山 陰 古 道 探 検(丹波・亀岡)
 
その3 保津町あたり


 保津小橋は昭和10年頃は丸太が3本つないであるだけの流れ橋だったと保津の人が言っておられました。小橋の下流には昔「保津浜」があり保津川の水運に対して税をかけたり元締めをしていたところです。丹波の木材は平安京や大阪城の築城に使われただけでなく、宇治橋の架設や遣唐使の造船にもかかわったといいます。
 大堰川を渡ると保津町に入ります。右へ行けば請田神社、左へ行けば保津八幡宮ですが、まっすぐ坂を登ると保津の集落の中程にはいります。文覚上人が住んでいたという文覚寺や、養竹庵と呼ばれていた養源寺があります。文覚寺は、文覚上人が保津の春木道善という人のところで育てられ、その後、上人にちなんで文覚寺が建てられたとされています。
 ここで貴重な建物を発見。保津第5区会議所です。この建物は明治の始めに亀山城を取り壊す際、城内の屋敷を譲り受け移築したものです。近所の人に聴いてみると、この保津には、亀山城に勤めていた武士など30名ほどが集団移転してきたとききました。

 小橋から川沿いに上流に進むと保津八幡宮があります。この宮は寛永13年(1636)に建てられ、保津の請田神社が一時遷座されていたところですが、言い伝えによるとこの八幡宮は北桑田郡の細川村に祭られていたが、大洪水で流されてここについたのを、地元の人がもったいないとここに建てたと言われています。

 保津町の集落内をぬけると府道亀岡園部線にでます。しばらく府道を千歳方面に行くと「案察使」(あぜち)という案内板があります。この辺りの地名を案察使といいますが、案察使とは奈良時代に諸国の国司を監視する役人のことで、丹波の国府が置かれていた近くのこの地に官舎が置かれていたのではないかと推測されますが、全く証拠が無く、案察使の役人がこの保津村の出身だったからという説もあります。ただ、山陰古道沿いに案察使の地名があるのは平城京と丹波国府の沿線に案察使がいたのではないかと思ってしまいます。
 平成13年の遺跡調査でも官舎があったことを裏付けるものは出ていません。ただこの辺りから弥生時代の住居跡や大量の土器が発掘され、また、灌漑用水路の遺構も確認されており、早くから稲作が行われ、丹波国府の経済的な基盤が整備されていたことがうかがえます。
 府道をさらに進むと、道路沿いにトタン屋根のお堂にお地蔵さんが30体ほど安置されています。道路の整備の時に近くにあったものを集めてお祀りしたものだそうですが、相当古い地蔵さんで歴史が偲ばれます。眺めの良い場所に安置されていますが、今はガードレールがありお地蔵さんには目障りなようです。

 保津町内で案内板をたくさん見かけます。「ふるさと保津を読む会」の皆さんが、自治会と一緒に案内板を立てたらしいです。数はよくわかりませんが60箇所はあるようです。





山陰古道1 山陰古道2 山陰古道3 山陰古道4 山陰古道5

  (保津小橋)


  (文覚寺)


 (保津区第5区会議所)


  (保津八幡宮)


 (保津の地蔵さん)