津村節子(本名 吉村節子)は福井県出身で夫君は吉村昭。1965年『玩具』で芥川賞、1998年『智恵子飛ぶ』で第48回芸術選奨文部大臣賞。福井ふるさと文学館特別館長。
この付近はかつては繊維産業(機業)が大変に盛んであった。『絹扇』は主人公・ちよの波乱に満ちた半生を描いた物語であるが、明治、大正期の会情勢、産業史、習慣、風俗などが細かく描かれていて興味深い。明治、大正が克明に描かれているので長く引用させて頂いた。
『絹扇』(津村節子、新潮文庫)
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ちよは明治二十一年生れで、かぞえ年九歳になる。
明治五年八月、日本政府は国民皆教育を目指して学制を発布したが、女に学問は不要という世相の中で、とりわけ封建的な農村では、親が女の子を就学させることに積極的ではなかった。家族だけで営んでいる小さな機屋では、子守りや糸繰り、機織りに幼い女の子供たちの手を要した。
ちよの父、中村義一郎が機屋を創業したのは明治二十七年で、七歳だった長女のちよは早速労働力として家族からあてにされ続けてきたのだった。
福井県春江村における最初の小学校は、明治五年に針原村に創立された精授小学校で、翌年四月に千歩寺の順教寺の本堂を校舎にあてて、住職が教鞭をとった。明治初期の小学校の訓導は、僧侶や旧士族が多かった。県は、教員養成のため、明治六年に敦賀に小学師範科を設け、翌年中学校を福井師範学校として発足させた。
春江村各地区に、為国、辻、井向、江留、深出、化成、太郎などの小学校が設立されたが、明治七年に江留では、在籍生徒男子は七十人、女子は一人も入学していない。
明治二十七年日清戦争が勃発した。軍人家庭ばかりではなく、農商工業にたずさわる者も学問の必要性を感じて、子供を小学校に入学させようという気運が盛り上ったが、それでも福井県における女子の入学率は四〇パーセントに充たず、子守りや糸繰りをして働く因習になじんでいる地域では、役場の学事係や訓導は、女児の就学や出席勧誘に努力せねばならない状態であった。
ちよは、学校へ通う子供たちが羨しくてならなかった。六歳の時から子守りをさせられ、遊びに行く時も妹のたみをおぶって行く。眠ると後にのけぞって重くなり、おんぶ紐が肩に食い込んで息が詰るくらい苦しかったが、外に出られるだけまだよかったと思う。
教室の窓から授業を見ることも出来た。黒板に先生が書く文字を、しゃがみ込んで地面に小石で書いた。小さな背にくくりつけられたたみは、不自然な姿勢を強いられて泣く。授業の邪魔をしてはならぬ、と幼いながら分別して、ちよは窓から離れる。
そんなある日、菩提寺の住職で教鞭をとっている渡辺がちよの家に訪ねて来た。子守りをしながら教室をのぞいている自分を、親に注意しに来たのか、とちよはおびえた。父は、慌てて御院さんを出迎えた。
「おまえんとこのちよちやんのことやが」
「ちよが、なんかしましたんで」
母も、機織りの手をやめて身をすぼめながら走り出て来た。
「いや、ちよちやんは勉強が好きなようやで、学校へ通わせてやつたらどうかと思うてね」
渡辺は入口にすくんでいるちよを見やりながら言った。
「はぁ、ほんでも女の子は学問なんかせんでも、いい機織工になったほうが身のためやと思いますんで」
「今は昔とちごうて、女の子でも小学校ぐらいは行かんとね。尋常科四年は義務教育ということになつたんやから」
明治十九年に改正小学校令が公布され、尋常科四年、高等科四年とし、尋常科四年を義務教育としたのである。民家、寺、道場などを借りて授業が行われてきた春江村の八つの小学校は、東部、中部、西部各地域に一校宛に統合して、境、江留、千歩の三小学校になつた。ちよの住む地区は、江留小学校である。
義務教育になっても、農家や家内工業の機屋の娘は殆ど通学していない。義務教育と言われても、ちょの両親はちよを就学させないでいることに、後めたさも感じず、ちよを特別不憫とも思っていなかった。
「ちよちやんは、教室の窓から熱心に授業を見学してるんや。教室にいる子よりも熱心なんやわ」
渡辺は住職としても、訓導としても、檀家の子弟のことは気にかかる。教室の窓の外の土に、ちよが手習いした文字が残っていることを、彼は両親に話した。
「ほうですか。ほうゃったんですか」
父は初めて聞く話に溜息をついた。
しかしちよは、自分が家にとって重要な働き手であることを自覚していた。たとい先生が説得に来てくれても、状況に変りがないことを知っていた。わずかな期待が芽生えないわけではなかったが、思った通り何も生活に変化は起らなかった。
義一郎夫婦の間で、そのことについて話し合われることもなかった。話し合っても、どうしようもないことであった。
その頃、義一郎は農業から機業に転換する準備を整えていたのである。当然ちよの手伝いも予定に入れてのことでぁった。
春江村は、広々とした福井平野の中央に位置している。横長の村の北境を兵庫川が流れ、西方を大河九頭竜川が南から北へ流れている。村のほぼまん中を磯部川が東から西へ流れている。
磯部川の流域に曲りくねった畔道が通り、その左右に不定形な田んぼがひろがっている。昔から米づくりが盛んな地域で、米は清永に設けられている舟着場から積み出された。川舟一隻に六十俵の米を乗せ、兵庫川を下って三国まで運ぶ。清永はこの近辺の物資の集散地になっていた。
春江村では米の他にも、麦や豆、なたね、綿などを生産していた。麻や綿を糸にし、丸岡からも綿糸を購入して、織物が盛んに織られていた。女たちは地機で家族の衣類を織り、自家用だけではなく販売用の織物を織る家もあった。
明治二十二年に、春江村江留上の寺島秀松が二、三台のバッタン機を据えて羽二重の試織をし、二十三年に同じく江留上の岡崎利作が羽二重の製織を始めたのがきっかけになり、村でつぎつぎに機屋を創業する者が現われた。ちよの家は自作農であったが、義一郎も羽二重景気に刺激を受けたのである。
明治十三年頃、桐生で初めて輸出羽二重の製織が試みられ、輸出に成功した。海外の評価が高く、桐生の他に足利などでも生産されるようになったが、需要は拡大する一方であった。
福井県における最初の織物会社、福井職工会社は、旧藩士で養蚕業を営んでいた酒井功が、これからの機業は個人経営の家内工場では発展を望めない、と旧藩士に呼びかけて明治十年毛矢町に設立した会社である。洋傘地、ハンカチーワなどを製織していたが、明治十八年の冬、横浜に店を出している福井県今立郡栗田部出身の小林清作商店から、アメリカ向けの輸出羽二重の注文が舞い込んだ。
それと前後して、栗田部の製糸業者坪田孫助は、生糸売込みのため横浜に赴いた折に、羽二重の輸出が桐生、足利で注文に応じ切れず、外商が新しい生産地を探しているという情報を得て帰って来ていた。
せつかくの注文を受けながら、しかし福井県では羽二重の製織は行われていなかった。そこで、先進地桐生から技術指導者を招くことになり、森山機業場の森山芳平に依頼すると、弟子の高力直寛を推薦した。その時、紋織研究のため京都にいた高力は、明治二十年に来福したのであった。
一機業から平均二名ずつ数十名の女子工員が、職工会社の二階に設けられた仮伝習所で、三週間にかたって高力から羽二重の講習を受けた。
羽二重の需要がふえるにつけ相場は高騰し、製織家の利潤が高まるにつれて、機業を志す者が続出した。明治二十四年まで、群馬県が羽二重生産高一位を誇っていたのが、二十五年には福井県がそれに代ったのである。
福井県が首位を占めるようになった理由の一つは、効率のよいバッタン機を用いたことが挙げられる。当時桐生羽二重は、従来の地機を用いていたのだった。
福井藩では、明治三年にフランスからバッタン機を二台購入していたが、誰もその操法を知らなかった。京都市では明治五年に織物伝習生をパリに派遣し、バッタン機の使用法を習得、バッタン機とフランス式ジャカード機を購入して、京都二条河原町に織物工場を創設し、織機使用法を公開伝授していた。酒井功は京都へ官費生を派遣することを県に陳情した。
選ばれた橋本多仲は、バッタン機の構造と運転を、細井順子はバッタン機による製織の技術を習得するため、家族を残して京都へ出発したのだった。
バッタンは、織機の杼(ひ)のことである。これまでの織機は、緯糸(よこいと)を巻いた管を乗せた舟型の杼を、開口した経糸の間に手で投げ入れていた。バツタン機は、筬枠(おさわく)の左右に杼箱が設置されている。踏木を踏んで経糸を上下に開口させ、バッタン装置の上部の滑車にかけて杼に連結した紐を引くと、
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春江村では大正六年末に五十戸の機業が、二千五百台の織機で利潤の多いフランス縮緬やその他の変り織物を生産するようになった。
大正六年十二月二十二日付の大阪毎日新聞では、福井県郡市別輸出向絹織物の織機数を、次のように報じた。
輸出向羽二重 輸出向変り織物
福井市 二六九〇 一三四三
足羽郡 一九〇 三三四
吉田郡 六〇八 一五一六
坂井郡 七八七 二〇八二
大野郡 一五七九 一四五
今立郡 一八四七 二八七
南条郡 一四七〇 〇
輸出向変り織物は、福井市や他の郡を抜いて、坂井郡が首位であった。春江村一村の絹織物生産がもたらす利益は、 一年間で約三百万円になり、それは大正六年の県の歳出約二百万円の一・五倍にもあたる額であった。
輸出向絹織物の好景気に沸く福井県は、電力不足や職工不足におちいっていた。大正四年から八年にかけて、県下に十一の発電所が建設され、出力は大正四年以前の九発電所の二・七倍にもなった。輸送部門でも、北陸線をはじめ、越前電気鉄道、南越鉄道、丸岡鉄道などは、三年から八年にかけて三倍から五倍の増収を見るようになった。
春江村では、既設の工場は拡張増設し、新たな機業がつぎつぎに建設されていた。
西山機業のオモヤは、明治二十五年の創業で、寺島秀松、岡崎利作、島崎五三次郎らに続き、坪内鶴吉らと共に春江羽二重の草分けであった。アラヤの順二も、ちよと結婚して西順を創業し、オモヤには及ばぬながら着々と業績を伸ばしていた。
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