長瀞陣屋
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二の丸「下堀」で一番幅が広い(04年6月)

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JR奥羽線「さくらんぼ東根駅」で降り、西へ2km。応永年間(1394〜1427年)、山形城主満家の隠居城として築かれ、「雁城」と呼ばれていた。寛政十年(1798年)武州久喜より米津通政が一万六千石で入り、明治維新に至る。米津入封200年記念事業(平成10年10月)で陣屋跡もかなり整備されている。あえて陣屋と称したが、れっきとした古城である。長瀞の集落はこじんまりとまとまっており、四角に形作られた堀がよく残っている。西の堀はかなりの幅を持つが、現在も養魚場として利用されているからか。東から南にかけてはかなり原形を崩している。堀の内は家々が建ちこんでおり、狭い道が縦横にとおっている。当時の雰囲気はかなり残っており、同じような規模の天童陣屋が、壊滅したのに比べても保存状態は良好である。

 

横町(現地説明板より)

大手門に対してほぼ直角に向っている通りを横町という。 この通りは、明治の中頃まで、ここより東寄り、堀江氏の結城氏の間を通り、弁天様のところで二の掘ぞいに分かれ、陣屋の手前で行き止まり、左右に分かれて、楯の内となる。今の小川ぞいを見るとよくわかる堀江氏を角の家というのもそのためである。 城下町には、殆んど横町という名前がある。

 

下堀(現地説明板より)

二の堀で、最も下手にある堀で、堀巾も広く、約九間(十七米)もあった。 これより左手が中楯、右手が西楯という。西堀は狭いが、先年まで蓮の華が咲いていた。

 

陣屋(現地説明板より)

この一画を陣屋といいます。中世に構築された館の本丸で、一辺が六十三間(一一四米)の方形である。 寛永二十年(一六四三)長瀞村は幕府の直轄領となり、寛文二年(一六七一)ここに幕府代官所がおかれた時もある。 寛政十年(一七八九)米津通政(よねきつみちまさ)が武州久喜より入部し、長瀞藩一万二千石の居城となる米津氏は無城大名であるため、陣屋と称した。 それから四代目真政敏のとき戊辰の戦いに遇い薩長軍の戦火により居館すべて焼失した。 明治以後、民間に拂い下げられて現在に至る。周囲を楯の内という。

 

大手(現地説明板より)

この通りを大手という。陣屋の入口に表門があり、その名を大手門というところから、通称大手という。土田駒蔵の描いた陣屋の絵図の大手門と禅会寺の山門が似ているところから、明治のころ移建されたのではないかと指摘されている。陣屋内で使われた井戸が、横尾一美氏屋敷に今もある。

 

中楯(現地説明板より)

このあたりは、三の丸の守備郭であった。 青野俊雄氏宅屋敷先に中楯堀の底土が一段と高く盛り上がっていて、二の丸の向こう岸まで続いていた。 二の丸と三の丸をつなぐ隠し道といわれた。

 

雁(かりがね)城(ふるさとの城(山形新聞社編)より)

 雁城を築いたのは山形城主出羽按察使、修理太夫源満家と伝えられている。足利時代応永年間に満家が隠居の地として築城したものとされているが、一説には鎌倉時代にこの地方の豪族西根氏が築き廃館となっていたものを修築したともいわれる。地元に残っている古文書では城の威容を「一の丸最も深くして其幾十尺なるを知らず内岸に高く長堤を築き植えるに老杉、古松をもってす。故にうっそうたる樹木蒼々たる瀦水面面相映じ其幽遂閑静にし厳粛なる、一見人をして悚然畏懼の情いだかしむ」と記されている。余生を楽しむために満家が数奇をこらして築いたこともうかがえよう。本丸は辺百二十メートルで、平城としてもかなり大きく、またもっとも大きな特徴として四の丸の存在があげられる。ふつうは三の丸までだが、四の丸は中国の築城を模したもので、これは庶民の住居財産をも外敵から守るためだとされている。満家以後長瀞は山形領として治められてきたが、寛永二十年、長瀞一万一千石が幕府の御料地となり、尾花沢玉野の御料役所と代官が雁城にうつってきてから、長瀞ははなやかな御料時代をむかえる。寒河江、漆山、尾花沢には出先を配し、長瀞は村山地方の行政中心地として栄えた。この時代は御料役所が宮崎にうつるまで百六十余年つづく。その後を資料にみると、開田を奨励した城主や、ウルシ、コウジ、桑茶などの栽培がすすめられたり、また孝子や節婦が城主から表彰されるなど平穏な治世がつづいている。しかし享保七年には「長瀞一揆」としてひろく知られる事件があった。ことの起こりは、将軍吉宗のころ借財で疲弊した農民をよみがえらせるために幕府が借財棒引の徳政令を発布したことから長瀞の新兵衛、喜右衛門ら農民が、 ****中略****  寛政十年武州久喜より米津伊勢守正通が長瀞一万六千石の領主として赴任しやがて明治維新をむかえ、庄内藩の軍勢が慶応四年閏四月四日に天童藩を攻め城を焼きはらい、庄内藩に呼応した雁城は天童の吉田大八の報復によって全焼した。そのとき武器庫であった土蔵の開門を要求する大八と、留守をあずかる名主寒河江左内が、蔵の中味を「農民救済米」と称して渡り合い、ついに大八に開門をあきらめさせた話など“長瀞衆”の気骨を物語る例話として地もとにのこっている。城を築いた満家の墓が長瀞禅会寺にあるが、いまは訪れる人もない。