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寿永2年(1183年)7月、木曽義仲入洛すると聞くや、平家は都を焼き払い、また、福原をも焼き払い太宰府へと逃げ延びた。
西国で、勢力を盛り返した平家は屋島を拠点に海路都をめざして進んだ。
寿永3年(1184年2月)平家は一の谷に城郭を構え、東上の拠点にした。このとき平家の敵は、義仲から源範頼を総大将、義経を搦め手の大将とする鎌倉軍に代わっていた。

このときの平家・源氏の陣構えを平家物語から抜粋するとまず、平家は
西は一ノ谷を城郭に構え、東は生田の森を大手の木戸口とぞ定めける。その間、福原・兵庫・板宿・須磨に籠もる勢、山陽道八箇国、南海六箇国、都合十四箇国を討ち随えて、召さるるところの軍兵十萬余騎とぞ聞こえし。 一の谷は、北は山、南は海、口は狭くて奧広し。岸高くして屏風を立てたるに異ならず。北の山際より、南の海の遠浅まで、大石を重ね上げ、大木を伐って逆茂木にひき、深き所には大船どもを側だてて掻楯にかき、城の面の高櫓には、四国鎮西の兵ども、甲冑弓揃を帯して、雲霞の如くに並ゐたり。(平家物語 巻九 樋口の斬られの事より)と10万の兵を生田、鵯越の麓、三草、一の谷の本隊に分かち戦揃えをしていた。
これに対し源氏は、
一の谷の東西の木戸口にて、源平矢合せとぞ定めける。・・・・(略)・・・・大手搦手の軍兵、二手に分つて攻め下る。
大手の大将軍には、蒲御曹司範頼相伴なふ人々・・・・(略)・・・・都合その勢五萬余騎・・・摂津国昆陽野に陣をぞ取つたりける。
搦手の大将軍には、九郎御曹司義経・・・・(略)・・・・都合その勢一萬余騎・・・・丹波と播磨の境なる三草の山の東の山口、小野原に陣をぞ取つたりける。
(平家物語 巻九 三草勢揃への事より)と数は少ないながら、平家包囲作戦をとった。

一の谷の攻防


こうして源氏の平家包囲が進んだ2月5日深夜から6日未明にかけ、三草山の西の山口に陣を取る平家軍に対し夜襲をかけ、合戦の火蓋が切られた。このとき平家は合戦の始まりは2月7日と勝手に決め込んでおり、無防備なところに夜襲をかけられ、取るものもとりあえず、逃げに逃げ大将資盛、有盛らが高砂より船で屋島まで逃げ帰った。
明けて2月6日義経は隊を二手に分けて、土肥実平以下7000騎を明石・垂水方面へ向かわせ西の木戸口の攻めに当たらせ、自らは3000騎を率い、一の谷へ向かった。また、この3000騎のなかから熊谷直実、平山季重が先陣争いをし、土肥が待機する西の木戸口へと抜け出した。
一方、範頼率いる本隊は、生田の森に向かい河原兄弟の討ち入りから生田の森で本格的な合戦にはいっていった。





一の谷合戦屏風絵 坂落とし屏風絵

最初、平家は範頼率いる本隊と互角に戦っていたが、義経の奇襲坂落としから形勢はいっきに源軍に有利に傾き、平家は慌てふためいて船へと逃げた。

平家方の主な戦死者

忠度(清盛の末の弟)一の谷から落ちる途中、岡部忠純に見つかり一騎打ちとなる。これも忠度が組み伏せあと一太刀で忠純の首を落とすところで、忠純の郎党が忠度の腕を切り落とし、反対に討ち取られてしまった。
敦盛(清盛の甥、父は政盛)船に逃げんとするところを熊谷次郎直実に呼び返され討たれる。
知章(清盛の孫、父は知盛)生田の森から、父知盛と海上へ逃げんとするところへ現れた敵10人ばかりと戦い、父が討たれようとしたところへ割って入って、父を助けるが自身は討たれてしまった。
通盛(清盛の甥、父は教盛)鵯越えの麓を守っていたが、味方が皆逃げてしまい、たった1人となり、もはやこれまでと自害の場所を探していたところを、木村三郎成綱とか、玉井四郎資景とかいう敵に見つかり、討ち取られる。
平盛俊(平家一門の家系図になし。清盛の側近)猪俣則綱と一騎打ちし、則綱を組み伏せるが、則綱の「降参」という言葉にだまされ、助けたところだまし討ちにあって首を掻かれる。
この他にも、成盛(清盛の甥、父は教盛)、師盛(清盛の孫、父は重盛)、清定(清盛の子)、清房(清盛の子)、経正(清盛の甥、父は政盛)、経俊(清盛の甥、父は政盛)らが戦死した。
また、戦死ではないが、重衡(清盛の子、大仏を焼いたことで有名)は、ただ1騎になり、自害しようとした寸前に庄四郎高家に生け捕りにされた。

大手=城の表口。敵の正面に攻めかかる軍勢。
木戸口=城戸口。出入り口
搦手=城の裏口。城の裏門を攻める軍勢。人を捕縛する一隊の人。
摂津国昆陽野(こやの)=現在の兵庫県伊丹市
生田の森=現在の神戸市中央区
三草の山=現在の兵庫県多紀郡今田町
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