事の始まりは、藤川デザイン学院から。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
1951.03 京都の伏見深草は 京都の東山の南端で、稲荷山や七面山の山裾で 里山やお寺・竹藪や畑と 自然が豊かな処で生を受けました。
当然の事ながらここが遊び場で自然と戯れ、遊び道具も当時の持てる技術(技術と言うのが恥ずかしい程のつたないものでしたが)を駆使し、周りに自生している、木や竹で工夫をして 色々な物を自作して遊んでおりました。
当時はお金も無く、店で買った物等は殆ど持ってませんでしたが、とにかく『楽しかった』ですね。
幼少期から独立するまで、27年間をこの地で過ごしましたが、お陰様で、1年中四季を感じさせてもらい、自然の大切さ すばらしさを身を以て感じております。
ただ一つのトラウマは、小学校の3年生の時に腎臓のネフローゼと言う病気に掛かり半年間入院を余儀なくされ、一番遊びたい盛りに生活が一変し、お陰でその後の人生の生き方まで影響し、 その後は後遺症も障害も無く、普通の生活が出来ているにもかかわらず、今までずーと 何時まで生きられるのか? との恐怖感で『生き急ぎ』の毎日で今日に及び、50歳を超えてからようやく、 ここまで生きられれば後は儲け物と思えるようになりましたが、社会情勢の変化が激しく中々ゆっくりさせて貰えないのは、性格のせいなのでしょうか?。
今の仕事を選択したのは、ひょっとすれば私が3歳の頃迄 うる覚えですが 15歳年上の兄が伏見工業高校の建築課を卒業し、岸和田の現場で住み込みで働いていた時に風邪で(当時、特効薬の ペニシリンを投与され)入院中に様態が急変し他界しましたが、その時の記憶と 後に伏見工業高校時代の図面等の作品が残っており、見ていたのがこの仕事を選ばせたのかもしれません。

1966.03 洛南高校普通科入学、この頃はまだ 今の仕事を選択するなどとは夢にも思っておりませんでした。
少し遠回りだったのかな?。
只、仕事や勉学の事以外の、友人関係や社会生活の勉強等、人間関係等は学ばせて頂きました。

1969.03 藤川デザイン学院プロダクト(造形)科(現在の造形大学)入学。
ここの2年間は色々な面ですごい経験をさせて頂きました。
まずは同級生にしろ先輩にしろ 一端社会人に成り会社を辞めたり色々経験をした後の年長者も同級生で、人との係わり合いの大切さを勉学や遊びを通じて色々と教えて頂きました。
講師の先生方も蒼々たるメンバーで、授業の中でも美術界の大家の講師からの教えを授かったり、創作に対する考えも教えて頂きました。
当時はちょうど学生運動が全盛期で、通学路に京都大学が有り、機動隊との投石を目の当たりにもし、同世代の者として皆と熱く語りあったりもしましたが、懐かしい思い出です。
そんな中で2年生に成ったとき、理事長や講師の先生達が総入れ替えになり、全員での団体交渉もしましたし 交代の講師の勧めで 京都大学の上田篤都市計画研究所のお手伝いもしましたが、 都市計画の様な大規模の仕事より 小さくても身近にある建築物に係わる方が性に合っている事も分かりました。
そんな中で、建築の設計デザインで生きて行きたいと思うようにも成り、その為には建築士の資格も最低限必要だと分かりました。
在席中、大阪万博が開催され、みんなで見に行き刺激を受けて帰って来た事も懐かしく思います。
ここの経験で分かった事は、どの業種の学校にしても本人が「やる気」を持ち、自分が目指したい目標を見つけ出す事、その目的の為に何が必要なのかを見いだす事、後は与えられた課題をこなす 事は当然で、それ以外の欲求を持ち色々な方面に要求する事だと思いました。

1971.07 デザイン・アート株式会社 入社。
藤川デザイン学院を卒業し、就職先を探していましたが、目指していたのは大企業では無く(大企業の場合は一部門のエキスパートには成れるでしょうが、携われ無い事が多すぎるのが嫌で)、 小規模で色々な事をさせて貰えて 設計デザインの仕事を施工も交えてさせて頂けるような中小規模の会社を求めておりましたが、当時は就職難の時代で有り 求めるような会社が無く、仕方がない ので事務長と掛け合い 就職先が見付かる迄の間 研究室を作ってもらいアルバイトをしながら、そこに席を置き色々な準備をしていた処、7月になり 先輩より学校の方に誰か人材を探して いるのですがと問い合わせが有り、事務長より声を掛けて頂きました。
早速面接に行き社長や社員の方とお会いしました時、私からの条件は一つで 将来設計事務所で独立がしたい目的が有りこの会社に骨を埋める事は出来ませんが、それでも良ければ勤めさせて 頂けますかと言いました処、それでも良いから1週間後から来てくれるかと言われ、快諾を致しました。
 後日談ですが次の日からでも良かったらしいのですが、次の日から慰安旅行だった(笑)のだそうです。
一番良かったのは、平均年齢が 当時27-28で、徹夜や残業、休日出勤は当たり前で、色々な事に挑戦しバイタリティーに溢れ 例の慰安旅行も後はスキーで、全てのあらゆる業務を経験させて頂き、 非常に勉強させて頂きながら給料を頂いておりました。
 
設計事務所としての、独立後の歩み。

  
1978.01 エスコート・デザイン・オフィースとして、共同出資で設立し独立。
藤川デザイン学院で同級生のK氏と共同で、京都のど真ん中の中京区で開設しましたが、3年目で売り上げが追いつかず、1981年10月に 志半ば、やむなく解散しようとの結論に至りました。

1981.11 一級建築士事務所 川添建築事務所 に改名し個人で出直し。
1年前に一級建築士を取得していたので、これを機に事務所も伏見に移転し、心機一転 1人で頑張ることに決めました。
移転した先の事務所も生誕地の地元で、親友で同業のT.H氏の好意で自宅事務所を間借り(押し掛け?、但し彼も自宅で設計事務所を経営)で、お互いの刺激とライバル心で頑張って仕事をこなし ました、今から思えば一番無理の利く年齢で、油の載りきっている時代で瞬く間に時は流れて行きました。

1983.11 事務所の移転。
時代背景も良き時代で、、但しバブル期に入る前でしたが、マンションを購入し、自宅と事務所共々移転しました。

2000.07 事務所の移転。
借家ですが1戸建てで 敷地が広く、環境抜群の現在の場所に、住居共々事務所を移転しました。
場所は 京都は伏見区桃山で、桃山城や桃山御陵の南側に位置し、3分も歩けば宇治川が有り、通り抜けの車も無く 非常に静かで緑も多く閑静な所で最高でした。
以前のマンションは7階建ての4階部分で、便利な処も有りましたが、お客様用の駐車場も無く自然も少なく、味気ない物でしたが、現在は車は止め放題、緑はいっぱい 但し樹木の手入れや 草取りが大変ですが、四季折々に花が咲き、春には桜が満開で 居ながらにしてお花見が出来 身を以て四季が感じられ 非常に満足で、気持ちの良い処でした。

2019.12 事務所の移転。
借家ですが1戸建てで 私が生まれ育った処から徒歩で2〜3分の近隣で、この場所に縁が有ると思い、ここに移転する事を決めました。
此処を終の棲家とまでは、考えておりませんが、未定です。
場所は 京都は伏見区深草で、「伏見稲荷大社」の南に位置し、正月3が日は全国から初詣に来られたり、もっと近くには、かの有名な伊藤若冲が晩年過ごした「石峰寺」が有り、直ぐの処には、 宝塔寺や瑞光寺が有る、閑静な住宅街の中に有ります。
以前の場所も、良すぎるぐらい良い処で、敷地も広く、樹木も多く鳥達が沢山遊びに来てくれて、良かったのですが、樹木の手入れや枯れ葉などの掃除等が大変でした。
今度の場所は正反対で樹木が1本も無く、庭や周囲の空地も無く、物を置いておく場所すら余り無く、引越の際は相当な量の色々な物を整理処分し、半分ぐらいは泣く泣く手放しました。
今度の場所には、目の前が駐車場で、お客様用の駐車場も短時間なら置く事も可能ですが、ここ迄入って来るのが馴れていなくては難しく、3ナンバー等の大きな車で来られる場合は、 近くのコインパーキング(ここの地図を参照)に駐車して、徒歩で来所頂ければ歓迎します。
ここのエリアは、昔遊んだ処なので、裏の裏まで知り尽くしていますが、未だゆっくり散策している暇が有りませんが、環境は抜群に良く、近隣に知り合いも多数居られ、地域の事も大体の事は 分かり、住みやすい処です。
近くにお出掛けの折は是非、コーヒーでも飲みにお立ち寄り下さい、大歓迎です。
2020年からコロナが流行りだし、生活形態が一変し、私の場合は接客サービス業では無いので、人と接する事は少ないのですが、此れを切っ掛けに、今迄は殆ど車で移動していたので、この際 自宅から歩いて、半径10km位で、今迄行けていない所や、裏道などの確認、興味を持つ処を確認したり、歩くと今迄見えなかった物が見え、再発見が有り、感動も有り、毎週歩こうと実行した処、 生まれ育った処の良さや再発見を再認識し、2021年は深草の竹藪の路や、山科へ抜ける山道を再認識し、運動がてら気分転換に、ほぼ毎週歩いております。
この結果は、山歩きコーナーや、伏見・深草の情報コーナー等に発信して行こうかなと思っています。
 
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