漆山陣屋
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陣屋跡の小公園(09年3月)

JR「漆山駅」北西約400m、漆山城二の丸の一部にある。館林藩秋元氏の采地陣屋。もともと幕府の代官所で延宝5年(1677)に設置。明和4年(1767)秋元氏が山形城に入り、弘化2年(1845)館林へ転封、その後分領として残された四万六千石余の采地陣屋として利用されたもの。戊辰戦争では館林本藩が薩長方、陣屋は奥羽越列藩同盟に組み込まれ、身内での争いとなる。その辺を「吹きだまり陣屋」高橋義夫著に見ることが出来る。戊辰戦争でのこのような悲劇は、ここ漆山陣屋だけのものではなく、他にも多くの悲劇をまねいている。ここ村山地方では庄内藩との戦いで、多くの犠牲が出ている。その後、陣屋跡には小学校が建ち、山形県農業試験場がきている。「漆山陣屋遺跡」と書かれた木標が建ち、脇に大正七年の「漆山營址碑」石碑がある。小公園となった広場脇に古い木造の建物がある。どう見ても小学校か試験場の建物。しかし、今度再訪する時まで存在するのだろうか。「吹きだまり陣屋」によると、3160坪余、四方が土手と堀でかこまれ、堀にかかる木橋から玄関まで130坪、その両側に馬場と松林がある。「吹きだまり陣屋」の勝沼清之允信紀は実在の人物で館林藩下家老(300石)で、反論がわかれ幕府方に味方し、ここ漆山陣屋へ蟄居させられる。明治元年10月25日、総ての責任をとり、上山藩大沼家にて自害35歳。一子五郎は日本郵船で船長となるが、明治30年日清戦争の際、澎湖諸島沖で遭難死亡40歳。その子清蔵は明治44年東京帝国大学医科大学を卒業して医学会に貢献、昭和38年に逝去。

 

漆山營址碑(現地碑文)

羽州漆山陣營係延寶五年幕府代官神尾某亦創建相傳此地古斯波滿直第三子滿頼所居天保十三年属我秋元氏舊封山形藩治弘化二年春朝曽祖考志朝君移封上州館林也尚存采地四萬餘石因再設陣營置郡宰以下吏卒數十人管之三年十月起工越明年六月竣成廰?囹圄修文肄武之所士?所住邸合畢備残?廢溝?就儼然成一??染識學校即故廰宇所存也明治戊辰奥羽諸侯連盟抗 朝閏四月賊軍?襲天童城城罹兵燹陣營所派之兵亦敗于蔵増援路忽然衆寡不敵?是郡宰寺陽和候機于他日不幾官軍大捷奥羽全?九條總督自秋田凱旋駐軍於陣營旬日以鎮地方二年六月 朝廷?諸候?封更革官制因廢郡宰以下諸職新置少參事及???三年五月官収我羽前管地属山形縣陣營随廢藩士等皆??春朝?者?陣營遺址之地一區茲建石勒其由庶幾永不歸湮晦云

大正七年五月         子爵秋元春朝選?書(?は判読不明文字)

漆山營址碑 (山形県史蹟名勝天然記念物調査報告第3輯(昭和3年発行)より)

羽州漆山陣營、係延寶五年幕府代官神尾某所創建、相傳此地古斯波滿直第三子滿頼所居、天保十三年属我秋元氏舊封山形藩治、弘化二年春朝曽祖考志朝君移封上州館林也、尚存采地四萬餘石、因再設陣營置郡宰以下吏卒數十人管之、三年十月起工、六月竣成、廰廩囹圄修文肄武之所、士庶所住邸合畢備、残堡廢溝、亦就儼然成一郭、今染識學校即故廰宇所存也、明治戊辰奥羽諸侯連盟抗 朝閏四月賊軍驟襲天童城罹兵燹、陣營所派之兵亦敗于蔵増、援路忽然衆寡不敵、於是郡宰寺陽和候機于、他日不幾官軍大捷、奥羽全平、九條總督自秋田凱旋駐軍於陣營、旬日以鎮地方、二年六月 朝廷允諸候納封、更革官制因廢郡宰以下諸職新置少參事及其下僚、三年五月官収我羽前管地、属山形縣、陣營随廢、藩士等皆就國、春朝邇者購陣營遺址之地一區、茲建石勒其由庶幾永不歸湮晦云。

大正七年五月      子爵秋元春朝撰并書    

徴證 漆山營址碑

沿革

弘化二年十一月、山形城主秋元志朝上野國館林城に轉封に際し、舊山形領の内四萬六千二百七拾餘石を領知し、陣屋を漆山に設置し事務を管理す。明治戊申の役假總督府を置かる、廢藩の後明治六年漆山學校に充つ、三十五年郡立染織學校、後山形懸立工業學校附設徒弟學校等の校舎に充てしが、大正十三年七月十七日全焼す。

 

勝沼精藏先生の嘆息

−杉浦重剛撰文「向阪兌之墓」−

塩澤全司,高橋

向坂兌(1853年4月〜1881年6月)は,明治維新に活躍した日本の法曹界の偉人である。28歳で夭逝したため,現在その名を知る人は少ない。向坂は佐野藩に育ち,明治3年に貢進生となり,大学南校に進み,東京開成学校で学び,学力優秀であった。入江陳重,岡村輝彦らとともに,明治9年に第2回文部留学生として英国に留学し,Middle Templeにて法律を学び,明治12年に英国の法廷弁護士・バリスター(barrister)の資格をとる。その後,ヨーロッパ各国を歴訪し,明治14年5月に帰国したが,肺結核のため,同年6月14日に他界した。夭逝を悼む人が多く,顕彰碑が建てられた。これは戦争で戦火に破損されてはいるが,今も龍巌寺に存在する。向坂兌の姉は「」といい,名古屋大学第三代学長勝沼精藏の祖母である。升は,夫・精之允が35歳で自害し,息子・五郎が40 歳で遭難死したため,孫の精藏と六郎を養育した。国際的な活躍をし,多くの人々を導いた勝沼精藏は,若くして他界した向坂兌の遺影を大切にしていた。(山梨医科大学紀要 第17巻,010-019(2000)より転載)