伊達城
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城址ゆかりの伊達城稲荷神社(09年3月)

JR「漆山駅」東約1.5km、山形刑務所南、伊達城稲荷神附近。周辺は土地改良区後、宅地造成されて住宅地に変貌。当時の名残りは何も無い。ただ稲荷神社に伊達城の由来が掲げられていた。伊達氏と最上氏の対立関係がよくわかる。伊達氏が滞陣した所から伊達城という名前になり、まあ、それらし土塁や堀が存在したのだろうと想像するのみ。大永元年七月に最上義守が伊達稙宗と共に、寒河江孝弘と八幡原で戦っている。前年には上山城主上山義房が最上義守にそむき、天童・高擶諸氏も同調、伊達稙宗は芦名氏と共に上山城を攻略し、天童高擶城を攻撃している。敵味方、複雑な関係が読み取れる。また別説に北畠天童丸に従ってきた伊達一族の舘跡とも、斯波(最上)兼頼が家臣、伊達伯耆守をこの地に配したとも。

 

伊達城稲荷神社(現地説明板より)

由緒 創立年月日 大永元年 旧社格ナシ

大永元年(西暦1521年)伊達稙宗(たねむね)は、上山・山形城を後略し、漆山伊達城に本陣を置き戦の指揮をとった。その時稙宗が陣内に稲荷神社を祀り領民に崇拝させたと言われる。後に伊達家は仙台に移封となり伊達城は廃虚となったが、石の万年堂は、附近の農民達によって祀られてきた。昭和三十三年から大規模な区画整備、宅地造成工業団地誘致事業が実施され一帯は近代的な住宅地へと変貌した。昭和四十一年に有志が境内地171m2を買収し、四十六年には本拝殿建築委員会を結成、五十三年に完成を見た。