人間存在研究所ホームぺージの『マズロー批判』に対する批判を、マズロー心酔者のMM様から頂きました。約半年にわたって貴重な議論を重ねましたが、残念ながら議論半ばで中止されてしまいました。自らブログで反批判の議論を公開されるということでしたが、これも断念されたようです。せっかく建設的な良い議論ができると思ってマズローを再勉強させて頂き、学ぶところも多かったのですが、MM様の事情もあるので仕方在りません。自己の深い経験も交えて「マズロー批判」への貴重な意見や疑問を頂きましたが、やむを得ず、私どもの主張だけを公開して「マズロー批判」の真意を理解する参考にしていただきたいと思います。なお、HPの『マズロー批判』は、拙著『人間存在論 後編』で論じたものです。
人間存在研究所 大江矩夫
(1) Re: 『人間存在研究所-マズロー批判』に対する批判 2017/2/22,
MM 様
人間存在研究所への訪問ありがとうございます。
この研究所はご覧のように、現代社会の閉塞状況を克服できる道を探求するため、西洋思想家・哲学者への批判が多くあり、マズロー批判もその一環として取り上げました。
ギリシャのソクラテス、プラトン、アリストテレス、そしてローマのストア哲学やユダヤ・キリスト教から近代のカント、ヘーゲル、そしてロック、ルソーなどの社会契約・啓蒙思想、さらに経済学のアダム・スミス、マルクスの社会主義等、著名なものはほとんど批判しています。そしてそれらの思想の限界は、現代における心理学や哲学的認識 論の行き詰まりとしてあらわれていると考えています。
例えば、フロイト批判、現象学批判、ポストモダン批判、新自由主義批判、動物行動学や大脳生理心理学、そしてMM様の心酔しておられる人間性心理学としてのマズローなども、どうしても批判が必要なのです。
批判をすると反発や抗議が来るのは当然ですが、多くは無視されています。MM様には本当に私たちの主張を正しく理解して、丁寧なご批判をいただき感謝します。ご意見から察するところ相当な学識・経験を備えておられるようで、議論をしても説得できる自信はありません。両者の立場は全く異なるようで、ご不満がよく伝わってきます。しかし、そこはマズローの「自己実現者」「自己超越者」のお立場に免じて
怒りを収めていただき、私の批判の立場にも多少耳をお貸し下さい。
さて、ご批判にお答えする前に、私の批判の立場はすでに当HPの「人間とは何か」「心とは何か」記載しています。(サイト『人間存在とは何か』を参照してください。)心理学においては、カウンセリングを専門にしていた手前、立場的にはロジャーズの人間観に依拠し、マズローの批判の対象になっている「行動主義心理学や認知心理学など科学的実証的立場」を基本にしています。だから私のマズロー批判は、私自身の考えと言うより、これらの学問の裏付けに依拠しています(生命言語心理学)。
とりわけ注意して欲しいのは、私たちの研究所の「心の構造」の理解、とくに「欲求・感情と言語」についてです。説明は長くなるのでページアドレスを示しておきます。ご覧いただければおわかりになるように、私たちは明確な「心の構造」を提示しております。その中で最も肝心なのは、人間の本質 を言語にあると捉え、人間を「言語を獲得した生命」と規定しております。心の中で、言語がどのような役割を果たすか、人間の脳生理学的な「欲求と感情」を、どのようにして「言語と知識・観念」が制御するものであるかを明らかにしました。込み入った論理ですが是非参考にして下さい。
また、「心とは何か」では「心の三要素」をわかりやすく(?)記載していますが、さらに詳しくは私の著書『人間存在論(後編)』により多くの説明があります。なお私の尊敬する人物は、仏教の始祖ゴータマ・シッダルタ(ブッダ、シャカ)です。私の師と仰ぐブッダの最適のテキストは、以下のネットにアップされている『ブッダのことば』(中村元訳)です。是非お読み下さい。
さて前置きが長くなりました。MM様の指摘される「自己実現」についてですが、私たちにとっては「自己の本質的成長」や「自己発展的解釈の創造」は、すべて「理想や夢の実現」であって、決して「外面的なこと」に限りません。私たち(人間)にとってそれが内面的であっても外面的であっても「成長や発展」をめざす場合には、「理想や夢の実現」になるのです。だから私たちにとっての「理想や夢」は、心理学の援助(心理分析)を得てブッダが求めた「悟りの境地(永続的な幸福)」ということになります。だから心理学の知識(心の構造と働きについての知識)はあくまでも「 悟りの手段」ということになります。しかしここで、悟りの必要性や効用の評価・価値については倫理・道徳の課題ということになります。
このように「自己実現self-realization」という概念は、マズローやMM様のように道徳的な意味(至高体験等)を持たせるべきではなく、「自己の理想を現実化・具体化する」のように価値中立的(没価値性)な解釈をする方が自然ではないかと思うのです。私たちは言語の意味については厳密に捉えようとしており、とりわけ「自己実現」のような多義的な用語は、あまり深読みすべきではないと考えます。ちなみにマルクスなどは労働による生産活動を「自己実現」と結びつけており、私たちはこれは人間抑圧の理論(マルクス批判)と批判しております。
残念ながらマズローは、マルクスと同じく科学と価値を混同しています。マルクスはこの混同を自覚しておらず、共産主義という宗教を創りました。マズローは自覚的に、科学と価値を統合しようとしましたが、それは完全な失敗に終わっています。欲求を科学的に理解しようとすれば、動物的生理的な欲求と人間的創造的な欲求に分け、後者に言語的認識と感情の複雑性を介在させるべきですがそれはできませんでした。これは彼だけの限界ではなく、科学的思考を生み出した西洋思想の伝統によるものだから仕方ありません。
具体的な疑問として、「大江さんは、食欲が満たすこと が困難な環境下において人間の動機は空腹からの解放を願うことが最優先課題になるとは考えないのですか?」ということに答えます。まず、空腹だからといって他人の食物を盗むことは良くありません。また自己の信念を貫くために死を選ぶこともできます。食欲よりも死を選ぶことを優先できるのが人間なのです。これをマズローはどのように説明するのでしょう。
実際に戦後の食糧難の時代に、ヤミ米を得ることを拒んで餓死された裁判官がいたと聞きます。また、仏教では解脱と衆生救済のためという気高い目的のために「即身仏」となる風習もありました。私ならまず食糧を求める努力をしますが、他人の食糧を奪ってまで空腹を満たそうとは思いません。最優先に人間らしく死ぬこ とを求めます。これは人間的な倫理的要求です。倫理的要求とは言語的命令によるものです。どのような思想言語を持つかが重要なのです。
マズローやMM様の主張には共感するところもありますが、やはり前提や立場の違いは埋めることはできないでしょう。私たちは論争は大歓迎で、すべてHP上に公開しています。MM様との論争もHPに公開させていただくことを希望します。電話というのは誤解を招くのでお断りしております。よろしくお願いします。
※論争例「人間とは何か」⇒http://www.eonet.ne.jp/~human-being/yasa~.html
「科学的社会主義批判」⇒http://www.eonet.ne.jp/~human-being/asyura1.html
人間存在研究所 大江矩夫
(2) Re: 『マズロー批判』に対する続論 2017/2/26
MM 様
重ねてのご質問ご意見ありがとうございます。小生、多くの仕事を抱えているため、直ちに返答することができないことをお詫びします。また、十分な時間もないため、説得的な説明もできません。端的な表現になるため誤解を受けたり反発を覚えられると思いますが、マズローの自己実現的境地に免じてお許し下さい。
さて、前回は、「マズロー批判」の背景にある私たちの考え方を中心に論じました。もしそれらをよく読んでいただければ、私どもの批判の根拠を理解していただけると思います。マズローの考え方は、ある意味20世紀前半までの権威主義的な時代においては、革新的な存在意味があったでしょうが、今日的(21世紀的)な課題に答えることはできません。
なぜなら、マズローの時代にあっては、心理学的には「欲求」概念を含む「心」の捉え方が時代遅れです。この間、大脳生理学や認知科学は格段の進歩を遂げています。特に、私たちの立場から見れば、生命や人間存在における言語的思考や知識、思想や理想の意味が捉えられていないからです。欲求や感情を中心として直示的情報操作(動物的学習記憶・対象操作)のみで動く高等動物と、言語記号を用いた情報操作的記憶力や想像(創造)力を有している人間とは、自己と環境に対するコントロール力が格段に異なります。「人間の知的能力の構造を理解する」ことによって、人間はさらに成長することができます。
私たちは、現代社会がさまざまな社会問題(環境・資源・エネルギー・民族対立・思想対立・宗教対立等の問題)を抱え、平和で幸福な社会の持続性に疑問を持たれている時代にいます。そして、これらの問題に対処するため、様々の解決策が試みられていますが、事態は悪化の方向に向かっています。
そのような問題の根源に、現在の政治や経済の在り方(資本主義や自由民主主義等)があり、企業や組織経営の在り方(経営の目的や人事管理)を変える努力が行われています。例えば、企業は競争市場にあって勝ち残るために利己的利潤を求めてきましたが、今日では社会的責任や従業員福祉を重視する動きが高まっています。もちろん国家は社会福祉の充実なくして存立しなくなっています。
しかし、他方で、新自由主義の立場からは、そのような社会的規制は「経済成長」にとって障害になると考え、規制緩和や競争政策が常に追求されています。その結果、職場には常に脱落者が現れ、それに対して人事管理的に「自己実現心理学」が提唱され、マズロー心理学が重用されています。そのため、職場研修では、自己実現や成長のために「やりがい、生きがい、自己成長」が、心理学の名を借りてソフト(またはハード)に行われ、「やりがい搾取」(本田由紀)や「自己実現ワーカーホリック」(阿部真大)という言葉も創られています。自己実現が利己実現に変身し、自己絶望から挫折しうつ病になり、社会的不適格者(弱者・敗者)として社会から排除され孤立する若者や壮年が増加してい ます。
もちろん「マズローの真意」が、そのような状況を生み出すためであったのではありません。『マズロー批判』では、「マズロー自身が意図することはなかったが、否定的・排他的欲求が極端な場合」、つまり、マズローを悪用(重用)するばあい、経済・経営学に利用され、「搾取的自己実現や暴力的自己実現」がおこることを警告しているのです。
しかし、いくら自説を述べてもMM様の疑問に答えたことにはなりませんので、下記のような6つの質問にまとめて解答します。
@「私たちにとっては」の意味合い?
「私たちの研究仲間」という意味もありますが、希望的に「すべての人間にとって」との両方を含んでいます。人間にとっての「成長や発展」は言語的に規定されるものであり、創造的であると考えるからです。
A「マズローの自己実現」の真意をどのように理解しているのか?
マズローやMM様には「かけ離れた解釈」に見えるのでしょうが、われわれの立場からは、現在の社会的風潮が変わらない限り、「真意(人間の成長)と現実(人間の脱落)」との乖離を強調せざるを得ません。マズローの欲求5段階説では、人間の欲求や心の本質的理解はできませんし、より多くの人間の成長・発展を望むこともできません(一部のエリートには可能かもしれませんが)。自己責任といわれればそれまでですが、マズローには弱い人間や脱落者に対する配慮が、ロジャーズに比べると十分ではなく、またブッダと比べると格段の差があります。新自由主義経済学と適合的な理由がここにあります。怒られるでしょうが 、極端に言えば、マズローの自己実現は、「利己実現」です。
B 価値と科学の区別について、科学とは何か?
科学science(英)Wissenschaft(独)は、多義的な概念で、本来は「知識の体系」ですが、今日では検証可能な事実に基づく学問と言うことになります。マズローも科学的心理学の手法をとろうとしていますが、行動主義や精神分析学に反発して、価値を含む人間性心理学(主体性・創造性・自己実現を強調)の立場を取りました。しかし、厳密に科学的手法をとろうとする行動主義や精神分析の批判はほとんどせず、検証が困難な価値の領域を研究対象としたため、「欲求五段階説」のような誤った欲求観を持つようになりました。
Cロジャーズとマズローの自己実現の比較?
ロジャーズは、同じ人間性心理学であっても、マズローのように、自己実現や成長にランクづけをしないので、とても人間に対して優しいのです。ロジャーズも東洋的人格に自己実現の理想を求めていますが、基本的に「今ここに」あるがままの人間を肯定し、外的強制や指示によることなく、自らの自己治癒力や成長力を大切にします。マズローのように「自己実現者」や「自己超越者」の条件を並べ立てるのは、同意できる徳目もありますが、単なる個人的主観的な経験(目標)を押しつけているようで、すんなり受け入れることはできません。この点、MM様には是非「至高体験」や「存在 (Being) の世界」について、どのように共感されるのか、お聞きしたいものです。
D西洋人と東洋人の人間性の根本は異質なのですか?
この疑問の着想はとても重要です。両者の「人間性の根本は同質」です。しかし、両者は生活風土が異なり、それに伴って、ものの見方考え方が異なっています。西洋人は狩猟牧畜中心の生活で自然対立支配的、東洋人は農耕中心で自然一体調和的なものの見方考え方をします。人間性としては同質で心理学の対象になりますが、生活・文化・芸術・思想などは異なりそれぞれの学問が研究対象とします。
E「倫理的要求である言語的命令」が何と言っているのか知りたい。
現代社会の諸問題の解決と全人類の幸福な持続的生存、すなわち世界平和、共生共栄、互恵互助――そのために人類にとって普遍的な科学的知識を持ち、一人ひとりが強い心を持って幸福を追求することです。
以上で疑問やご意見に答えられましたでしょうか。マズローの問題意識は私なりに理解しているつもりですが、おそらく批判の視点や立場が全く異なるので、誤解と反論が続くことが予想されますが、できるだけ疑問に答えたいと思います。
オルダス・ハクスレーの人間性に対して近しさを実感されているとのことですが、よく理解できます。東西の文化や思想に精通している特異な思想家と理解していますが、もし彼が「言語の謎」に挑戦していたらもっと人類の未来に貢献できたと思うのですが・・・・・。私は少し読んだだけで神秘思想とは決別しました。神秘思想に関心を持たれているのであれば、ユングには共感されているのでしょうか。
MM様の公開されているHPまたはブログを是非ご教示下さい。全体的な思想を知りたいものです。
2017/2/23 大江矩夫
(3) Re: 『マズロー批判』に対する続論 2 2017/3/2, Thu 23:59
MM 様
早速、次なる疑問を戴きましたが、多忙のためすぐに返信できないことをお断りします。また、返信が早いのは結構ですが、せっかく返答をしても感想や期待していた反論がないのはさみしいものです。「議論」をしていただけるというので楽しみにしていますのに、疑問に答えてそれっきり次へ、というのでは議論になりません。
MM様のご主張にはとても関心がありますので、前回お願いしたネット上のブログ等是非教えて下さい。
さて、今回「欲求性」についての疑問がありました。私たちの欲求理論は、生命言語説に基づく「心」の捉え方にまとめてあります。「もっと美味しい ものが食べたい、もっと素晴らしい家庭が築きたい、もっと社会的に認められたい、権力をふるいたい等々の欲求」というのが人間的・二次的欲求です。
『マズロー批判』では「欲求に階層性があるとすれば、@からCの階層に属するとされる食欲や性欲、安全や所属の欲求も、感情的な次元で「もっと」快適な充足(肯定的感情)を求めることになれば、動物的基本的欲求と人間的・二次的欲求を分類することができるようになる。」と述べています。これこそ私の解釈する自己実現、高次の目標の実現ということになります。つまり、われわれの考える欲求は、動物的生理的欲求と人間的二次的欲求の二段階しかないのであり、基本的に4つの「欠乏欲求」に段階性を認めません。マズローの欲求概念とは異なるのです。
私たちにとって 「自己実現」とは、動物的な欲求を「もっと」人間らしく拡大させ、精神的なものまで高めることを意味しています。例えば、善悪の倫理的判断をぬきにして、「もっと自己中心的で自由に権力をふるう」という人間的欲求を実現することが、自己実現という精神的な快楽をもたらすのです。自己実現に倫理的意味合いを持たせれば、他人への思いやりや謙虚さ・聡明さ、創造性・瞑想性ともなるでしょうが、それらは欲求性という概念で捉えるべきでなく、倫理・道徳の領域になるのです。
マズロー的人間性心理学の誤りは、客観的科学の装いを取りながら、実は人々に、道徳の意義を述べずに道徳的説教をしているところにあります。『マズロー批判』で、@ 価値的記述は科学的心理学とは分離し、哲学や倫理学のなかで論じるべき、A 自己実現欲求の強調は、人間的欲求の否定的側面から目を背け、真実への探究の障害になる、と述べているのはそのような意味においてです。
なお、誤解なきように、初回に重ねて付け加えますが、私は仏教徒を自認しており、常に瞑想によって精神的覚醒をめざしております。私たちの『マズロー批判』が、MM様の心証を害しているのであれば、無視していただくのが一番であり、執着から解脱するのが「自己超越」の道であることを愚考いたします。しかし、さらに自己の向上をめざして真理を求められるなら、次の疑問を歓迎いたします。よろしくお願いします。
(参照:「仏教の現代化」)
2017/03/02 大江 矩夫
(4)Re: 『マズロー批判』に対する続論 3月9日付
2017/3/11, Sat 23:57
MM 様
内容の濃い長文のご意見ご質問を戴きました。
大変申し訳ないのですが、私は3月中とても多忙で、
すぐに検討し返答をすることができません。
必ず返答しますので今しばらくお待ち下さい。
納得いかない気持ちは分かりますが、丁寧に答えたいので了解して下さい。
よろしくお願いします。
人間存在研究所 大江
(5)『マズロー批判』に対する続論返答3/27 2017/3/27, Mon 23:17
MM 様
返信が遅れて申し訳ありません。前回多くの疑問点が出されており、この間仕事をしながら、どのようにまとめるべき考えておりました。個々にお答えするのではかえって混乱すると思い、私のマズロー批判の全体像を、再度、説明するのがわかりやすいのではないかという結論に到りました。
MM様ご指摘のように、私の考えは、すべてに渡ってマズローとは全く異なります。欲求や自己実現の内容が異なりますし、成長や向上心の意味も異なります。また社会の捉え方や、道徳・倫理の考え方も異なります。私の考えでは、マズローの時代の科学的知識の内容や時代背景自体がもう古くなっています。例えば大脳生理学の発展、会社経営にお ける社会的責任の強化、全人類的課題である環境問題や資源エネルギーの限界など、今日の課題はマズローの時代とは、はるかに異なります。
そこで、下記のように、「マズロー批判」をまとめることによって、MM様の疑問のすべてに答えられるのではないかと思います。(※なお、時間と量の関係から今回は、1〜3までとして、残りは4月中旬に返答しますので、ご了解下さい。また、さらにご質問があると思いますが、お願いとして質問に番号を振っていただければ助かります。)
「マズロー批判再説」
1,科学と価値について(科学的知識と価値・倫理)
2,欲求について(動物的欲求と人間的欲求、欲求の抑制と制御)
3,自己実現について(自 己を実現するとは?自己実現者とは?)
4,価値、倫理・道徳をどのように創造するか(至高体験など)
5,社会または組織経営の変革について(現代社会と社会的風潮の捉え方)
6,心理臨床について(カウンセリングの考え方と事例)
7,その他(ネットへの公開等)
1,科学と価値について(科学的知識と価値・道徳倫理)
まず「なぜ道徳と科学は同じ土俵上で論じられてはならないのですか?」「人間性の洞察を行うことが科学的かつ道徳的であるという観点を、なぜ大江さんは認めようとしないのですか?」等ということから答えます。
端的に言えば 、科学の名を借りて誤った道徳や倫理を主張する人々がいるからです(マルクスの科学的社会主義、コントの実証主義、フロイトの精神分析、マズローの欲求5階層説、幸福の科学等々)。人間は、ともすると科学的知識を絶対視して価値的に選択判断し行動しますが、相互理解のためには、知識と人間の価値判断を峻別する必要があるのです。まず知識の価値性を自覚すること。でないと「分かった!これが真理だ!」という意識は、それ以外の異なる見方や見地を閉ざし、偏見を形成します。私自身も常にその危険性を持っています。だから知識の主観性・仮説性を自覚し、偏狭なものの見方や考え方を防いで、普遍性のある知識によって価値判断をしようとすれば、科学的知識から価値判断を一旦できるだけ(
!)遠ざける必要があるのです。
そしてそのためには、まず「科学とは?」「知識とは?」という疑問を解明しなければなりません。「科学」とは本来、ドイツ語ではWissenshaft=知識の体系、英語ではscience=知ること・その内容(知識)であり、実証性を重視する近代経験科学とは異なり、価値判断を含む知的体系(哲学・神学・天文学・倫理学等々)を構築すれば、それらは「科学」と言われていました。だからまずは人間にとって「知識とは何か?」を知るために、人間的知識自体の根源となる「言語」について知らねばならないのです。人間存在研究所の「生命言語説」は、知識の根源が生命の獲得した言語であることを明らかにしています。つまり、科学(知識・言語の構成物)と価値( 言語を用いて認識判断する)は、本来的に結びつきやすく、知識(人間的知識は言語的認識で成立する)は根源的には主観的なものであるため、両者の混同を避け相互理解をより的確にまた容易化するするため、両者を分離・峻別する必要があるのです。
だからわれわれの研究所では、人間性と文明社会そのものの「科学的分析」(諸学問の探究)をするとともに、人間のあるべき姿(万人の永続的幸福・解脱=仏教的価値と考えます)の追求と道徳的社会主義の実現に向けた取組をしています。われわれは、社会の一部の成功者、マズロー的には人口の1%に満たないような「高次の自己実現者」だけに目を向けるのではなく、彼が軽蔑的に目を向 ける多くの一般大衆にとっての人間的成長や、拡大の限界を迎えている物質文明社会の望ましい在り方を追求するのです。
つまり、科学と価値を一体化すると、認識や知識の主観性・相対性が損なわれ、それによって偏狭な独善性が強まります。われわれにもその可能性があると自覚しながら、万人の容認できる平均的・普遍的価値(道徳的知識)を探求することが求められます。科学は客観性・普遍性を重視しますが、価値は主観性・特殊性を有します(多数決支配になりやすい)から、人間の認識能力の有限性に配慮して、価値を選択自由の領域に残しておきたいのです。価値は自由選択の問題ですが、われわれが絶対的価値を認めるものとしては、人間の判断を超える「自他の生命の永続 」以外にないと考えています。そしてその上で、できるだけ多くの人々が幸福感、しかも持続的幸福感(悟り)を持てるようにすることが、当「人間存在研究所」の使命なのです。
さらに「『B-価値』の追求自体が道徳の意義を述べているものとは解釈なされないのですか?」「『B-価値』に対する言及がないのはなぜ?」「『道徳的説教』というものがどのような内容を指しているのか」と問われていますが、マズローの現状理解はアメリカ民主主義の栄光の時代の楽天的な道徳観(デューイなどの依拠する進歩主義)を表したものに過ぎません。「B-価値」(存在Being-価値)というのはマズロー特有の表現ですが、「ありのままの存在」すなわち「進歩・成長する姿」が、すなわち道徳 的「価値」そのものであるということでしょう。しかし、道徳は究極的に主観的なものであり、すべての人間にとって普遍的な道徳も、客観的・科学的な知識による納得と同意がなければ永続的・安定的な道徳にはなりません。進歩や成長がどのような人間の状態なのかを議論する必要があるでしょう。
にもかかわらず、生命や人間存在、社会の在り方についての的確な知識も不十分なまま、B-価値=真・善・美・正義・完全・統一などとして流布しようとするのは道徳の押しつけ(道徳的説教)に他なりません(当時としては進歩的であったとしても)。というのもわれわれから見ると、彼の時代の人文科学における心理学や哲学、政治・経済等の社会科学の段階は、全く幼稚なものと思われ るからです。だからこそ世界の現状は、地球環境問題や資源の限界が危惧されている中で、十分に豊かでわが世の春を謳歌している一部の人々もいますが(極端な表現ですが、1%の金持ちと99%の貧乏人といわれる)、あらゆる面で混乱と閉塞状態の中にあるのです。このような現状でどうして「B-価値」といわれるような悠長なことが言えるのでしょうか。
※なお、われわれの道徳についての考えは、「宗教と道徳の意義」のページを見て下さい。
要は、今日の私たちの課題は、言語的存在として不安定な自己と社会を制御し、全人類の幸福を実現するにはどうするべきかを解明することなのです。
2,欲求について(動物的欲求 と人間的欲求、欲求と感情)
ネット上の私の「マズロー批判」の説明のように、われわれの欲求の捉え方は、アルダファーのERG理論(存在・関係・成長欲求)の三階層とも異なり、二段階です。マズローの欲求階層(Maslow's hierarchy of needs)に含まれる、自己実現欲求以外の基本4階層は、われわれにとっては動物的生理的欲求としてまとめられ、その基礎のうえに人間的二次的欲求が組み立てられるのです。これは、われわれの「心の構造」仮説を参照していただければ了解していただけると思います。
具体的には、@生理的欲求(飲食欲等)では、最低限の生理的水準を満足させる動物的欲求と、さらに美味しく豪華なメニューで飲食欲を満たそうとする人間的欲求で自己実現を図ろうとする場合です。A安全欲では、危険なところに近づかず、衣服や住居の最低限の安全性を保つことが動物的欲求となり、身体を鍛え強者に庇護され同盟を結んで国家を強化するなどによって安 心安全の確保になどに専心することが人間的欲求・自己実現に当たります。B社会欲求と愛・帰属の欲求については、安全欲求を含むとともに、種族維持の欲求すべて(性愛、養育、集団の協働・安全確保など)を含みます。つまり家族・氏族等の集団生活ですが、これが人間的次元になると、宗教や社会慣習、法的社会契約社会に発展し、その中で職業・結婚・社会的地位を得ることが自己実現をもたらします。C承認(尊重)欲求については、Bに含めることで問題ないと考えます。
人間の動因(動機Motivation )としての欲求の働きについては、特に人間の場合、「快・不快を中心とする感情(情動)」について触れないわけにはいきません。マズローも各所で感情の働きを修飾的に述べていますが、項目を揚げて述べているところ(『人間性の心理学』小口監訳p401)では、「まだ研究されていない」と正直に述べています。しかし、感情論は、古来より精神(心)の解明を行う哲学的心理学では重要課題であり、動因論に欠かすことはできません。フロイトも欲求偏重で、否定的感情(怒り、憎しみ、悲しみ、焦り等)を抑圧して無意識の中に含めましたが、ようやくロジャーズにいたって臨床の場面で重視されるようになってきました。近年脳生理学で、感情が記憶と共に注目されているのはご承知だろうと思います。
ではなぜ、人間の動因論で感情が重視される必要があるのか?それは人間的(成長・拡大・もっと)欲求のなかで、「快を求め不快を避ける感情(情動)反応」が行動に対して大きな影響を与えているからです。感情は、欲求が生命の適応と永続の一方的動因であるのと異なり、欲求が充足されているかどうかを快・不快の反応・判断で示し、さらにその判断が次の行動の動因(快を求め不快を避ける)となるという働きをします。動物でも美味しいものを食べれば快感情が起こり、再びそれを求めようとしますが、人間の場合は、その快感情をさらに高めようとします。美しい絵画、甘美な音楽で心楽しませるために芸術家は、その目標を実現しようとします(自己実現)。感情自体は欲求を 実現するための反応でありそれに伴う動因なのです。詳しくは、私どもの「感情論」をご覧下さい。
なお、私たちは、動物的生理的欲求に、価値判断の伴った優先性というものは認めません。というより、生命存続のためにどれも大切だから、優劣を付けるべきではないと考えます。さらに言えば、動物的生理的欲求においては、「価値判断」と表現するべきではありません。単なる動物的生存を維持するのは、欲求に対する生理的反応にすぎない(欲求実現=生理的反応)からです。しかし、食欲をいかにより美味しく満足させようとするか(もっと=増加=創増欲求)は、人間的な価値判断に属し、自己実現を多少とも伴います。動物的欲求は、人間的な高次の意識(欲求)が「前面に現れる」ことによって、抑圧・制御または低減することができます。それが断食や自死です。このように、人間の意識(言語的思考・目的を伴う)が前面に現れるのは、欲求や感情を制御する高次の人間的意識なのです。
また、餓死した裁判官の意識は、常に空腹からの脱却を求めて食料を欲し求めていたのは当然ですが、そのような生理的欲求よりも高次の道徳的良心・意志的感情が優先していたということです(※注)。人間の特徴は、自己修養によってある程度まで欲求や感情を抑制またはコントロール(自己管理、または成長進歩とも言える)できることです。そして、このことによって高次の自己実現が可能になります(この時点では、高次といっても道徳的善悪や真善美の価値判断の必要はありません)。
※「このころ、日本の国民にショックを与える事件が起きました。1947年(昭和22年)10月、東京地方裁判所の山口良忠判事(34歳)が、栄養失調のために死亡したのです。法律違反の闇市で食料を買うことを拒否し、正式な配給の食料だけで生きようとしたためでした。山口判事本人は、闇市で食料を売ったり買ったりしている庶民を『食糧管理法』違反で裁く立場にありました。法律を守る立場から、法律違反のヤミの食料に手を出すわけにはいかないと考えたのです。逆に言えば、当時の日本人は配給だけでは生きてゆけず、ヤミの食料に手を出さなければ死んでいたのです。」
山口判事は、「たとえ悪法でも、法律である以上、裁判官の自分は守らなければならない」という意味のメモを残していまし た。命か法か。日本国民を粛然とさせる出来事でした。(「闇米 山口判事」で検索して下さい。)
3,自己実現について(自己を実現するとは?自己実現者とは?)
まずMM様の疑問として「自己実現の概念そのものがマズロー自身と異なっていることを、なぜ記述なされないのですか?」ということなので、私の自己実現観を説明します。
私の考えは、マズローにも影響を与えたロジャーズの「感情論や自己実現論」に大きな肯定的影響を受けました。しかし、マズローの「欲求論や自己実現論」に、欠陥や否定的印象を感じていたので、基本的にはロジャーズの自己実現の概念をベースにしています。
ロジャ ーズは、不幸な経験を通じて否定的感情(不安、不信、恐れ、怒り、嫌悪、焦燥、悲哀、孤立、絶望等々)に支配され、十分に自己を肯定的に発揮できない来談者(クライエント)に、カウンセリングの過程(主に傾聴・受容)を通じて「自己治癒力」を呼び戻し、人間の肯定的感情(安心、信頼、自信、優しさ、愛情、余裕、喜び、連帯、希望等々)をみいだし、来談者を支配していた否定的感情を克服して健康な心理的状態を取りもどすための援助過程を心理療法(カウンセリング)と捉えています。彼にとっての「健康な心理状態」とは、自己を否定的・防衛的に見る(自己否定の)状態を受容・克服しつつ、肯定的な自己概念を形成することによって、否定的・防衛的な自己から解放され、より柔軟な適応性 や自律性・統合性を獲得して成熟した心理状態になることで、この成長の過程を自己実現するといいます。
したがって、ロジャーズの自己実現は、マズローのように才能、能力、可能性を十分に用い開発して、何らかの社会的・倫理的価値を実現し、基本的欲求の満足を越える(プラスする)豊かさ・完全さを得るような高度なものではありません。マズローの言うように、「自己実現者の動機づけられた生活は、普通の人々のそれとは量的のみならず質的に異なっている」(『人間性の心理学』p236)というようなエリートの自己実現をロジャーズはめざしていないのです。私はロジャーズのように、自己実現とは誰もがマズローよりも容易に自己実現を体得できるものであると考えています 。なお、ロジャーズの自己実現の詳細は省きますが、私的な自己実現は「自分らしくふるまえる」「自分を肯定的に評価できる」という程度のものです。(なおマズローは、『人間性の心理学』Motivation and Personality1954における「自己実現者」の研究を「不十分で問題の多い実験」(『完全なる経営』MASLOW ON MANAGEMENT1965,1998金井監訳p104)と後年反省していますが、彼の本音を表したものでもあります。彼自身にとっても「自己実現」は、定義困難な用語であったようです。)
MM様の指摘される「マズロー自身の自己実現的意味合いが『高次の目標の実現』の意味合いとして解釈なされていたのではないですか?」というのは、もちろんそのとおりです。自己実現は当然に成長を伴いますが、目標のない成長はありえません。マズローの「B-価値=真・善・美や正義・完璧さなど」は、すべて高次の目標であって、それらに向けて成長するのがマズローの自己実現であると理解しています。私にとっても、自己実現は高次な目標を持つものですが、マズローほどの完璧さは求めません し、主観的相対的なものであると考えています。しかし、程度の差はあれ、人間的な高次の目標のない成長や自己実現はありえません。人間的(言語的・創造的)目標がなければ、本能という目標に支配される動物的生存に終わってしまいます。ただ自己実現の高次性・成長性は、B-価値とされる道徳的価値の追求とは限りません。人間的な自己実現的欲求には、道徳的な価値を前提としません。しかし、逆の意味で、動物的欲求を非道徳的なものとも考えません。道徳的な在り方(B-価値)は、生命・動物の生存の在り方にも生存欲求や種の永続として含まれています。
※なお私のカウンセリングの立場は、「カウンセリングと心理療法」のネットページをご覧下さい。
<以下、次回4,5,6,7,に続きます。>
4,価値、倫理・道徳をどのように創造するか(至高体験など)
5,社会または組織経営の変革について(現代社会と社会的風潮の捉え方)
6,心理臨床について(カウンセリングの考え方と事例)
7,その他(ネットへの公開等)
以上 2017/03/27付 大江矩夫
(6)『マズロー批判』続論4月19日付(大江) 2017/4/19, Wed 10:34
MM 様
もうすでにブログの作成はされましたでしょうか。楽しみにしておりますので是非お知らせ下さい。さて遅れましたが、前回の続きです。MM様の様々なご指摘で、本棚の隅に追いやられていたマズローの邦訳を読み返しました。新たな学びの機会が得られたことを感謝しています。
4,価値、倫理・道徳について
マズロー理論に習って、私の「人間にとっての価値(欲求を満足させるもの・こと)」とは、@動物的な(マズロー的には低次の)欲求の価値と、A人間的な(庶民的大衆的な欲求を満足させる)中次の価値があり、さらにBマズロー的な意味での選ばれた人、指導者、宗教家、哲人、思想家、芸術家など名声を博している人物に象徴される高次の価値を獲得した人に分けられます。中次の人間的価値においては、さらに自己の生き方に満足し自己実現していると自覚している普通の人が分けられるかもしれません。
マズローの場合、物質的的・経済的にも精神的にも自己実現し、個人的にも社会的にも安定した状態の少数の人物が、高次の自己実現的人間ということになります。マズローは、自己実現するために、理性と非理性(情欲・衝動)の「二分法」を越えることをめざしていますが、両者の違いの根源(言語)とその意義を理解していないために、両者を共に「同質の動機(欲求)」(『人間性の心理学』p168)に由来するという誤った結論を導いています。その結果、倫理的な問題は、「自己抑制、収容などの問題から、もっと、自発性満足、自由放任などの問題に移されなければならない。」とか、R.ベネディクトの文化論を援用して「文化は欲求を満足させていく方向にあるべきものであって、欲求を抑制していく方向にあるべきものではない。」と述べることになっています。これは、西洋的二分法の限界や価値観の混乱の中から生じてきた風潮(フロイトやE.フロムの精神分析とワトソンの行動主義)に伴うもので、それなりの意義はありますが、今日的にはすでに旧来の(古い)考えに属しています。
また、自己実現によって高次の価値を実現している小数の人々は、文化の中で平均化されることも型にはめられることもなく孤独ですが、それらの文化を受容しつつ 文化から超越しているとされます。彼にとって、文化として位置づけられる「道徳や倫理や価値として通っているものの多くが、実は平均的な人々にしみこんでいる精神病理上の用もない付帯現象だと言うことを教えられた。」(上記p259)とあるごとく、平均的な人々に対する「上から目線」が明確となっています。このような人間への見方は正しいのでしょうか。
マズローのようなエリート(競争的勝者)主義の立場は、社会的対立や矛盾(差別、階級支配、利害対立、政治的・宗教的対立等)の自然解消主義、つまり、様々の欲求不満(否定的感情状態:不快、不安、恐怖、敵対、攻撃、防衛、嫉妬など、(上記p260))は、健康な精神を持つ自己実現者には存在せず、それらの社会的対立や矛盾を 克服しています。また、歴史的社会的に強者によって形成されてきた社会的対立や矛盾をも心理的に克服することが、自己実現者たるものにとっての「価値ある生き方(自己実現)」である、と考えることになります。
たしかに、われわれは、人間が造ってきた深刻な社会問題(戦争・貧困・差別・支配・抑圧等)があっても、そこから生じる精神的・心理的葛藤(欲求不満)を、臨床心理学的に治療または自己実現という名目で解消(または自己欺瞞)することができます。かつては、宗教が、人生苦や因果応報、堕罪や最後の審判によって地獄に堕ちるという空想的論理で人々を脅迫し、神仏への帰依・信仰が唯一の救済策であることを教えました。また社会を支配する倫理や道徳が、人間の精神 的・理性的側面を強調して自律による安心立命や、また人生の無常や天命による人間性への信頼・仁愛を説いて、社会秩序を維持しようとしてきました。
マズローが、社会問題の根源に関心を持たず、ロジャーズのように個人的な心理的問題の解決に関心を持つだけなら、それほど目くじらを立てる必要はありません。しかし、マズローの場合社会への関心は高く、ビジネスや組織経営に心理学を応用する(経営学者によるマズローの発見)第一人者となりました。しかし、一方では、心理学で精神病理的な不健康な人の研究をしながら、他方で、その症状を「対極性とか、対立性とか、二分性などと考えられてきたものが、実は不健康な人々についてのみそうであるのだということが結論された」(同 上p261)としているのは、社会科学的分析の基本的方法論(利害対立事象の抽出)を無視しています。マズロー心理学においての心の統合、葛藤や不安、強迫の克服を、ビジネスの中に応用するということは、顕在化している社会問題(権力的経営や競争的管理における二分法的利害対立)の心理的な「解消(実は欺瞞)」にも利用していることになるのです。
まだ『人間性の心理学』について述べる点は多くありますが、私の考えの基本はご理解いただけると思います。次に、私の理想の倫理・道徳観の一端である仏教の「悟り」「涅槃」との比較で、マズローの「至高経験」について触れておきます。私の見るところ、マズローには仏教的な価値体系、「悟り」「涅槃」「心の平安」等の「持続的幸福 」への関心はありません。『人間性の最高価値』には「至高経験という語は、人間の最良の状態、人生の最も幸福な瞬間、恍惚、歓喜、至福や最高のよろこびの経験を総括したものである。このような経験は、創造的恍惚感、成熟した愛の瞬間、完全な性経験、親の愛情、自然な出産の経験などというような、深い美的経験からでたものであることがわかった。」(『人間性の最高価値』p125上田吉一訳)とあります。マズローが心理学的に至高体験を述べたとすれば、仏教の始祖であるシャカは、心理分析と共に哲学的考察を加え、人生そのものの意味を問い、繰り返す輪廻の苦しみを断ち切り、永遠の浄福・覚醒・涅槃をもたらします。また、自分だけの覚醒(自己実現)にとどまらず、衆生への慈悲の大切さも説 きました。
マズローの至高体験は、「幸福な瞬間」など一時的なものに過ぎません。仏教の「至高経験」である「涅槃」の状態は、哲学的に裏付けられたもので、4つの真理(苦集滅道)である「四諦」と悟りのための修行法によって獲得される永続的な価値です。しかもこの真理(法)は、「自灯明、法灯明(よく整えられた自らを拠りどころとし、正しい教えを拠りどころとすること)」というブッダ最後の言葉にあるように、権威とするべきは、自分自身と正しい教え(仏法)であって、マズローのような「自己実現欲求」ではありません。シャカは、欲求のような執着を克服することによって、永続的な幸福(覚醒・涅槃)を獲得できることを説いています。マズローの「本能的欲求が必然的に悪い のでなく、中立的な、または良いものがあることを認めよう。」(同上p150)という姿勢は好ましいのですが、人間の幸福が欲求という執着を越えてさらに永続的であれば、なお好ましいとは思われませんか。
5,社会または経営の変革について(現代社会と社会的風潮の捉え方)
まず私の「社会問題」または「社会風潮」に対する捉え方は、マズローとは根本的に異なります。マズローは、「本能と社会の対立や個人利益と社会利益の対立を本質的なものとして受け入れることは、いずれにしてもより好んで問題を作りあげることになる。」(同上p149)と言って、社会問題(対立状況)への認識を制限します。しかし、社会問題としての貧富の格差や失業の拡大、ま た政治上の利害の対立等は、自由放任・優勝劣敗のもとに放置するべきではなく、自己の利権を拡大しようとする人間同士の対立から起こるものであり、対立の根源を問題とすることによってこそ解決策も生じてくるものです。対立の生じる問題を抱えながら「健康な社会」のために、対立の解決を放棄または隠蔽するような姿勢は、逆に問題を深刻化するに過ぎません。
なお「社会風潮」とは、今日の資本主義経済においては、自由競争が不公正に行われているにもかかわらず、経済成長や活力が生まれるという理由で正当化され、経済的強者の支配と格差拡大が容認されるような風潮のことです。このような立場をもとにして、MM様による以下の難しい質問に応えようと思います。(仮に番号を付 けました。)
"@「Y-理論」の経営環境の整備が「脱落者」の救済につながるとは考えなかったのですか? A
さらにお伺いしたいのは、大江さん自身の思想においては「競争」そのものが悪なのですか? B
なぜ競争性には排他性しか存在していないかの解釈を行っているのかの説明をお願いします。C
競争が無力感を助長させると解釈するのは、無力感からの脱却を願って人間が成長するという本質そのものは不必要な論議だと解釈しているのでしょうか?"
@について。 おそらく性善説を意味する「Y-理論」だけでは、通常の営利を目的とする企業経営は成立しないでしょう。つまり、経営が成立しなければ「脱落者」の救済にはつながらないでしょう。しかし、X_理論(性悪説・管理主義)とうまく調整すれば救済は可能だと思います。多様な個性の人間の適性を考えた経営が行われれば脱落者は出ないでしょう。しかし、競争社会は効率優先なので、いくら「Y-理論」と言っても限界があります。私自身は、「互助互恵と自主性の自覚」という、効率性を越えた考え方・思想が必要だと思います。
Aについて。 競争は善悪両面があります。競争は自然の性の一面であり、また進歩や成長の原動力になりますが、他方「X-理論」に片寄り、競争と効率を排除すれば自主性・創造性が発揮されず安易に流れてしまい、組織と構成員をダメにしてしまいます。
Bについて。それは現代の世界経済が、弱肉強食の悪しき資本主義(新自由主義・市場原理主義)に片寄っていると考えるからです。現状では勝者総取り、敗者脱落、自己責任が当然視されているからです。競争は、善悪を越えた生物学的本性ですが、これが人間的に増幅され排他性(悪)が正当化されるのが問題なのです。
Cについて。否定的な環境の影響による無力感からの脱却のために、肯定的な「成長の努力」はもちろん必要です。しかし、今日では(昔 も)経済格差が進み、努力する「機会」自体が奪われているのです。競争の条件(機会)が平等でなく、低賃金で使い捨ての労働者を温存し、親や子どもの努力が報われないほどの貧困自体が問題になっているのです。健全な人間の成長には、それにふさわしい機会均等の最低条件が必要というのが私の立場です。
マズロー的経営理論については、すでに「マズロー批判」で述べています。基本的にX・Y理論は、ともに必要でしょうが、組織内での成長や自己実現は、組織の目的と自己の役割を了解・納得できる「意味づけ(合理化・言語化・組織人思想・適性)」がなければ困難になります。組織に適応できる人間は、「ジャングル的競争」のもとでも勝ち抜き、有利な地位を得て自己実現できるでし ょうが、多数の構成員は「脱落者」の位置づけを自他共に認めざるを得なくなるのです。高成長が期待できれば、それでも自己の居場所を見つけられるでしょうが、世界的に「成長の限界」が見えている現代において「マズロー的成長」は、多くの人には望めないでしょう。ただ、多少の慰めがあるとすれば、われわれの社会風潮では、組織の脱落者には、組織外でスポーツ・娯楽等の欲求不満の解消方法(不健全なものも多い)や社会保障(不十分)が様々に準備されているのです。
もはや時代は、営利を競い合う個別的な企業経営や個々人の成長努力では救済できないほど閉塞状態にあるのです。マズローは、心理学だけでなく社会や文化にも関心を持ち、旧来の伝統的(X理論的)な教育や学問(科 学)に対する革新的な提案をして、今日でも研究する価値はあります。しかし、人間の内発的成長傾向に信頼を置きながらも、短絡的に欲求階層説と知的二分法を超越する解決法を持ったために、人間の創造性と成長性の根源となる「言語的知識」そのもの、すなわち「認識論的研究」を軽視してしまいました。そのため、人間と社会のB価値の更なる成長・発展を求めたのですが、西洋思想とその学問の限界を超えることはできなかったのです(西洋思想批判の欠如)。
マズローが、将来を展望して次のような問いを持ったことは、人間の抱える問題の深さを自覚しながらも悲観論に陥ることなく、社会問題の解決をめざしていたことになり、この点では評価できます。
"どんな条件のもとに、い つ、誰が、B価値、つまり「善い」ものを選ぶのか。何がこの選択を最少限にし、あるいはまた最大限にするのか。どんな社会がこの選沢を最大限にするのか。それはどんな教育であるのか。どんな治療か。どんな家庭か。これらの問題はさらにまた、どうしてわれわれは人間を「よりよく」することができるのか。どのようにして社会をよくすることができるのかというような疑問の可能性に道を拓くのである。"(『人間性の最高価値』邦訳p174)
しかし、産業心理学や経営学に絡め捕られたのは、やはりマズロー理論の限界でしょうか?
6,心理臨床について(カウンセリングの考え方と事例)
MM様の次の指摘はとても重いもので感銘を受けました。
「大江 さんの思想においてはノイローゼに苦しむ人間は敗者なのでしょうか?
ノイローゼに陥った人間が敗者であるならば自分自身が敗者そのものです。
大江さんは私への返答文においてマズローの分析性は21世紀においては時代遅れであると記述していますが、私自身は2001年にマズローの著書を読むことによってノイローゼから脱却できました。・・・・・・・・・・・・・
苦しみからの脱却要因となった成長欲求に関するマズローの指摘は自分にとって意識の変容を伴わせる洞察そのものとなり、それは日常生活を一変させるほどの経験になりました。
お伺いしたいのですが、マズロー理論を時代遅れと断言する大江さん自身はノイローゼに苦しむ人間に対してどのような考えを披瀝するので しょうか?大変興味があるので返答をお願いします。」
MM様がどのようなノイローゼの症状であったかは分かりませんが、マズローの著書で自己治癒されたのでしたら、MM様は決して敗者ではなく勝者であると思います。また、ノイローゼの苦しみは私も経験していますので共感できます。ただ、ノイローゼの克服は、マズローの成長理論に限らず、様々のきっかけ(趣味、読書、旅行、宗教、心理療法など)によって可能であり、理論自体の真理(誤謬)性とは関係ないと思います。しかし、ノイローゼをきっかけに学業や仕事、日常生活に支障を来たし、自死に追い込まれる場合は深刻です。そのような場合は、勝者・敗者のような二分法で捉えるべきではなく、医療的な援助・治療が必要です。< /div>
私もある相談所にカウンセラーとして勤務したことがありますが、医師ではないのでロジャーズ的相談をベースに、読書、作文、将棋などをしながら認知・行動療法や家庭訪問による家族療法などを試みました。うつ病や統合失調症の場合もありましたが、医師との連携が欠かせません。ただ医師の対応の多くは、投薬とともに入院させられ、親の願い(支配)とはいうものの、本人達には積極的な意義の認められない残念なものがほとんどでした。マズローの「心理的不健康」という枠組みでは捉えられない深刻な状態(精神病や境界例)を、欲求理論や成長理論で解決するには無理があります。その意味でも、マズロー理論は旧いのです。私の関わった事例を書こうかとも思いましたが、長くなるの で止めます。(少しだけここに? https://sites.google.com/site/sawatani1/home/xintoha-heka/kokoro_jirei)
「健康な人々は程度においてのみならず種類においても平均人と非常に異なっているので,全く異質な二種類の心理学を発生させるのである。片輪で、いじけた、未成熟で不健康な標本を用いての研究は、片輪の心理学や片輪の哲学を生みだすのみであるということがしだいに明らかになってきている。自己実現者の研究は、よりい っそう普遍的
な心理学の科学のための基礎となるものでなければならない。」(小口忠彦監訳p263)
"Healthy people are so different from average ones, not only in degree but in kind as well, that they generate two very different kinds of psychology. It becomes more and more clear that the study of crippled, stunted, immature, and unhealthy specimens can yield only a cripple psychology and a cripple philosophy. The study of self-actualizing people must be the basis for a more universal science of psychology."
マズローは、従来の科学における二分法を批判したにもかかわらず、自らは自己実現者を研究することによって普遍的価値を見いだす心理学を確立しようとしました。しかし、上記の引用文に見られるように、私も関わっている臨床心理学のような「不健康な人々」に対する援助の必要性と、そのような状態を生み出す政治経済的(社会的)背景の研究に背を向け、競争社会の現実を肯定した上で競争の勝者になる心理学をめざしました。その批判については、『マズロー批判』においても『完全なる経営』を引用して概略を述べたとおりです。
マズローの自己実現理論が、新自由主義の弱肉強食と自己責任論にどのような悪影響を与え、弱者切り捨てと「不健康な人々」を生み出してきたかは 様々に検証されています。例えば教育社会学者の本田由紀氏は『軋む社会 教育・仕事・若者の現在』のなかで、「自己実現系ワーカーホリック」等による「<やりがい>の搾取」が、過労死や過労自殺の増加の背景にあることを分析しています。
マズローに悪意がなく善良な意図で「自己実現論」を展開したので、過労死や過労自殺に直接の責任がないのは確かです。しかし、同じく善良なスミスやマルクスを批判する必要があるのと同じ意味で、善意による理論が悪意に利用されたり、または歴史的社会的限界をもつ理論やものの見方考え方は、厳しい批判にさらされざるを得ないのはやむを得ないと考えます。その点、私は有名ではなく影響力もないので、今のうちに批判されることをとても嬉しくありが たく思っています。
Q3. ある仮説は、万人が容認できて初めて「科学」として認められると考えているのですか?
大江さん自身は、人間存在研究所の考えを、万人に容認されていない現在においては「科学」だとは考えていないということでしょうか?
A. 科学についてのMM様の質問についてはほとんど同意できます。また自己の考えを現時点で正しいと見なすのは当然ですが、知識は検証可能な科学的知識であっても、基本的には個人の経験に支配される主観的なものですから、修正は常に意識する必要があります。
Q4. 社会が健全になれば自ずと人間は成熟するものと大江さんは考えているということでしょうか?
不健康な社会においても成熟する人間がいるのはなぜなのでしょうか?
「成熟」の意が価値判断力の高さの体現の意で考えた場合、なぜ病的な社会下においても価値判断力の高い人間がいるのでしょうか?
A. 病的な社会だからこそ価値の格差や混乱が生じるのだと思います。何千年と続いてきた未開社会は健康だったのでしょう。文明は多くの便利と快適さをもたらしましたが、他方でそれらには戦争や貧富の格差を生み多くの悲惨な犠牲のもとに成立していました。現代は人間が本当の自分に気づき、健康な人類社会を創ることのできる時代でもあります。しかし、世界の現状を見ると、宗教、思想、政治経済的利害、環境破壊等々まだまだ混乱は続きそうです。
病的な社会だからこそ、その矛盾や混乱を克服しようとする人間も現れるのです。人類が普遍的な共通の意識で相互理解ができるような健康な社会であれば、利害の調整が容易になり、高度に複雑な価値判断力の必要性が下がります。
Q5. 私の欲求観においては、欠乏領域における優先度の高さを表す「意識の前面に現れる本質」という観点は、欲求における優先性の表れそのものです。暑い夏場に喉が渇いた人間が水分を欲することは欲求における優先性の表れとは考えないのですか?
A.? 「意識の前面に現れる本質」の意味は、意識についての捉え方が異なると思うので明確には答えられません。しかし、「喉が渇いた」ことを意識した状態の人間であれば、すでに水分欲求は優先されています。欲求が起こるよりも前に、意識が他の意識状態(例えばマラソン中の競争意識)にあれば、喉の渇きを意識しないうちに脱水状態となり、血液が固まって意識朦朧となり死に至るかもしれません。
Q6. 愛情に飢えている人間と飢えていない人間の差異は、言語構想力の違いに起因しているということでしょうか?
A. 言語とは関係ないでしょう。ただ愛情をどのように意味づけするかは、言語構想力の問題です。宗教的意味づけ(イエスの愛、ブッダの慈悲等)をする場合もあれば、単純に自己中心的な我がままで好き嫌いを主張する場合もあるでしょう。
Q7. 美的センスの高い子供と美的センスが高くない子供の違いは言語構想力に起因しているということでしょうか?
A. 美的センスは、子どもを取り巻く文化的環境が生み出した言語的構想力によって規定されています。しかし、その前提として、一般に、美的情緒的センスは個性的な要素が根底にあります。親が美的センスが高くても、子どもが同じであるとは限りません。言語構想力は根本は主観的に形成・解釈され(内的枠組み)、社会的な価値評価として大枠の基準を作ります。
Q8. 他者に依存しすぎる人間と依存することがない人間は言語構想力の高さ低さの違いに原因があると考えているのでしょうか?
A. 「言語構想力の高さ低さ」は、私流に解釈すれば「理性的か否か」「思慮的か否か」ということになりますので、他者依存とは直接関係ありません。理性的に他者依存をする場合もあるし、性格的に衝動的で他者依存したくない人もいます。
とりあえず のものです。 大江
(9)「マズロー批判」について(大江)
2017/6/22, Thu 00:28
6月24日付
MM 様
前回6月15日付けでは、Q8. までお答えしましたが、その続きです。仕事の合間に検討しているので不十分とは思いますが、再度質問いただければ幸いです。
Q9. ノイローゼになる人間は、ならない人間に比べて言語構想力に問題があるからノイローゼに陥るのですか?
A.? ノイローゼの症状は多様(症状の原因や強弱の多様性、生育環境や関係対象の違い等々)なので、一律に述べることはできません。ただ「ノイローゼになる人間」というのがあるわけでなく、ノイローゼは、多くの場合は環境に要因があり、生まれつきの気質や性格は二次的要因であるというのが私の立場なので、言語構想力とは直接の関係はありません。ほとんどの人は欲求不満やストレスの多い環境に置かれればノイローゼになります。
その場合、ノイローゼになりにくい人は、マズローの指摘するような自己実現的人間であり、逆境を乗り越えて社会的な価値(名誉・地位・収入等)を獲得することができます。そのような自己実現的人間は、意志が強く信念があり、当然それらは言語構想力によって強 化されています。おそらくMMさんは自己実現的人間であり、マズローの言語的構想力を自分に取り入れることによってノイローゼを克服されたものと思われます。
しかし、怒られることを覚悟して言えば、ノイローゼを克服する言語的構想力は宗教的教義の中にもあります。科学的知識のない時代にあっては、ノイローゼを含む心の病は、イエスの愛やブッダの慈悲による神の救済や解脱の追求という言語的構想力によって救済されたのです。もちろん言語的構想力には、祈りや瞑想修行・念仏等の具体的行動の意味づけも含みます。
人間が言語的構想力を持った新石器時代(または旧石器時代後期クロマニョン人等)以降、人間の言語的観念(おそらくアニミズム、精霊崇拝等)が日常生活(欲求・感 情や行動)を支配するようになって以来、ノイローゼに悩まされてきました。その症状の治療のため、いわゆる未開社会状況では、呪術や祈祷によって否定的感情(不安・恐怖・憎悪等)を治療・抑制してきました。その後様々の文明では、言語構想力にもとづく神話や宗教が作られノイローゼ状況の克服を試みてきました。その方法はすべて、言語を用いた原因(why)の究明に始まり信仰・教義(how)の確立がなされます。しかし伝統的宗教はすべて非科学的世界観にもとづいています。精神医学がフロイトによって確立されましたがご承知のように誤りも多く、とりわけ人間理解は不十分です。
「人間に特徴的な自己実現過程の言語的意味」とは、哲学的認識論においては言語を基本に置くことなしに、人間的自覚も自己実現も説明不可能であることを述べています。マズローは「人の欲求を述べ
ることは、人生の本質を語ることとなる。」(『人間性への心理学』日本語版への序文
小口忠彦監訳p9)と述べていますが、以上に述べたように欲求を研究するだけでは不十分です。
My study of self-actualizing persons has worked out very well-to my great relief, I must confess. It was, after all, a great gamble, doggedly pursuing an intuitive conviction and, in the process, defying some of the basic canons of scientific method and of philosophical criticism. These were, after all, rules which I myself had believed and accepted, and I was very much aware that I was skating on thin ice. Accordingly, my explorations proceeded against a background of anxiety, conflict, and self-doubt.(1970第二版序文)
Q10. 大江さん自身は今でも『マズロー批判』で行った記述に誤りはないものと考えているのでしょうか?『マズロー批判』は究極的な所、何を批判しているのですか?
A. 私のHPにおける『マズロー批判』は、『人間存在論─言語論の革新と西洋思想批判─(後編)』(2011
白川書院刊)のほんの一部で、この書の「引用文献」でも記載しているように、マズローの著作を研究したのは、以下の4冊です。
マズロー,A.H.『人間性の心理学』小口忠彦監訳 産業能率短期大学出版部 1971
Maslow,Abraham H. Motivation and personality / ; with new material by Ruth Cox and Robert Frager
3rd ed. / rev. by Robert Frager ... [et al.] New York : Harper and Row 1987
マズロー, A.H.『人間性の最高価値』上田吉一訳 誠信書房 1973
マズロー, A.H.『完全なる経営』金井壽宏監訳 大川修二訳 日本経済新聞社 2001
MM様ご指摘のように、私の参考邦訳は、第一版のもので改訂邦訳版は参考にしておりません。私にとっては改訳版を見なくても、マズロー批判上何ら問題を感じていません。上記の英文3版(1987)がありますし、1970年版の英語原文は、ネットで容易に閲覧できることはご存知だろうと思います。訳本はあくまで訳者の主観による意訳・誤訳が含まれますが、私の批判に全く影響は与えません。
Q9.A.でも述べたように、「人間性」を、欲求だけをベースに捉えることは今日の臨床心理学では考えられないことです。当然私の尊敬する臨床心理学者のロジャーズは、欲求よりも感情(とりわけ否定的感情)を重視しています。さらに私の「心(精神)の構造理論」は、「欲求と感情」の分析に加えて「言 語」の機能を重視し「心の3要素」としたことが特徴です。この点を理解されないと「マズロー批判」の要点の理解は困難です。「感情論」についてはHPに記載しておりますので、「心の構造と機能」「感情と行動」「フロイト批判」で検索・精査して下さい。
MM様にまとめていただいた「自己実現者というのは稀な存在ではなく、・・・その行為は人間特有の言語によって可能」というのはその通りで、さらにマズロー批判(不満)としては、彼の基礎ともなっている心理学と倫理学の一体化です。なぜ批判が必要なのかは、感情と言語の的確な位置づけの欠如が一体化の問題と関連があります。これを言語の側面から述べますと、前にも述べたように心理学は客観的科学(知識)であるべきなので、「欲求」という概念を、心理学上は高次と低次に分類することはすべきでないと考えます。すべての欲求の満足は快(肯定的感情)となり、不満足は不快(否定的感情)となります。ただ感情反応は基本的に無意識反応なので、記憶されても無意識下に抑圧され、不安や嫌悪・怒りなどの否定的感情は神経症Neurosisの原因となります。
また、人間の行動の動因(drive)や動機づけ(motivation)は、欲求だけにあるのではなく、欲求の充足反応(快)や不充足反応(不快)という感情反応も、「快を求め不快を避ける」ことから動因になります。喜怒哀楽のような感情反応を、動因としての欲求から分離し位置づけることは人間性をより豊に捉えることになります。フロイトもマズローも臨床に当たって感情を重視しているので すが、欲求の無意識的力動性に気を取られて、感情はもちろん言語の機能についても検討はできませんでした。
Q11. 以上の引用文における「調整」とは何を意味しているのですか?
恐慌というのは過剰雇用や過剰設備が「正常」な状態になる為に生じるとでも言っているのでしょうか?具体的な説明をお願いします。
A. この答えは経済学用語で、景気の下降状態・不景気を「調整」という用語で、不安感を持たせないように述べたものです。いつか景気が上昇し「正常」になるという意味です。
人間存在研究所の仲間についてのおたずねですが、とくにHP以外は公開しておりませんのでご了解願います。なお、多忙な状態なので返答に時間がかかるのはお許し下さい。HPの内容は多方面にわたるのでゆっくりご覧下さい。返答は遅れるかもしれませんが、次のご質問を期待しております。
なお、HP掲載を計画しておりますので、MM様のブログが開設されればお知らせ下さい。
以上 人間存在研究所 大江矩夫
(10)Re: 確認させてください(大江)
2017/8/24, Thu 18:24
MM 様
ご無沙汰しております、というのはおかしいですが、メールに気づかず申し訳ありません。
多量のメールとよく似た名前のメールがあり見逃しておりました。
すでに送付したものですが、残っておりましたのでそのまま再送付します。
よろしくお願いします。
2017/08/24
(11)Re: 欲求と感情の分離分析について(大江)
2017/8/27, Sun 22:00
8月27日
MM 様
「今後は一つの質問を通じたやり取りでお願いします。」という提案を歓迎します。私もとても答えやすくなります。返答の期限については仕事が入ると約束できません。長くなるようでしたら連絡します。必ず返答しますのでご安心下さい。
さて、「なぜ欲求と感情を分離させた上での人間性に対する分析を行っているのだろうか?」は、とても重要な質問です。というのも、西洋の心理学・哲学では欲求と感情は明確に区別されてきませんでした。デカルトの『情念論』では、基本的な情念(passion 受動)として愛、憎しみ、欲望、喜び、悲しみ、驚きの六つがあると考え、「欲望d?sir」(欲望は情念的、欲求app?titはより生理的に捉えている)は重要な役割が与えられています。しかも、「欲望」は能動的なことである(私見です)にもかかわらず、受動に分類されているのです。
19世紀になって哲学から心理学が分離し、科学的心理学が生まれましたが、フロイトが性的欲望を独立して問題にし、ようやくジェームス,W.が「本能=衝動」で欲求を表現して、情動と明確に区別しました。しかし、ジェームズの場合、社会的人間的欲求(欲望)の分析は不十分で、これはフロイトやロジャーズ、そしてマズローなどの臨床心理学者によって行われました。
MM様が例示され た、「この本には価値がある」という感情の高まりは、その前に、「読みたい、知りたい」という好奇心・知的欲求があるはずで、感情の高まりはその知的動因にもとづいた反応であり、感情反応は価値判断(価値がある)を伴い、知的欲求をさらに高め推進するのです。マズローは欲求の中に、当然感情を含めています。それはフロイト同様、西洋的な思想的伝統なのです。
ただ、ロジャーズのように来談者の感情を重視し、人間の持つ自己治癒力・成長欲求を引き出そうとする立場では、否定的感情を共感的肯定的に理解することによって、承認欲求や安全欲求が充たされ(快感情反応)、治癒に向かうと考えるのです。ロジャーズは、欲求と感情の厳密な分析を行っていませんが、当然感情と共に 欲求を意識しています(彼は臨床家であって理論家ではありませんでした)。私が欲求と感情を厳密に分けるのは、従来の心理学の混乱を収束させ、精神(心)の構造を明らかにして、心を制御し心を強くするのに必要だと思うからです。是非「心とは何か」をお読み下さい。
MM様の次の的確な質問を楽しみにしています。よろしく。
大江 矩夫
(12)Re: 修正の必要性についての伺い
2017/9/3,
MM 様
「修正の必要性についての伺い」ということで質問を戴きました。そこで、MM様のご意見・ご質問を受けてからの私の返答を読み返しましたが、両者の見解の違いは埋めがたいことを説明してきたつもりです。「解釈が誤りであった」ということは全く考えておりません。私の批判の立場は、厳しいようですが今まで述べてきたとおりです。立場が異なれば解釈も異なります。マズロー的理念は、もう古いですし、心理学を企業経営に用いるのは、経営者にとっては当然であっても、批判的な従業員には「心理的搾取」と見られるのは当然です。すでにこれは説明したので繰り返しません。
立場の違いを埋めることができないのは、「 欲求と感情」を分離すべきという私の立場と、「欲求と感情を分離して人間性を論じることに価値を感じない人間である」とされるMM様の立場が、水と油のように混じらないのと同じです。私は、「欲求と感情」に言語を加えた原子論的視点と、経済学等の社会科学的な全体論的視点で人間性を論じる立場であることを自認しております。さらに私の方法は、西洋的因果と異なる「縁起の法」を用いた仏教から学んだものです。尊敬する仏教の開祖ブッダは、人間救済を目標として原子論と全体論を「縁起の法」によって統一した聖者であり、かつ臨床心理学者であったと理解しています。今更とは思いますが、マズロー批判の理解のために『ブッダのことば』(岩波文庫)を読んでいただければ幸せに思います。
参考 宝彩有菜のスッタニパータ
「ブッダのことば」と科学
(なおマズローは「仕事を通じての自己実現は、自己を追求しその充足を果たすことであると同時に、真の自我とも言うべき無我に達することでもある」と述べ東洋思想に共感を示しています。しかし、東洋的「無我」は、原子論的立場から「欲求を止滅させる」ことであり、自身の仏教解釈の誤りに気づくことはありませんでした。)
マズローの「自己実現」は、「人間性の成熟性の高まり」を意味しているが、私がそれを歪めて解釈したとMM様が思われるはその通りです。しかし、「自己実現的搾取」はマズローの本来の意図ではないと好意的に解釈しても、彼の心理学が経営学や人事管理に 利用され、さらに「より高次の社会・ユーサイキア」という幻想を提示されては、彼の理論の根底から批判せざるを得なくなります。事実、マズロー的経営管理が、アメリカ的新自由主義と結びついたグローバル経済は、格差の拡大や精神疾患・自殺、人心の荒廃をもたらしています。これもすでに説明したとおりです。
最後にロジャーズの「臨床家であり理論家でもある」のでないかという点について。ロジャーズは、彼独自のパーソナリティ理論は構築していますが、科学的生理心理学には依拠していません。理論家なら脳生理学や行動主義や認知心理学をふまえた理論をめざすべきだと思いますが、彼の関心はそこにはありませんでした。あくまでクライアントの心の悩みを解決する援助者であろ うとしたから、臨床理論は構築しても心理学や人間性についての「理論家」ではなかったのです。臨床家とは理論に対する実践重視という意味です。
返信が遅れましたが、短い質問ご意見は助かります。ブログの準備を含めて今後ともよろしくお願いします。このような難しい議論を読まれる方はほとんどいないでしょうが、多少は参考になるのではないでしょうか。意見の分かれる問題は、読者の判断に任せるのが一番です。
2017/09/03 人間存在研究所 大江矩夫
(13)Re:感謝します.
2017/9/3
MM 様
「感謝します」「互いの健康のためにも議論をこのあたりでおやめになるのが良いかと思います」という返信に驚き、とても残念に思っています。「解釈に違いがある」からこそ議論は発展し、新しい智恵も生まれてきます。「ネット上にアップ」されるというので時間を割き、張り切って楽しく返答させていただいておりました。私もこの議論を通じていろいろ学ばせていただきました。
できればマズローのめざした「自己実現」を、仏教の法理に照らして発展させ、西洋思想との違いとその対立の克服の方法を説明できればと思っていました。MM様には、真理を求めようという熱意が感じられたので長く続けられると思っていました。私は多忙ですが健康には全く問題ありません。
MM様のご意見のように「使用者による具体的定義を重要視」するということは大切ですが、時代の変化とともに言葉の定義も変わります。しかし、マズローのめざした「人間性の成熟性の高まり」はいつの時代でも必要です。どのように人間性を高め自己実現するか、マズローにもシャカにも限界があります。どのようにするかいつも課題です。
議論好きのMM様が、議論を中止しようとされるのはとても残念で、翻意される場合いつでも歓迎します。中止に当たってMM様の「著作権」についての要望は了解しました。ホームページへの公開については、私の文章は公開しますが、MM様の名前は一切分からないように配慮します。公開すればお知らせします。その際不都合な点があればお知らせ下さい。なおこれは、MM様のプライバシーと希望に添うためであって、「著作権」という冷たい関係を尊重するためではありません。
最後に私の大好きな詩を送ります。
共通のものを
ぼくも
君とおなじように
泣き、そして笑ったことがある
君とぼくと――
そこには、いろいろのちがいもあるが
しかしそれは、へだたりではない
われわれは
小さなことでは、ちがっているが
大きなことでは、みんなおなじだ
われわれを、ちがわせているものも
かぎりない人生の真実によって
われわれみんなに共通の真実によって
一つの全体につながっている
人生への希望と
人間のすばらしさとによって
一つの全体につながっている
ヨハンネス・ベッヒャー(ドイツの詩人)
篠原正瑛 訳
2017/09/05 人