高擶陣屋
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館林城内から分霊した尾曳稲荷神社(08年11月)

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天童市高擶地区の中心に陣屋跡がある。高擶城の本丸と二の丸の一部を利用している。館林藩秋元氏の采地陣屋として漆山とここ高擶に設置された。嘉永2年(1849)陣屋機能は漆山に統合され、郷学校(御屋敷学問所)として残るが、藩士家族が300名余住んでいた。領民の守護として館林城内から分霊した尾曳稲荷神社が、陣屋跡に今もひっそりと佇み、側の公園には石碑もある。陣屋表門が移築され、山形市三日町の梵行寺山門として残る。陣屋門として堂々とした風格だ。この寺には田山花袋外祖父の墓もある。平成13年に天童市と館林市が「観光交流都市」の調印を結んでいる。文豪田山花袋の母「てつ」は秋元藩士の娘として、ここ高擶陣屋で生まれている。花袋も母の面影を胸に、この地や梵行寺を訪れている。

秋元藩高擶陣屋跡(現地説明板より)

山形城主秋元藩十代志朝(ゆきとも)が、上州館林に転封後、飛地領を支配するため高擶に一八四六(弘化三)年から一八四九(嘉永二)年まで陣屋を置いた。廃止後、郷学校として利用。また、敷地に家屋を新築し藩士を送り三百人前後の家中衆が、明治維新まで居住する。(荻野和夫著書より)     高擶地区地域づくり委員会

秋元藩高擶陣屋跡石碑碑文

館林藩(群馬県)陣屋跡地  在陣弘化二年(一八四五)から明治維新まで  明治二十七年(一八九四)明治の文豪田山花袋が母の故郷高擶(陣屋跡)を訪れる             天童市長 遠藤 登書

梵行寺山門右手にある田山花袋の碑

 あし曳きの山ふところにねたれども猶風寒し落葉みだれて
 いかにもさみしい生保内の一夜であった。
 それは丁度日清戦争時代で、国旗が山際の村の藁屋にかけてあったりした。
 帰途は山形に出て、母の故郷を訪ひ、月山の姿にあくがれ、山寺の勝を見て、山形市では祖先の墓を十日町の梵行寺に展した。
 それから 上の山へ出て、金山峠を越え、山中七宿を経、渡瀬の材木岩を見て、翌日は福島へと出た。

東京の三十年(1969年(昭和44年) 建立)

*(当時は十日町で現在は三日町に住所名称が変わっている)

 

天童市にある文学碑文面

「あわれわが稚き頃より母にも聞き、書にも読みて夢寐にもすがたを思わざる事なかりし懐かしき月山の姿は、さながら雲晴れ、気澄みたる地平線の上に美しき月輪がその三分の一をあらわしたるものの如く、極めて面白く、わが眼前にあらわれ出でて見ゆるにあらずや。

夕日影暮れなんとする大空に 月の山こそ顕はれにけれ

 光とわが心を動かしたるは名も無き高擶村一帯の平地なりき。母君はかつて此処に青春花のことき時を過ごし給ひしと思ひは、平凡なる里川も何の面白味もなき平原もみな我が心には一種の新しき思いを誘う科とならぬはなかりき。」

「続南船北馬」より抜粋

 田山花袋の母(てつ)は高擶に生まれた。てつが二十五歳頃までの青春の日々を高擶で過ごしたことから、「生まれ育った故郷である高擶の風物や子供の頃の遊びを懐かしく思い出し、幼い花袋によく語って聞かせた。」と言われています。  花袋の作品「続南船北馬」では、明治二十七年、花袋二十四歳のときに、高擶を訪れることを目的に東北方面を旅して、月山を眺めた感想が述べられています。

続南船北馬の陸羽一匝の二より

十月の二十日には遅くも母の故郷なる山形の地に入る事を得るならん。其處はわが舊藩侯の曾て治めし所にて、國替になりたる後も、わが一家はその陣屋なる高擶の村にとゞまり、母は二十五歳の時までその村に住み、長姉などは實にその遠き寒き國に生れたるなりき。母は稚きわれを膝に寄せて、いかに多く其高擶の事を語り、いかになつかしくその故郷の事を言ひ給ひけん。ことに山寺の奇勝と月山の姿とはいたくわが稚き心を動かして、一度は必ずこの母の故郷を訪ひ、そのなつかしき昔をも偲ばんと思ひし事幾度なるを知らず。されば今回の旅行の重なる目的は、松島、八郎潟の諸勝にありと言へ、傍らその山形の一小村落を訪ぬるをまた楽しみの一つと為しき。われは路程を仔細に記して、十月の二十日頃には必ず山形の地に入るを得べくと追書して、その郵函に投ぜしめぬ。(原本より抜粋)

続南船北馬の陸羽一匝の四より

羽前の平野一歩ゝゝあらわれ来りぬ。やがて林を全く出でゝ、遥かにその夕日の金光に彩られたる平原を見たる時のわが興はいかなりけむ。我は殆どその時の情を状する事能はず。あはれわが稚き頃より母にも聞き、書にも讀みて、夢寐にも姿を思はざる事なかりしなつかしき月山の姿は、さながら雲晴れ氣澄みたる地平線の上に美しき月輪がその三分の一をあらはしたるものゝ如く、極めて面白く、わが眼前にあらわれ出でゝ見ゆるにあらずや。

   夕日影暮れなんとする大空に 月の山こそ顕れにけれ

 我は眼下に見ゆる金山の町に入りて、疲れし身をば休めんともせず、久しくその林の一角に佇立して、夕日の金粉を亂したる空に漸く紫に漸く黒くなり行くその懐しき山の姿を見るに餘念なかりき。  猶一日の後、我は恙なく母の故郷なる山形の地に入りぬ。山寺の奇勝、阿古屋の松の古跡もあれど、尤もわが心を動かしたるは、名も無き高擶村一帯の平地なりき。母君は曾て此處に青春花のごとき時を過し給ひしと思へば、平凡なる里川も、何の面白味なき平原も、皆我心には一種の新しき思ひを誘ふの料とならぬはなかりき。一夜此處に物を思ひて、あくる日は山形なる外祖父の君の墓に詣でしが、その夜酒田の地大に震ひて、人畜の壓死するもの殆ど數を知らずと後に聞きぬ。あゝわれにして若しかの海岸を傳ひたらんには、恰も其地震の時にあひて、一命をその絶海の畔に殞したらんも知られざりしものを。怪しきは運命の手にあらずや。(原本より抜粋)

明治27年(1894)10月22日17時35分に庄内地方を震源とするM7.3クラスの地震があり、死者726名、全壊家屋4000戸弱。

 

東京の三十年私と旅より

「あし曳の山ふところにねたれども猶風寒し落葉みだれて」いかにもさびしい生保内の一夜であった。それは丁度日C戰爭時代で、國旗が山際の村の藁屋にかけてあったりした。  歸途は山形に出て、母の故郷を訪ひ、月山の姿にあくがれ、山寺の勝を見て、山形市では祖先の墓を十日町の梵行寺に展した。それから上の山へ出て、金山峠を越え、山中七宿を経、渡瀬の材木岩を見て、翌日は福島へと出た。(原本より抜粋)