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現在の神戸市兵庫区は、清盛が夢見た福原京のほぼ全域をしめ,南部沿岸部は大阪湾の入口に位置し、清盛の財政基盤支えた日宋貿易の拠点大輪田の泊を中心に開けました。
北部山麓には、清盛の邸宅他、平家一門の居宅がありました。
現在も兵庫区には福原町という地名が残っていますが、ここが福原京の中心という意味ではなく、当時の名残で残ったものと思われます。この他にも兵庫区には当時を偲ばせる地名がたくさん残っています。
清盛塚、清盛像、琵琶塚 【左から清盛塚、清盛像、琵琶塚】

清盛が亡くなったのは1181年、清盛塚が建立されたのは1286年で没後100年以上経てから建立されています。また、清盛は京都八条の邸で亡くなって遺言によって山田の法華堂に納められたことになっていますが、この法華堂の所在地がはっきりしていません。

写真でもわかるかと思いますが、石が一部欠けています。これは阪神・淡路大震災時に倒壊し、そのときにできたものです。

明石市善楽寺の清盛塚





松王塚 松王の墓



松王は,経ヶ島(残念ながら今はなにも残っていません)を構築するときに人柱となり海中に沈んだ17歳の少年で,この塚は松王の菩提を弔うため作られたということです。






妓王・妓女塚
妓王妓女の墓】

松王塚のすぐ横にあります。元は別々にあったのですが,戦災で一カ所にまつられたということです。
妓王は当時No1の白拍子で,妓女はその妹にあたります。
妓王は清盛の寵愛を一手に受けていましたが,ある日突然”佛”という白拍子にその座を奪われ、その後尼になり,京都嵯峨で暮らしたということです。





安徳天皇行在所址 安徳天皇行在所址(頼盛山荘跡)】



荒田八幡神社にある史跡です。
当時は平頼盛(清盛の弟)の山荘で福原に遷都されたとき安徳天皇が仮の住まいをされたところと伝わっています。





雪見御所跡 雪見御所跡の碑】



湊山小学校校庭にあり,清盛の神戸(福原)での生活の根拠地とされますが,碑そのものが後世のもので,推定の域を出ません。
ただし付近からは平安時代の瓦が出土し,清盛あるいはその一門が生活していたのは間違いないようです。
(※現在は、校庭から北側歩道に面した場所に移されています。)

雪見御所跡


(小学校北側に移された碑)





通盛・小宰相の局・住連上人・呉葉五輪塔 通盛・小宰相の局・住連上人・呉葉五輪塔】
通盛は,清盛の甥で一ノ谷の合戦で戦死しました。小宰相の局は通盛の妻で,呉葉は局の乳母に当たります。
この五輪塔は願成寺という寺にあるのですが,願成寺を中興した住連上人と呉葉が義兄弟であったことから3人が並んで祀られているとのことです。
以前の写真で見ると呉葉の五輪塔は住連上人の左側にあったのですが,撮影時はありませんでした。

小宰相の局は,平家一族で一番の美人で通盛が3年間猛烈にアタックして手に入れたという女性です。
通盛が戦死したと聞いた小宰相の局は、一ノ谷から屋島に向かう船から身を投げて夫の後を追い自殺しました。また、呉葉も身を投げようとしたのですが、周りの人に止められ、その後は尼になって2人の菩提を弔ったということです。



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