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賀茂神社について

創立からの歴史

創立時期は記録が残っていないので明らかでありませんが、京都の上賀茂神社社記に、29代欽明天皇の御代の西暦538年に賀茂神田(荘園)を60余国に置いたとの記録があります。淡路国佐野生穂庄がその一所で、従って約1500年前から生穂・佐野地域の氏神として祀られてきたと推断されます。

『中右記』という書に、保安元年(1120年)、国司によって当社が被った被害に関する上訴が上賀茂神社から朝廷に対して為されたと記されています。その内容より、当社は上賀茂神社の支社で、生穂佐野地域は当社の領地であったことが分かります。

のちに、賀茂神(雷神)と併せ、春日神(智神)、貴船神(水神)、白鬚神(土神)が祀られたことから「四社明神」と称していた時代もあり、「しらひげさん」と呼ばれ、地元はもとより島内外から広く親しまれ、厚く信仰されてきました。

安政4年(西暦1858年)の阿波藩主蜂須賀斎昌公所領巡回の折り、当社由縁を調べられ、「これまでは四社明神と称してきたが、以後賀茂神社と唱え国内繁栄の大社とする」と沙汰されました。のちに蜂須賀茂韶侯から「賀茂神社」の染筆掛字を賜っています。

明治から昭和20年までは津名郡郷社でした。現在は宗教法人賀茂神社であり、生穂佐野地域の氏神です。

社殿焼失と建て替えの歴史

当社は乱世の時代に三度社殿を焼失しています。江戸時代に入って阿波藩主蜂須賀至鎮公によって再建されますが、寛永21年(1644年)に再び焼失します。その後、中ノ内、野田尾、大谷、長澤、佐野の村長たちが12年間にわたって阿波藩に合力を勧進し続け、藩公から良材提供の援助を得て再建されます。その社殿の絵は絵馬殿に掲げられています。

現在の社殿は明治22年(1889年)に建替えられたものです。

建替えに際しては、生穂佐野地域の老若男女が七日七夜氏中を踊りまわりました。その歓喜溢れる踊りの様子が、絵馬殿の札場若中奉納の絵に描かれています。

生穂・佐野地域の創学の宮として

明治初年まで、境内の忠魂碑のあたりには栄玄寺という神社の別当寺があり、明治の新学制の元、明治10年には栄玄寺に生穂小学校が置かれました。そして、明治15年、栄玄寺が廃された後には生穂小学校の新校舎が建設され、大正15年まで運営されました。

更に、明治34年には、生穂佐野村組合立生穂高等小学校が神社の建物を利用して創設され、社務所や絵馬殿が教室として使用されました。明治40年まで独立校として運営されています。このようにして、当社は生穂佐野地域の創学の宮として多くの人材を育ててきました。

また、生穂小学校の初代校長になったのが、後に我が国を代表する国学者の一人となる当社神官の大川真澄でした。大川は淡路島出身の国学者鈴木重胤の門弟で、江戸末期から明治にかけて国学の普及・教育のための「国学塾養徳学館」も社務所で開いています。

当社の神紋「双葉葵」について

双葉葵

当社の神紋はウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化したものです。葵紋は賀茂氏の象徴ですが、葵の紋というとまず思い出されるのは徳川家の三つ葉葵でしょう。「控えい!この紋所が眼に入らぬか」というテレビの時代劇でもお馴染みですね。共に葵の葉を紋にしている賀茂神社と徳川家ですが、それは偶然ではなく両者の間には深いつながりがあったのです。

葵紋は賀茂信仰・賀茂氏族と深くかかわる人々に用いられました。徳川家の出身地の三河の武士団は昔から賀茂神社とつながりが深く、三河三豪族と呼ばれた松平・本多・伊奈氏らは賀茂神社の氏子で、戦国時代前期頃から家紋に葵紋を用いていました。本多氏の『本多家譜』には「本多縫殿助正忠、先祖賀茂神社職也、依って立葵を以って家紋と為す」とあり、本多氏の祖先は賀茂神社の神官でした。

ところが、家康が徳川幕府を開くと、葵紋は一門親藩だけに許され、他は禁止されるようになります。家康が本多忠勝に将軍家と同じ紋は遠慮するようにと命じたところ、「当家は神代以来、京都の賀茂神社に奉仕する賀茂族。それゆえ賀茂の神紋である葵紋を用いるのは当然のこと」と拒否したという逸話もあります。

そのような理由で、葵紋が許されるのは賀茂神社とその神官、徳川家とその血統、本多家などごく一部に限られるようになり、葵紋は絶対的な権威を持つようになります。

余談ですが、フタバアオイの葉の数は二枚です。従って、三枚の葉を持つ徳川家の三つ葉葵は架空のものなのです。