山 陰 古 道 探 検(丹波・亀岡)
 
その5 馬路町あたり


 丹波国分寺をあとにして、さらに北西に進み、市道郷の口余部線に出ます、市道をさらに北に進むと三日市の集落があります。地名のとおり奈良時代には『市』が開かれていたようです。新鮮な無農薬野菜(当時、無農薬は当たりまえか?)や牛や馬などが和同開珎で売り買いされていたのでしょうか。桑田郡の商店街がここにあったようです。
 三日市のすぐ近くに『千歳車塚古墳』があります。当時の街道はこの古墳の横をとおっていたと思われます。丹波の権力者が当時の幹線道路の横に墓を作り権威を誇示していたのでしょう。
 千歳車塚古墳は、口丹波最大の前方後円墳で全長80m、後円墳の直径41m、高さ7.5m、前方部は幅45m高さ6mあります。継体天皇(504年即位?)と関係があるといわれており、継体天皇の古墳とされる高槻市の今城古墳の埋葬品と同類のものが千歳からも出ている。継体天皇は奈良に入る前、乙訓宮にいた時期があり、その背後にあたる丹波の千歳に親近者か有力な豪族がいた可能性があります。

千歳車塚古墳の横の農道は彼岸花が咲き稲刈りが始まっています。古代もこんな風景だったのでしょうか。農道を進み、市道を越えたところの馬路町に地蔵さんが集められたところがありました。形のわからない相当古い地蔵さんもあります。その近くに川東小学校の生徒がつくった竪穴式住居?がありました。地元の歴史の深さを形にしたのでしょう。

 ここ「馬路」(うまじ)という地名は、奈良時代の大宝令(701年)により、幹線道路の各所に「駅路」(うまやじ)を設けたことが始まりといわれています。駅路は道路沿いに馬家を設け、そこに駅馬(はやうま)、伝馬(つたわりうま)を常設し、中央と地方間の情報の伝達や役人が馬を乗り継いだところです。山陰道の各駅に馬を5匹づつ配置するよう定められていたようです。三日市は元馬路(もとうまじ)とも呼ばれ、やがて西側に馬路町という大集落が形成されたようですが、この丹波国府や国分寺のある辺りの山陰古道沿いの三日市に奈良時代の駅路があったようです。

 山陰古道はここから池尻廃寺の横を通り、丹波国府候補地の一つである八木町の屋賀をへて、JR吉富駅あたりまで川東を進むのですが、八木町でも山陰道を歩くイベントをしていますので八木町域はそちらにお任せします。亀岡市域はここまでなので、ここで引き返し馬路町内を通って、もう一つの丹波国府の候補地である千代川遺跡や桑寺廃寺へ向かうコースに行けますが 、この「山陰古道探検」はJR千代川駅で終点とします。



山陰古道1 山陰古道2 山陰古道3 山陰古道4 山陰古道5


(千歳車塚古墳)


(馬路の地蔵さん)


(川東小学生作・竪穴式住居)