渾身の論理

 国連の関連機関がまとめる「世界幸福度ランキング」において、日本の順位がさらに低下した。3月14日に公表された2018年版のランキングによると、日本の幸福度は156カ国中54位となり、前回から3つ順位を下げた。

 こうしたランキングは豊かな小国が上位になる傾向が強く、規模の大きい国は不利になるが、それでも先進各国の順位を見ると、ドイツが15位、米国が18位、英国が19位、フランスが23位だから、日本のランクは著しく低いと言ってもよい。ちなみに韓国は57位、ロシアは59位、中国は86位である。
 
 クリミア侵攻によって欧米から経済制裁を受けているロシアとさほど変わらない順位が、人を陥れる警察の交通行政と無関係とは言い切れない。
 日本の警察は、毎年、1000億前後の金を違反金で稼ぐばかりか、4万人以上ものドライバーの免許を取り消しにするのだから、日本の幸福度ランキングが上位に来ることはまずないと言えるだろう。
 そして、日本の自殺率は警察発表の数字から計算すると世界平均の1,8倍になり、他の国で年間自殺する人が平均17,000人なのに対して日本の自殺者は30,000人前後になる。
 しかし、日本にはこの他、年間15万人ほどの変死者がいてWHOではその半分を自殺者としてカウントするので、そういった事例をもとに計算すると、実際の自殺者数は11万人前後ということになる。この数字は実に他の先進諸国の10倍になる。
 それにもかかわらず警察は2017年の自殺者数は21,000人になり8年連続減少したと日本の好印象を演出する。しかし、これが偽善であることは一目瞭然である。
 
 日本が「世界幸福度ランキング」で、先進国のなかでも低位に甘んじざるを得ないその最大の原因は警察組織にあると言っても過言ではない。年間スピード違反で検挙されるドライバーは200万人から250万人という統計がある。その他の違反を合わせると年間800万人以上ものドライバーがささいな違反で検挙され免許停止や免許取り消しにまで至る。
 その結果、職を失った職業ドライバーも沢山いて一家離散の運命に陥った者も少なくない。最近トラックドライバーの減少が問題になっているのも、警察の私利、私欲のための取締りがその一因といってもいいのではないか。
 
 警官らは点数のノルマがあるせいか違法検挙も平然と行う。以前、大阪でタクシーの乗務員をしていたが、東方向から大浪橋を渡って三軒家の一つ手前の交差点で乗客を降ろしたときにUターンをしたかったが、どこでもUターンは違反の箇所が多いので、交差点を左折して次の交差点も左折してその次の交差点を右折して戻ろうとしたことがあった。
 そして、左折できるかどうか信号を見たところ、午後4時ごろだったので、信号の横の道路標識が西からの太陽の光がまぶしくて見えづらいので、左折する側の道路を見たら二車線あって進入禁止の標識もなかったのでゆっくりと左折しだした。その時、気がつかなかったが、北側の交差点には赤信号でパトカーが停まっていて、私の行動を一部始終見ていたにもかかわらず、私が左折をし終わるまで何の警告もせず、左折し終わるのを確認してからサイレンを鳴らして私を検挙した。
 
 しかし、警察官職務執行法には、
「この法律に規定する手段は個人の生命、身体及び財産の保護、犯罪の予防を目的として、必要な最小限度において用いるべきものであって、いやしくも、濫用することがあってはならない。」
 とのことで、取り締まりのための取り締まりは本来あってはならないということが記載されてある。
 と、いうことは、通常警察には指導義務があるので、違反行為をじっと黙ってみていた場合、切符は切れないのである。
 警察は違反をしようとする現場を見たら直ちに違反をしないよう注意警告する義務があるにもかかわらず、このパトカーは違反を未然に防ぐ注意勧告をせず検挙できるまで放置していたのである。このパトカーに限らず、全てのパトカーに乗務する警官は警察官職務執行法を守る気などさらさらないのである。なぜならノルマがあるせいでそんなクソにもならない法律など守れるわけがないのである。
 
 本来隠れて取り締まりをするのもアウトなのだ。それなのに信号無視をしそうな交差点でパトカーが待ち伏せしているのをよく見かけることがある。信号が青になると仕方なく左折してその後も左折を繰り返して元の待ち伏せしていた交差点に戻るのである。そして新たに待ち伏せをして、たまたまはずみで赤信号に変わった直後に通過したクルマを信号無視で捕まえるのである。
 
 警察官職務執行法など全警察官に守る気など全くなく、それどころか捏造して違反摘発する警官もいるのである。
 大阪府警南警察署の柴田某という警官ともう一人の警察官は心斎橋横断歩道付近をテリトリーにして駐車違反のドライバーを摘発している。
 私が心斎橋横断歩道付近で客待ち駐車をしていたら一人の男が近づいて来たのでドアを開けた。その男はタクシーに乗り込むと同時に「警察や」といって警察手帳を見せた。それが南警察署の柴田某だった。
「3.3メートルしかない。駐車違反や」
と、私に駐車違反を告知した。
 私は駐車するときに目測で横断歩道より5メートル離れたところに停めた積りだが、5メートルに満たなかったのかも知れない。しかし、わたしは、フェンダーミラーは言うに及ばずバックミラーでも常に客が近づいてくることを見張っており、後方で計測した様子はまったく見なかったので、「何で測った形跡もないのに距離が分かるんや」と反論した。
「俺がこの車に乗ると同時に、もう一人の警官が測ったんや」
と、柴田は言った。
 しかし、この言葉が嘘であることは一目瞭然である。なぜなら、それなら報告を受けるまで3.3メートルという数値は出ないはずである。測りもせず憶測で違反を告知しているのである。証拠主義の法治国家ではこの行為は犯罪の捏造になるのだ。

 法を守るべき警官たちが法を犯してでも違反検挙するのはすべてノルマのせいである。元来、公務員にノルマを課すことも違反のはずだが警察のお偉方はノルマなど与えていないと平然と嘘をつく。
 警察に一旦、違反を通告されると、ドライバーはどうもがいても助からない制度になっている。違反に納得いかず、否認すると検察庁に送付されるが、その結果、検察庁が違反と認定できず不起訴にしても、ドライバーは警察から行政処分を下されて違反に応じた点数を引かれるのである。
 不起訴と言うのは無罪に等しいにも関わらず、警察はドライバーを免停にしたり、免許取り消しにするのである。法曹界からもこういった制度に異論がなされているが、警察は強引に我田引水の法律を適用するのである。

 1968年以前には点数制度はなく、違反金を支払えばその違反は帳消しになったのである。警察は自らが潤うために、違反金を支払っても尚且つそれではすまない制度を作りあげたのである。その為に今までに、点数制度が発足して3億人前後が違反検挙され、単純計算でも200万人以上もの人達が免許取り消しになり職を失って悲惨な目にあっているのである。悪質ドライバーや無法ドライバーが免許取り消しに遭うのは当然の事だが、免許取り消しに遭っているのは大半が職業ドライバーなのである。

 次の表を見ても判るが、ここ4年ですら毎年4万人以上ものドライバーが免許取り消しに遭っているのである。令和2年になってやっと4万を切ったがそれでも検挙目的の道交法のため犠牲になった家族は相当の世帯数に登る。無法ドライバーや悪質ドライバーは検挙されて当然だが検挙目的のための低めの法定速度などは決してするものではない。

 

  年別  取り消し  免停長期  免停中期  免停短期  合 計
 平成28年  42,248  49,284  48,843  201,298  341,673
 平成29年  44,237  45,883  45,303  182,410  317,838
 平成30年  44,887  44,339  39,061  156,392  280,679
 令和元年  40,031  39,370  33,405  138,556  251,362
 2年  36,432  34,147  29,866  125,252  225,697

 なぜ違反の検挙率が高いのかというと、一つには日本の法定速度が異常に低く設定されていることである。
 野村氏が運営されている「交通行政監察官室」というサイトに掲載されている「スピード規制の国際比較」というものを見れば日本の法定速度の低さが一目瞭然でわかる。

道路種別⇒

自動車専用道路

一般道路(郊外)

市街道路

ドイツ

制限なし(推奨130km/h)
(規制された区間もある)

100km/h

 50Km/h

フランス

130km/h(雨なら110km/h)

 90km/h(片側2車線なら110km/h)

 50Km/h

イタリア

130km/h

 90km/h

 50Km/h

スペイン

120km/h

 80〜100km/h

 50〜60km/h

スイス

120km/h

 80km/h

 50km/h

オランダ

120km/h

 80km/h

 50km/h

ポルトガル

120km/h

 90km/h

 50km/h

イギリス

112Km/h (70MPH)

 96Km/h (60MPH)

 48km/h (30MPH)

 それに対して日本の高速道路は80kmから100kmで、欧米に比べて40kmも低いのである。警察は事故防止という美名を錦の御旗にして法定速度を低くして違反金を稼ぐのである。違反認定されるドライバーはたまったものではない。
 その他、警察の私利私欲で高速道路と認定しない首都高速や阪神高速の法定速度は60kmで場所によっては一般道路よりも低い50kmのところも多々ある。仮にも高速と名が付いて一般道路よりも低速の法定速度が存在するのは日本だけである。当然、利用しているドライバーの殆どが違反走行しているので警察は好きなとき自由に違反者を捕まえることができるのである。そしてもっとひどいのは郊外にもかかわらず法定速度が40kmから50kmのところが多々あって、それによってネズミ捕りで検挙されるドライバーが膨大な数になるということである。表を見てもわかるように欧米では郊外は80km以上で、やはり日本とは40kmほどの差がある。
 
 今から四十数年前にヒットした演歌に「釜ヶ崎人情」というのがある。歌手の名は三音英次と言い、メジャーではなかったが知る人は知るという感じだった。
 しかし、歌手では飯が食えなかったのか昨今では大阪でタクシーの運転手をしていた。三音英次は深夜お客さんを送って繁華街へ帰ろうと外環状線を走ったときに、移動オービスでネズミ捕りをしていた車両にスピード違反で検挙された。おそらく何度目かの免停になるか免許取り消しの可能性もあったのではないだろうか。
 彼はどこかでガソリンを調達しオービスを積んだ警察車両にガソリンをかけ燃やそうとした。彼は殺人未遂で捕まり刑務所行きとなった。放火しようとしたことは決して許されるべきことではないが、欧米とは20km以上もの差がある金儲けのための低めの法定速度で人を破綻に追い込む警察には罪がないのだろうか。
 
 彼に妻子がいたかどうか分からないが、居たとすれば妻子はたちまち絶望的な環境に追いやられるのである。
 その他にも警察は、追い越し禁止にする必要のないような場所でも追い越し禁止にしたり、車線変更禁止にする必要のない場所でも車線変更禁止にしたり、Uターン禁止にする必要のない場所でもUターン禁止にしたりして、多くのドライバーが違反するように仕向けているのが現状である。
 年間四万人以上もの免許取り消し者の大半は職業ドライバーである。彼らはそれぞれ車を運転することで生計を立てているのである。しかし、免許取り消しによって職業を奪われ人生を奪われるのである。彼らの家族も同様の運命に遭う。法定速度が警察の金儲けのために低めに設置されたがゆえの破綻である。文明国家にこんな悲惨なことがあってもいいのだろうか。それが国連の関連機関がまとめる「世界幸福度ランキング」で日本が低下する原因ではなかろうか。しかし、違反を犯しやすいような法律を設定して、多くの人間を陥れて金を稼ぐ行為を神が許すわけがない。
 
 神は存在しているのである。ある日、記者から宗教についての見解を求められたアインシュタインは、「このコーヒーカップをここに置いた人は、誰か分かりますか?」と問いかけた。記者は、当然のように「もちろん、アインシュタイン博士、あなたです」と答えた。

 アインシュタインは、「コーヒーカップなどの小さい物でも、ある力が働かなければ動かすことは出来ません。考えてみてください。この宇宙にはたくさんの星があって、それらを一定の軌道で運行させる、その力をだせるのは、神しかいません」と説明した。

 あるインタビューでは、「一部の人は、宗教は科学理論に合致しないと考えている。私は科学者で、今日の科学は、特定の物体の存在を証明することができるが、特定の物体が存在しないことを証明することはできない。従って、われわれがある物体が存在することを証明できなくても、その物体が存在しないということを断定してはならない」と語った。

 さらに『原子核』を例として、「数年前に、例えばわれわれが原子核の存在を証明できなければ、もしその時、『原子核は存在しないのだ』と断言していたとしたら、それは大変な誤りを犯していたのではなかろうか?」と説明した。

 アインシュタインは『神』の存在について、「今日の科学が神の存在を証明できないのは、科学がそこまで発展していないのであって、神が存在しないのではない。人間の五感は限られており、神の存在を感じることはできない。科学も神の存在を否定はできないのであるから、われわれは神の存在を信じるべきである」と語った。
 ではその神は人間にどういった影響を与え、人間に何を意図しているのかという疑問が湧く。
 そのことについてアインシュタインは一言も述べていない。しかし、神がただ存在するだけの存在で有るはずがない。
 霊界からの霊訓では、神とはこのように述べられている。


 神とは何でしょうかの質問には 神とはこういうものですと、ひとまとめにしてお見せすることはできません。無限なる存在だからです。いかなる言語も概念も説明図も有限です。小なるものが大なるものを包含することはできません。ただ宇宙をご覧になれば私のいう大霊(神)がいかなるものかが、いくらかはおわかりになるでしょう。あくまでも自然法則によって規制され、千変万化の現象のすみずみに至るまで配列が行き届いています。極致の世界から荘厳をきわめた極大の世界に至るまで、生を営み運動し呼吸するもの、要するに宇宙に存在するものすべてが、大自然の法則によってコントロールされています。

 創造された私たちに、どうして創造者が叙述できましょう。無限の壮大さをもつものを、お粗末な概念でしか描けない私たちにどうして叙述できましょう。大霊(神)は人物ではありません。神々しい個的存在ではありません。個的存在を超えたものです。摂理と愛と英知と真理の究極的権化です。大霊は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。なぜなら、すべてが不変にして不滅、完璧にして全能の法則によって治められていることを悟れば、完全無欠の公正が間違いなく存在し、宇宙の創造活動の大機構のなかにあって、だれ一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです。

 大霊とは、宇宙の自然法則のことです。顕幽にまたがる全生命の創造力です。完全なる愛であり、完全なる英知です。大霊は全宇宙に瀰漫(びまん)しています。あなた方がご存知のその小さな物的宇宙だけでなく、まだご覧になっていない宇宙にも瀰漫しています。その法則として働いているものは一体何か。無限なる存在です。旧約聖書に出てくる巨人のような人間ではありません、復讐心に満ち、機嫌を損ねると地上に疫病をまき散らすような、そんな気まぐれで憤怒に燃えた神ではありません。大霊はすべての生命にも充満しています。あらゆる存在の内部に息づいています。あらゆる摂理にも大霊が宿っています。生命であり、愛であり、すべてです。

 大霊はこの広大無辺の宇宙で絶え間なく作用している無限の知性です。因果律の働きは完璧です。原因があれば数学的正確さをもって結果が生じます。その原因と結果のつながりに寸毫たりとも影響を及ぼす力を持つ者はいません。刈り取る作物は播いた種から生じているのです。神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用します。すなわち、親切、寛容、同情、奉仕の行為が自動的に、それ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義、罪悪、不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も、安価な赦免もありません。人間の法律は機能しないことがあります。改められることもあります。人間の成長と発達に伴って視野が広がり知識が無知をなくし、環境が変化するに伴って新たな法令が要請されると、従来の法律が廃止されたり、別の法律と置き換えられたりすることもあります。

 しかし、神の法則に新しい法則が付け加えられることは絶対にありません。改正もありません。解釈上の変化も生じません。いま機能している法則は、これまでもずっと機能してきた法則であり、これからも変わることなく機能していきます。一瞬の休みもなく機能し、そして不変です。利己主義のタネを播いた人は、利己主義の結果を刈り取らなければなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑な人は、不寛容と頑固の結果を刈り取らねばなりません。世の中が偶然によって動かされることはありません。どちらを向いても、天体望遠鏡で広大な星雲の世界を覗いても、顕微鏡で極小の生物を検査しても、そこには必ず不変不滅の自然法則が存在します。あなたも偶然に生まれてきたのではありません。原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした秩序の世界には、偶然の要素の入る余地はありません。

 全生命を創造した力は、その支配のために、規則ないしは法則、あるいは摂理というものを用意したのです。その背景としての英知も機構も完璧です。全ては霊的なものです。すべての生命は霊的存在だからです。生命が維持されるのはその本質が物質ではなく霊だからです。霊は生命であり、生命は霊です。宇宙は道義的な意図で満ち溢れており、非動義的意図は大霊(神)の摂理に反します。人生に偶然はありません。偶発事故というものもありません。偶然の一致というものもありません。全ては普遍の自然法則によって支配されています。私たちは因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人として神の摂理のウラをかくことはできません。ごまかすことはできません。自分が自分の救い主であり、贖(あがな)い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けるのです。

 人間はみな、地上生活での行いの結果を魂に刻み込んでおり、それを消し去ることは絶対にできません。その行いのなかに過ちがあれば、その一つ一つについて、然るべき償いを終えるまで霊性の進化は得られません。

 善い行いをすればそれだけ霊性が増します。利己的な行いをすればそれだけ霊性が悪化します。それが自然の摂理であり、これだけはごまかすことができません。死の床にあっていくら懺悔の言葉を述べても、それで悪行がもたらす結果から逃れられるというものではありません。地上では特定の神を信じれば救われ、反対にその組織が崇拝する神を崇拝せねば救われないと説く宗教がありますがそのような事はありません。神とは自分が崇拝されたからと言って喜ぶような人間的存在ではありません。もしそうであれば神の公正が根源から崩れてしまいます。邪悪で利己的な人生を送った者が、神を崇拝したからと言って素直で利他愛に富んだ人生を送った者を差し置いて神の恩恵に浴することがありえましょうか。

 神を崇拝し自分は選ばれた一人のつもりになり、宗教的行事に傾倒している人間よりも、転んだ人に手を差し伸べ、飢えた人にパンを分け与え、悲しみに打たれている人に励ましの言葉を掛ける無神論者の方が遥かに神に近く尊い人物です。

 宗教に教義、経典、教祖、礼拝堂、賛美歌は必要ありません。宗教とは利他愛の実践、一言で言えば「サービス」これにつきます。大切なのは利他愛の実践であって、神を信じるかどうかは関係ありません。神を信じるからと言って神から寵愛される訳でもなく、また神を信じないからと言って罰せられることもありません。
 
 
宗教に教義、経典などは必要ないという。イスラム教では、牛は食ってもいいが豚はだめだという。
 神が牛は食ってもいいが豚はだめだと区別するわけがない。宗教の聖職者らが勝手に作った教義でしかない。キリスト教の聖水もそうである。神がこれは聖い水でこれは普通の水と区別する訳がない。キリスト教の神父や牧師が勝手に決めたものでしかない。
 神の本音としては、魚以外の全ての動物を食うことなく、親切、寛容、同情、奉仕の摂理を守ってより良き社会を構成しつつ成長、進化を遂げていって欲しいのが本心である。しかし、多くの人間が勝手に動物を殺して食っているので 今は人間が動物を食うことを仕方なしに許容している状態といっても良い。
 
 交通行政に関しての警察の私利私欲、利己主義は半端ではない。神の摂理である、愛、親切、寛容、同情、奉仕なんてものは微塵もない金儲け主義で、最近、交差点などでは多いときには、四五人の警官が出張って、信号の変わり目などに、つい物のはずみで直進や右折したドライバーを摘発している。これは駐車監視員に駐車違反などを摘発されて、ノルマを達成できなくなった警官たちが、自分たちのノルマを達成するために、なりふりかまわず仕事をほっぽり出して交差点に出張っているのである。そこまでさせる警察のお偉方は自分たちの罪を認識しているのだろうか。

 マハトマ・ガンジーの社会的七つの大罪の一つ、労働なき富を享受している警察のお偉方はこの神の摂理を絵空事と思い一笑に付すのだろうか。
 数年前、読売新聞が交通安全協会の使途不明金が63億円あることを報じていたが、その金が何処に上納されたかは想像に難くない。
 無論、警察の子会社ともいえる交通安全協会が捜索されることはない。警察庁のお偉方は、毎晩、高級クラブや高級料亭で飲食を重ねていると思われても仕方のないことである。世間の一部では、警察のことを何といっているか知っているのだろうか。ヤクザと一緒や、と言っているのである。

 利己主義のタネを播いた人は、利己主義の結果を刈り取らなければなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑な人は、不寛容と頑固の結果を刈り取らねばなりません。

 人を罪に陥れる警察の不寛容さは比べるものがないほどにひどいと言える。しかし、死ねば分かるのである。多くの人間を利己の為に罪に落として、交通安全協会から上納された金で、毎日豪勢な暮らしをしている事がどんなにひどい悪であるかを。
 悪行を続ける者に対しては、シルバーバーチはこう言っている。


 そういう人は必ず罰を受けるのです。いつかは自分で自分を罰する時がくるのです。 中略 私の目には、いずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受ける苦しみが見えるのです。暗黒の中で悶え苦しむのです。その中で味わう悔恨の念そのものがその人の悪業にふさわしい罰なのです。
 
 今は権力の上層に位置しドライバーの血と汗の金を違反と云う名目で搾取し毎日ウハウハの人生を謳歌しているが、この世に永遠に続くものはないのである。いずれ齢を経てさまざまな地位からも解職され、老後にどんな人生が待ち構えているかも知れないのである。

 因果律は数学的正確さで達成されるという。過去にはこんな事件もあった。自宅で妻の首を絞め殺害しようとした元警官の90歳の男が逮捕された。妻は搬送先の病院で死亡が確認され、男は殺人で逮捕されたが、自身も妻も病気で患っていたと説明し、二人で生きていくのに疲れて、将来を悲観して殺したと供述したのである。

 その前には86歳の元警視が近所の62歳の女性を日本刀で切り殺した事件もあった。元警視が玄関先の植木に殺虫剤をかけていたところ、女性から「私の猫にかかってしまう」と抗議され、口論になったことが発端だったそうである。元警視は女性宅で首を切って自決した。元警官も元警視も公務員として、厚生年金保険で充分に生活できる環境であったと思われるが、いくら金があっても幸せな最後を迎えるとは限らない。この二人は人生最後の最後になって不幸な結果に終わってしまったが、きっと警察幹部は、これは偶然の出来事だったと片付けるに違いない。しかし霊訓は、この宇宙に偶然は一つもないと言い切っているのである。これは因果律の結果であり、この二人がもし、親切、寛容、同情、奉仕の神の摂理を念頭に置いて人生を送っていたら決してこんな最後を迎えることはなかったのである。霊界からはっきりと述べている。

 
 人生には個人としての生活、家族としての生活、国民としての生活、世界の一員としての生活があり、摂理に順応したり逆らったりしながら生きております。逆らえば、そこに暗黒と病気、困難と混乱と破産、悲劇と流血が生じます。順応した生活を送れば、英知と知識と理解力と真実と正義と公正と平和がもたらされます。
 世の中が偶然によって動かされることはありません。どちらを向いても、天体望遠鏡で広大な星雲の世界を覗いても、顕微鏡で極小の生物を検査しても、そこには必ず不変不滅の自然法則が存在します。あなたも偶然に生まれてきたのではありません。原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした秩序の世界には、偶然の要素の入る余地はありません。


 そして霊訓はこうも言っている。
 
 人間の行いは道にそった行い、神の道に従ったとき正しい行いとなり、これ以外の道は、結局は行き止まりの道か幻影にすぎない。


 警察組織が、親切、寛容、同情、奉仕などの神の摂理を微塵も実行する心のないことは次の事例を見ても明らかである。数年前、自民党政権の時、免許の更新を三年(違反のない場合は五年)から大幅に延長することが提案されたが、警察庁が猛反対したことは忘れられない。免許更新の度に莫大な実入りが交通安全協会にもたらされるので、警察関係者にとっては免許更新の大幅延長など飛んでもない話なのである。彼らは一から十まで己らの利己のみを考えて、人の便宜を図るなんてことは小指の先ほども考える訳がないのである。

 死ねば初めて自分が永遠に死なない存在であることが分かり、自分らが国民に課した交通規則の悪辣さが分かるのである。因果律は決してアバウトに返るのではなく数学的正確さで返るのである。自らを潤うために人を罪に陥れた者たちの未来は暗澹たるものであることを覚悟すべきである。
 その他にも霊界からの霊言は、人間の行き過ぎた行為と自然災害とは無関係でないと語っている。

「食べ過ぎると胃腸の調子がおかしくなります。神はその不快感をもって各自の限度の規準としています。その限界を超えると神が罰するということです。同じことが他の全てのことについて言えます。何事にも摂理によって必要限度というものが設定されており、それを超えると自動的に苦しみが生じて罰せられます。”それで十分”という神の声に人間が耳を傾けるようになれば、天災と思い込んでいる地上の災害の大半が未然に防げるはずです」

 キリストもこう言っている。

「この世は私たちの潜在意識で思っていることが世界に反映したものであり、人間の想念が造り出した世界である」
 
 想念が造り出した世界とはどういった世界なのか。私の想像だが悪行ばかりの人間しか存在しない世界があったとしたらきっと津波、地震、噴火といった自然災害が止むことのない世界なのではないか。反対に善行ばかりの人間しか存在しない世界は一切自然災害とは縁のない世界に違いない。
 
 土木学会は平成30年6月7日、巨大地震や高潮、洪水による被害額の試算を公表した。地震とそれに伴う津波は発生から20年にわたる被害を累計し、南海トラフ巨大地震は1410兆円、首都直下地震は778兆円と見積もった。政府の想定を基に、長期にわたる国内総生産(GDP)の落ち込みを阪神大震災の経過を参考に推計。従来の政府の試算を大幅に上回る規模となった。高潮と洪水は東京、大阪、名古屋の3大都市圏ごとに試算し、首都圏や大阪では14カ月で最大100兆円を超える被害が出ると算出した。
 
 土木学会は1410兆円や778兆円もの途方もない自然災害の被害を見積もったのである。三権分立の一角である司法が悪辣な方法で人を陥れて金を稼ぐ限りは、それは避けられない国難とも言える。今こそ霊界からの箴言に耳を傾けるべきである。
 
 霊界からははっきりと、地上の災害の大半が未然に防げるはずだと述べられている。
 
 
何事にも摂理によって必要限度というものが設定されており、それを超えると自動的に苦しみが生じて罰せられます。”それで十分”という神の声に人間が耳を傾けるようになれば、天災と思い込んでいる地上の災害の大半が未然に防げるはずです。
 
 神は人間に、親切、寛容、同情、奉仕の摂理を説いている。これは私の想像だが神は人間に、より良き社会を形成することを義務付けているのではなかろうか。
 
 一流大学を出た官僚たちは、アインシュタインやニュートンよりも賢いと思っているのだろうか。彼らは目に見えるものだけ手に触れるものだけが全てだと思い、それ以外の世界は微塵も存在するとは思わない。そして一流大学を出た経歴を誇り、自分を能力のある人間と錯覚しているのである。しかし、私から見ればアインシュタインやニュートンとは比べ物にならないくらい幼稚な頭脳しか持ち合わせず、自らを知らないというのは恐ろしいことである。
 
 視力、嗅覚、聴覚といった感覚は生物が生きていくのに必須のものだが、視力一つを取っても水晶体を通して脳で見るといった複雑な生理機能の働きが存在しているのである。しかし、そういった複雑な生理機能が他の動物や魚、或いは蚊、ハエ、蟻に至るまで存在しているということを、人は自然に生じたと思っているのだろうか。
 
 自然界がどういう状態になったら全ての生物に視力や嗅覚、聴覚が生じるというのだろうか。窒素と酸素の大気があったら自然に視力や嗅覚や聴覚が生じるとでも思っているのだろうか。自然界がどういう状態であっても全ての生物に視力や嗅覚、聴覚が生じることなどあり得ないのである。いくら進化の法則の論理をもってしても、全ての生物に、視力や、嗅覚、聴覚といった感覚が自動的に生じるものではない。
 
 神がライフラインとして全ての動物に与えたからこそ、末端の昆虫に至るまで、視力、嗅覚、聴覚といったものを備えるに至ったのである。視力や嗅覚、聴覚が自然に備わるものだと考えている人間がいるなら大ばか者としか言えない。神がウイルスや末端の害虫まで存在させているのはただただ人間の進化のためである。何の病気もなく何の気苦労もない人生では人間は堕落の一方を辿るのではないだろうか。
  
 神は確実に存在しており、神は人間に、親切、寛容、同情、奉仕などの摂理を守ってより良き社会を形成することを目的としているのである。
 十字軍とイスラム教徒の戦いを描いた映画「キングダム・オブ・ヘブン」(天国の王国)で、伝承か想像かは知らないが、古民家の梁に、良き世を創るのが人の務め、と彫刻された映像があったが、私が神の意図とはこうなのではないかと推察した、神は人間に、より良き社会を形成することを目的としている、といった一文にそっくりなので、私と同じように考える人がいることに思わずビックリした。
 
 違反を犯しやすい道路状況にして、人を罪に陥れ金を稼ぐ警察のやり方は決して、より良き社会を形成するといった神の意に沿った生き方ではない。
 下り坂などで順調に走行している前方の信号を赤にして、わざと信号無視をするようにして、何時間でも待ち伏せするパトカーをよく見かけるが、より良き社会を形成するのが神の意図なら、下り坂などの前方の信号は青にして、人が罪を犯さないようにするのが警官の務めというものではなかろうか。
 
 道路交通にしても、夜間は至る所で赤信号になるように信号機を設定して通行の邪魔をするのである。暴走族の暴走を阻止するためだと言って、40年数年前に大阪府警の本部長が記者会見まで開いてそういった措置を発表していたが、全交通量の0.1%にも満たない暴走族のために一般の通行の邪魔をするのだからその愚かさに気づかない人間性が恐ろしい。それに、暴走族は信号を守らないのが常だから、そんな処置で困るのは一般のドライバーだということが露にも分からないその愚かさが恐ろしい。

 タクシーに乗務しているときに、あまりの赤信号に遭遇する場面が多いので、カウント器でカウントしたら一時間に約27回もの赤信号に遭遇した。一回の停車時間を平均22秒としたら約一時間に10分の営業の邪魔をされていることが分かった。タクシーの夜勤の乗務は休憩を入れて12時間なので日に約2時間も仕事の邪魔をされていることになる。これはタクシーに限らず貨物トラックや小型配送者や全夜間ドライバーの仕事が毎晩邪魔されている状態になる。これはとてつもない夜間産業の停滞といってもいいのだ。1990年代のバブル崩壊後、世界は不況に突入したが、日本の不況だけが突出して欧米から暗黒の10年とか15年とか指摘され、最近でも失われた20年とか表現されているのである。その一因がこういった信号行政にないと誰が言いきれるのだろうか
 
 日本の警官らは点数のノルマがあるせいで根性が腐り切っているのである。しかし、人を陥れるような所業は神がもっとも嫌う所業である。必ず、因果律が、その個人かその組織かその組織を許容している国家に返ってくるのである。
 
 
人生には個人としての生活、家族としての生活、国民としての生活、世界の一員としての生活があり、摂理に順応したり逆らったりしながら生きております。逆らえば、そこに暗黒と病気、困難と混乱と破産、悲劇と流血が生じます。順応した生活を送れば、英知と知識と理解力と真実と正義と公正と平和がもたらされます。
 
 自分のしたことはすべて自分に返るという自然法則つまり因果律が宇宙の摂理なのである。それは、個人であれ組織であれ国家といえども免れることはできない。交通法規を悪用して金儲けのために多くの人間を罪に陥れるような機関が存在する限り、自然災害や国難が止むことはないのである。

 その他、阪神大震災及び東日本大震災も茨城県の水害や阿蘇山の噴火も、韓国の従軍慰安婦問題や韓国徴用工問題の再燃も決して偶然ではなく、今後、ロシアや中国による国難も増発する可能性もある。このホームページを更新して間もなく平成28年4月14日に熊本で震度7の地震が発生し、8月には滅多に台風の来ることのない北海道に台風が三つも上陸して甚大な被害を与えた。ジャガイモが壊滅的被害を受け、ポテトチップスの販売が中止されたのも記憶に新しい。そのあとは、平成30年6月18日に震度6弱の大阪府北部地震、平成30年9月6日には震度7の北海道地震と続いた。偶然だろうか。しかし、霊界からはこう言っているのである。

 
人生に偶然はありません。偶発事故というものもありません。偶然の一致というものもありません。全ては普遍の自然法則によって支配されています。私たちは因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人として神の摂理のウラをかくことはできません。ごまかすことはできません。自分が自分の救い主であり、贖(あがな)い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けるのです。
 
 正義という概念は決して絵空事の道徳ではなく、この宇宙に完全に存在しているのである。自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けるのである。ただそれがいつかと言うと、こう述べている。

 
地上では必ずしも正義が勝つとは限りません。なぜなら因果律というものは必ずしも地上生活中に成就されるとは限らないからです。ですが地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は1分の狂いもなく働き、天秤は必ず平衡を取り戻します。
 しかし、いつ成就されるかという時期の問題になると、それは原因の性質いかんに係わってきます。すぐに結果の出るものもあれば、地上生活中にはでないものもあります。その作用には情状酌量といったお情けはなく、機械的に作動します。罪を犯すとその罪がその人の霊に記録され、それ相当の結果を生み、それだけ苦しい思いをさせられます、それが地上生活中に出るか否かは私にも分かりません。それはさまざまな事情の絡んだ複雑な機構の中で行われるのですが、因果律の根本の目的が永遠の生命である“霊の進化”にあることだけは確かです。

 
 霊の進化のために、善行の結果も、悪行の結果も、正義の戦いも、すぐに結果の出るものから、地上生活中には結果の出ないものもあるようである。なぜなら、良いことをしてすぐ見返りがあれば所詮人は利己的に良いことをしようと思うのではないだろうか。利己的に行う行為には霊の進化が望める訳がない。それと、同じで、正義の戦いが必ずしも勝つと決まっていたら争いごとは起こらず、霊は何の進化を得ることもできないに違いない。霊の進化のためには悪も必要で悪があって善を知り、敗戦を経験して始めて勝利の意義を知るのではないだろうか。肉食動物が草食動物を殺すのをみて、人は哀れみと憐憫の情を学び、やはり霊の進化の糧となるのである。だからといって悪が放置されることは決してなく、こう断言しているのである。

 
地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は1分の狂いもなく働き、天秤は必ず平衡を取り戻します。
 
 霊界からの霊言を根拠にすれば未来を予想することも不可能ではない。三権分立である国家の一角が金儲けのために人を陥れるような行政を行っている限りその国の幸福度は低下するばかりで、とてつもない国難や或いは国家的事故や災害が発生する可能性もある。全ては神の因果律である。

 安倍総理は国の最高権力者だが、国の最高権力者といっても国の指針、方向を示すだけの権力でしかなく一つの法律を作ることもままならず、言って見ればお飾りの権力者といっても過言ではない。一方、警察は市中の最高権力者であり、その権力は総理とは比べ物にならないぐらいすごいものがある。自分らに都合のいい法律を自由に作り、市中を我が物の如くして錬金術の種にしているのである。

 日本の法律の90パーセント前後は官僚が勝手に作り、国会で上程される法律は10パーセントぐらいしかないと言う。ということは、法定速度もUターン禁止も追い越し禁止も警察が恣意的に勝手に作っているのである。警察は違反を誘引するために至るところをUターン禁止にしているが、右折矢印の時には、歩行者も対向車もなくUターンしても事故の起こる確率は限りなくゼロにもかかわらずUターン禁止にして違反で検挙するのである。低めの法定速度もそうだが、追い越し出来るような場所でも追い越し禁止にしたりするのは、ただただ違反を誘引する為だけである。警察は事故防止というご都合名を錦の御旗にして、多くのドライバーを陥れて金儲けをしているのである。
 
 法定速度は公安委員会が決定するということだが、公安委員会というのは、警察法に基づく委員は、警察職員及び他の官公庁の職業的公務員のいずれの経験も有しない者の中から、となっているが、国家公安委員長を除く委員の殆どは警察関連者の横滑りであり公正を保つはずの公安委員会は警察の御用達といってもいいのである。
 
 元北海道警察釧路方面本部長の原田宏二氏の著作「警察内部告発者」には警察の裏金の一部始終その他の不正行為がさまざま書かれている。その他、元来警察を管理するために設けられた公安委員会のこともこのように書かれているのである。
 
 警察を管理するのではなく、警察に管理された委員会であり、完全にお仲間の委員会でしかなかった。
 
 国家を担うべき一角である司法が不正にまみれ、管理すべき機関がお仲間であるという状態を放置している政権党は、将来日本を悲惨な状況に陥れるといっても過言ではない。
 
 世界でも断トツの年間800万人以上もの人間が違反検挙される国民の人間性が悪いのか、法を悪用する警察組織が悪いのかは言うまでもないことである。

 違反金は一旦国庫に納入されるが、その殆どが警察に還元され、日本の警察は世界でも稀なコングロマリットを形成し、毎日多くのドライバーを陥れて金儲けをするほか、裏金作り、自動車運転免許書の交付、免許停止者に対する講習費とその稼ぐ金は年間数千億と突拍子も無く巨額になるのである。

 裏金作りを拒否して左遷ばかりされていた愛媛県警の仙波さんが、警察を「悪の巣窟」といったのも警察のあくどさを内部から熟知していたからである。なぜ警察はここまで悪くなったのか。「交通行政監察官室」のサイトを立ち上げている野村氏はこんな風に記している。

 「ニッポンの「取締りによって警察が潤うシステム」については、反則金の行方で触れたとおり、“規制権”と“取締り権”の両方を警察が握っていることに要約することができる。ニッポン警察は、さらに“運転免許に関する権限”までも手の内にあるために、その権限は世界に類をみないほど絶大だ。
 このように絶大な権限を持つニッポン警察に対し、アメリカの警察は、規制権も、自動車運転免許に関する権限も持っていない。
 運転免許(licence)はDMVで、交通規制(regulation)はDOTの所管にある。警察は取締り(enforcement)だけなのだ。
 
 関西テレビ(東京では富士テレビ)は数年前に朝の番組で、法定速度が10キロほど低いのではないかと放映していたが、翌日も続きを放映するとの予告を入れていが翌日の放映は何の断りも無く中止された。
 警察からの圧力があったものと考えられるが、法定速度が何の落ち度もない法律ならば平然としていられるはずだが、自らその疚しさを知っていればこその圧力としか思えない。

 北海道警の裏金作りをスクープした北海道新聞は警察についに裏金作りを認めさせたが、その後、北海道警からは一切の事件のニュースを提供されず、ついに道警に詫びをいれたという事である。
 警察は権力の頂点に立ち、世界に比類なき膨大な数の違反取締りで、多くの人の人生を破綻させると共に、巨億の金を稼いで我が世の春を謳歌しているのである。まさに藤原道長が詠んだ、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の状態といっても過言ではない。
 
 私は警察官僚に問いたい。貴方がたはどんな顔をして妻を愛し、どんな顔をして子供を教育するのか。貴方がたには妻を愛する資格も子供を教育する資格もないと言っても過言ではない。なぜなら貴方がたは、金儲けの為にことさら低めにした法定速度を意図的に定め、多くのドライバーを罪に陥れている偽善者だからである。それによって一家離散の運命に陥った人や、自殺する人がいても、貴方がたには路傍の石でしかないのである。

 権力を握った人間には、不正と傲慢と横暴が付きまとっていることは古今東西例外ではない。何故日本は権力者を監視する機構を設けないのか私は不思議でならない。もし政権政党に野党というものが存在しなかったら、政権政党は自らのイデオロギーに有利な法律を次から次と可決させて、共産党の一党独裁と同じ現象になるのだ。それと同じで、巨大権力を独占する警察にも敵対勢力なりあるいは監視する機構は絶対に必要なのである。アメリカのFBIはそういった目的のために創設されたと聞いたことがある。監視機構があってこそ組織のコンプライアンスは向上するのではないだろうか。

 警察のお偉方はしたり顔して法令順守を口にするが、国に対する詐欺行為である裏金作りは、道警、山形県警、岩手県警、栃木県警、神奈川県警、千葉県警、静岡県警、愛知県警、高知県警、福岡県警と全国規模で発生しているのである。単に裏金問題というけれど、これは国の金をごまかす大罪ではないだろうか。こんな連中が三権分立の司法の一端を担っているのである。

 その他警察は日に三度も四度も交差点の信号のパターンを変えるが、たぶん悪いことをする人間に信号のパターンを読み取られないためにするのだろうが、車が順調に流れていようが渋滞していようがお構いなしに変えるので、ドライバーには全くの迷惑でしかない。
 
 今時、信号を犯行に利用する人間などいるはずもなく、たとえ、居たとしても至る所に防犯カメラが存在する現在では、信号のパターンを犯行に利用できるわけなどない。それにも拘わらず馬鹿の一つ覚えのように信号のパターンを変えるのは、無能力の極みとしか言えない。
 
 そして、夜間には暴走を阻止するためか、一信号(ひとしんごう)ごとに赤信号にする箇所も所々存在するのである。暴走を防止する為だったら1キロから2キロ走って赤信号にするなら理解できるが、一信号ごとに赤にする意味が理解できない。これによって夜間の交通が大いに遮られ、その経済的損失は計り知れないはずである。
 
 交通の第一原則はスムーズな通行を図ることではないだろうか。一信号(ひとしんごう)毎に赤信号にするなんてもっての他の行為である。それを平然と行う常識を逸したその感覚が恐ろしい。
 

 大阪市中央区のアメ村は西行きの一方通行だが三角公園の横に二つの信号がある。一つ目の信号が青になり発進しても、先頭ならまだしも二三台後なら十メートル先の二つ目の信号が確実に赤になり停止させられる。
 それがやっと青になり発進しても15メートルほど先の信号が赤になり、その信号が青になり発進しても更に10メートル先の四ツ橋筋の信号が赤になり、その信号が青になり発進しても15メートルほど先の信号が赤になりまたも通行を妨げる。その信号が青になり発進しても100メートルほど先のなにわ筋一つ手前の信号が赤になりクルマはストップさせられる。ここまで六つの信号が全て一信号ごとに赤になるのである。次のなにわ筋の信号も運がよければ青のときもあるが運が悪ければ赤に遭遇し、もしなにわ筋の信号も赤なら合計七つの信号が一信号ごとに赤になるのである。
 
 一方通行にもかかわらずこの常軌を逸した信号形態を知ってやったのならアブノーマルとしかいいようなく、知らずにやったのなら信号形態を把握できていない無能力集団としか言えない。
 
 御堂筋といえば6車線もある南行きの一方通行の道路だが、夜間の時間帯によっては、通行を阻害せんばかりの信号形態が存在する。
 午前3時過ぎ頃、梅新南の交差点が赤信号で、青になって発進したかと思うと150メートル先の次の大江橋北詰の信号が赤になる。その次の大江橋南詰の信号は青だが淀屋橋北詰の信号が赤で止められる。やっと青になって発進してもわずか50メートル先の淀屋橋の信号が赤で車を停められる。そこが青になっても次の北浜3が赤になって停められる。梅新南から北浜3まで400メートルぐらいの間に6箇所の信号があるが青で通過できたのは一つだけであとの5箇所の信号はすべて1信号ごとに赤になる。
 
 なんの意義もビジョンもない車の止め方である。まるで市中を取り仕切っているのは我らだと言わんばかりの警察のデモンストレーションを見せつけているかのようである。
 
 その他にも街中をクルマで走行していると、意地悪信号が至る所に存在する。一つ向こうのメインストリートの信号が青であるにもかかわらず手前の信号が赤でメインストリートの信号を渡ることが出来ないのである。やっと手前の信号が青になると同時に、向こう側のメインストリートの信号が赤に変わるのである。こんな意地悪的な信号行政が至る所に存在する。それを平然と作為する警察官僚のその感覚が恐ろしい。
 
 元来スムーズに行われるべき交通が、意図的に交通を妨げたとしたらどうなるのか。人はスムーズに走れる道を探して裏道等に殺到する。その結果事故が多発するのである。
 
 以前、京都府亀岡市で、亀岡市立安詳小学校へ登校中の児童と引率の保護者の列に軽自動車が突っ込み、計10人がはねられて3人が死亡、7人が重軽傷を負った。車を運転していた無免許の19歳の少年は渋滞する9号線を避けて京都府亀岡市篠町の京都府道402号の王子並河線に進入した結果での事故である。
 
 国道9号線が渋滞する道路でなかったら起きなかった事故である。こういった事故は日本中至るところで起こっているに違いない。
 いじめといじわるの根源は同種のもので、三権分立の一角を担う警察諸氏がいじめの体質を持っていることに問題がある
 
 平成30年の4月には、19歳の警官が上司を射殺するという事件が起こっている。当初の報道では、加害者の警官が「罵倒されたから撃った」と報じられていたが、その後の報道では「叱責されたから」と言い直されていた。しかし、叱責されたぐらいで上司を射殺するだろうか。警察はいじめ体質を隠蔽するかのように供述内容を勝手に変更しているとしか考えられない。さらにその後の報道では、何回も書類の書き直しをさせられ、いじめられているような気がして犯行に至ったと供述している。書類を何回も書き直すことがどんなに苦痛かわかってやることが出来たら決して犯行には至らなかったと思う。何回も書き直しさせるよりも、神の摂理である親切を基準に書き方を優しく指導するほうが適切ではなかったろうか。
 
 兵庫県警では平成27年の9月末から一ヶ月間で20代の警察官が3人も自殺するという異常事態が発生している。その内一人の母親が県警内部のいじめで息子が自殺したと訴訟を起こしている。
 
 愛知県でも2010年にいじめによる警官の拳銃自殺があり、その警官の両親が愛知県に損害賠償の訴えを起こしている。その他にも愛知県では拳銃自殺と思えるような発砲事件が多数発生している。
 
 浅野内匠頭をいじめた吉良上野介は浅野家家臣に首を切断されて殺害されている。いじめは重大な犯罪なのである。犯罪を取り締まる本家本元の警察がいじめを公然と行っていることに誰一人違和感を覚えない世相が恐ろしい。
 
 冤罪を作るのも同じ感覚としか言えない。何が真実で何が虚偽かを見抜けないから冤罪に至るのである。一信号(ひとしんごう)毎に赤信号にすることが、何のビジョンも意味もないことに疑問を持たない性格が、冤罪を生む土壌と同種であることに気がつかないのである。無情としか言いようのない性格は最早人間を逸脱していると言っても過言ではない。
 
 霊界からは、何の変哲もなく送った生活にもきちんとした裁きが為される、と語られている。のうのうと親方日の丸の安堵的な給料を支給され、自分達だけが良ければ良いという姿勢は、必ず因果律の罰則を受けるはずである。人間は動物ではないのである、何がベストで何がベターかを常に考えて人の為に生きるのが、神の意に沿う生き方なのである。神の摂理である親切、寛容、同情、奉仕の精神などこれぽっちも持たない組織が国家の一員であることが恐ろしい。
 霊界からは言う。

 
 神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用します。すなわち、親切、寛容、同情、奉仕の行為が自動的に、それ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義、罪悪、不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も、安価な赦免もありません。中略
 人生には個人としての生活、家族としての生活、国民としての生活、世界の一員としての生活があり、摂理に順応したり逆らったりしながら生きております。逆らえば、そこに暗黒と病気、困難と混乱と破産、悲劇と流血が生じます。順応した生活を送れば、英知と知識と理解力と真実と正義と公正と平和がもたらされます。

 人間はロボットではありません。一定の枠組みの中での自由意志が与えられているのです。決断は自分で下さないといけません。個人の場合でも国家の場合でも同じです。摂理に適った生き方をしている人、黄金律(人からしてもらいたいと思うことを人にしてあげなさい)を生活の規範として生きている人は、大自然から、そして宇宙から、よい報いを受けます。

 利己主義のタネを播いた人は、利己主義の結果を刈り取らなければなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑な人は、不寛容と頑固の結果を刈り取らねばなりません。
 

 
わたしはこれからも日本にはとてつもない災害が起こるような気がする。国連の関連機関がまとめる「世界幸福度ランキング」において、日本の順位が先進国で低い位置にランク付けられるのは、国家の一員である司法が、不親切、不寛容でドライバーを虐げているのがその大きな要因ではなかろうか。
 
 悪質ドライバーや無法ドライバーを取り締まるのは当然のことだが、そんな悪徳ドライバーとはまったく関係のない一般ドライバーも警察の金儲けのターゲットにされているのが日本の交通行政なのである。わたしが免停の時受けていた講習では一般の主婦とおぼしき人も二、三人混じっていたことがそれを物語っている。
 
 国家の一角が国民を陥れて金を稼ぐ。このまま行けば日本に未曽有の災害が起こる可能性もあるのだ。
 人間は矛盾に気がつかなければならない。賢い人間は矛盾に気が付くけれど、馬鹿な人間には何が矛盾であることすら気がつかないのである。その結果おろかな行政、おろかな法律、おろかな規則を繰り返すのである。すべての矛盾を取っ払っていけば真実に近づけるのだ。それを理解できるものは少ない。アインシュタインはさすがに天才である。彼は宗教とは関係なしに神の存在を喝破したのである。


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