天童市 天童ライオンズクラブ

 

天 童 神 社

  天童神社の祭神は少彦名命である。少彦名命は「古事記」の中に「大己貴命とともに国づくりにはげんだ」とあり、国土創造神として古くから信仰された神である。また、少彦名命が渡ったという常世の国は、海の彼方の理想境で永遠不変の寿命と穀霊の国である。舞鶴山上のこの天童神社の創建は明らかでないが、国づくりの創造神として、また豊穣をもたらす穀霊神として、この地方の人々が信仰し祀ったものであろう。のちに南北朝時代、舞鶴山に城を構えた北畠天童丸も合祀された。  なお、この地に、天から二人の童子が舞い降りたことから「天童」の地名が起こったとの伝説が残っている。      平成十二年十二月一日   天童市教育委員会

 

記 念 碑(本丸櫓台に建つ)

  愛宕神社ハ出羽守少将最上義光國家鎮護領内安全ノ為天正十二年十二月二十四日ノ創建ニ係カル國守領主ノ尊崇厚ク朱印地社領千三百七十石ヲ賜ハリ村山地方百八ケ村ノ總鎮守トシテ末社三十八社ヲ有セシカ時世ノ推移制度ノ變遷ニ依リ社禄ヲ失ヒタルヲ以テ神守並氏子惣代ヲ初メ氏子一同ハ基本財産増殖ノ念息マサリキ時ニ大正八年今野九右エ門氏ノ主唱ニ因リ神社関係者協議ヲ遂ケ國有林等賣拂下ノ許可ヲ受ケ社有財産ヲ増シタリト雖尚財政豊ナラサリシカハ大正十四年神社事務雇遠藤松蔵氏首唱ノ下ニ朝鮮ニ於テ創始家産公益財団五万圓造成貯金會ニ加盟スルコトヲ決議シ其筋ノ認可ヲ得神社現在ノ基本金ナル郵便貯金額ノ内ヨリ三百六十圓デ五万圓造成基金トシ更ニ郵便据置貯金ニ預換ヲ為シ右貯金會ニ加盟ス茲ヲ基本金造成由緒ヲ誌シテ永遠ニ遺ス     一、五万圓造成基金積立額、金三百六拾圓         一、郵便据置貯金通帳記號番號年月日        朝据ぱ第○貮壹四五號      大正十四年七月十七日        一、貯金預入名義人    懸社愛宕神社

 

八幡山古戦場跡(説明板より)

天正十二年(一五八四)舞鶴山を居城とする天童城主天童頼澄(頼久)と、山形城主最上義光との戦いが始まった。難攻不落といわれた天童城であったが、義光の策略によって味方の一角が崩れたために落城した。 頼澄が陸奥に逃れた天正十二年十月十日、最後の決戦を挑んだ。この時、本陣を「梨の木清水」に置いたが、この地八幡山の戦いにおいて敗れるに至ったという。 平成三年四月 天童市教育委員会

 

「梨木清水」天童頼久最後の本陣跡(現地説明板より)

天正十二年、山形城主最上義光の攻勢にあい天童城を出た頼久(後の頼澄)は、舞鶴山を下り、この地に最後の本陣を構えて決戦に及んだ。  天童市教育員会  平成元年六月

 

 

天童史跡 八幡山古戦場址 浩良題曰(八幡山古戦場に建つ石碑表面)

題字川崎浩良

此の地は今より凡そ四百年前天正十二年十月十日天童城主里見頼久山形城主最上義光と戦い破れて止むなく奥州に落ち延びし時残りし家臣天童を捨つるに忍びず防戦につとめしが孤立敗戦となり 主君累代の墓前に死地を求め潔く最後を遂げし実に由緒深き所なりこの戦いにて討死にしたる敵味方七百五十余騎と称され山口川原子の敗戦と共にその凄惨さを偲ばる 爾後荒廃のまヽなりしが時の勇士三瓶六郎則政の子孫三郎氏が墓地の整理にあたり昭和三十二年有志者の賛同を得更に宮城県多賀城市より天童頼信氏一行を迎えて大供養を行なう以来旧主を慕いての墓参供養を年中行事とし茲に四百年忌にあたり有志の協力により記念の址碑を建立し後世に伝えんとするものなり

昭和四十九年十月十日 天童史跡八幡山古戦場址保存会

撰之 須藤重治 今田宝水書

 

推薦図書 → 山形新聞社「ふるさとの城」郁文堂書店刊