長田区は兵庫区と須磨区の間にある区で、神戸市では一番面積が小さい区です。兵庫区が、平家の最盛期の史跡をたくさん残しているのに対し、長田区は源平合戦時の史跡を多く残しています。また、一の谷の合戦で源平合戦の主戦場が須磨区のように思われていますが、史跡をたどってみますと須磨区より長田区の方が主戦場であったような気がします。
平知章は、生田の森を守っていた父平知盛とともに海上に逃げようとしたが、敵に囲まれ父が討たれようとしたところへ割って入り父を助けたが、自身はこの地で命を落としてしまいました。
【平盛俊塚】
盛俊は、山の手の侍大将で、平教経、通盛らと守っていましたが、義経の奇襲にあい、この地で命を落としました。
ところで、義経は一ノ谷へ奇襲をかけたようにいわれてますが、鵯越えの坂落としで下り立ったところは一ノ谷にはなり得ないのです。この点については、平家物語に地理的な矛盾があるので、また別のところで考えてみたいと思います。
【源平合戦勇士の碑】
左の写真は源平合戦勇士の碑といって長田消防署の(道路を隔てた)北側新湊川左岸にあります。平家も源氏も一ヶ所に祀られています。
平家方=平知章、平通盛
源氏方=猪俣小平六、木村則綱、木村重章らの碑があります。

【監物太郎の碑】
右の写真は、監物太郎の碑といって源平勇士の碑から村野高校を隔てて東へ約100mの場所にあります。今は、地元の保存会の人たちによって祀られています。
監物太郎は、平知盛(知章の父)の家臣で、忠臣監物太郎という言葉が説明書きのなかで使われています。
【平忠度塚】
一ノ谷の西を固める大将軍平忠度の腕塚(岡部六弥太忠純の郎党に切り落とされる)と首塚です。
l明石市にも忠度塚がありますが、こちらが本家と思われます。しかし一ノ谷の西を固めていた忠度が一ノ谷より東の地で果てるのは、ちょっと?マークがつくのですが。
「行きくれて 木の下陰を宿とせば 花やこよいの主ならまし」 忠度
旅宿の花という題で忠度が詠んだ歌で、忠度最期の時にえびらに結びつけられていたということです。

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