山 陰 古 道 探 検(丹波・亀岡)
 
その2 篠町あたり


 国道9号線の老いの坂峠を下り王子の眼鏡橋の手前に「山陰古道入口」の道しるべがあります。奈良時代の山陰道はこの「入口」から北へ農道に入り王子三軒屋を通り、王子神社の北の辺りで現在の府道王子並河線のルートに乗り、篠村八幡宮をへて保津小橋を渡ります。
 王子を流れる鵜ノ川には「古大道橋」という名の橋が架かっていますし、小字に「古大道」という地名も残っていますから古代の古道はもう少し鵜ノ川よりを通っていたのかもしれません。また馬堀には「広道」という地名もあり、江戸時代には念仏寺からまっすぐ三宅町へ進み大手門から亀山城内に入っていったのでしょう。 

 さて、篠町王子神社から府道を北へちょっと進み、農道にはいるとやがて篠村八幡宮に着きます。篠村八幡宮は足利尊氏が旗揚げをしたところ。尊氏がここから旧山陰道を進んで京・六波羅に攻め込んだのが1333年5月7日。旧山陰道は篠村八幡宮の前の府道王子並河線とほぼ同様と思われますが、山陰古道は八幡宮の裏の道を進みます(なお奈良時代にはこの八幡宮はまだなかった?)。
 旗立楊の横を通ると愛宕山常夜灯の石灯があります。近くの老人に聴くとこの石塔は昔からここにあり、この道は昔からの道だということです。さらに進むと近くに奈良時代の観音芝廃寺跡があります。多分古代の道はこの廃寺の近くを通っていたのでしょう。
 観音芝廃寺は秦氏が7世紀後半に創建したのではないかと言われていますが、平安時代には廃寺となったようです。今は見晴7丁目の公園になっていて、講堂の敷石だけが残っています。
 ここから、馬堀の桑田神社へ出る昔の官道があったのですが、今は見晴の住宅地となり官道はありません。

 山陰古道は、まっすぐトロッコの駅の方に向かいます。この道は昭和の初期には「異人街道」と呼ばれていました。山本浜にも保津川下りの会社があったころ、京都から外国人が保津川下りをするのに通ったため「異人街道」と呼ばれました。

 また、この篠町山本は鵜ノ川沿いの両岸の地域ですが、廃仏毀釈が行われるまではこの集落に9つのお寺があったそうです。今は対岸の山裾に3つ並んで残っているだけです、南から如意寺、宝泉寺、常福寺です。その北には桑田神社もあります。如意寺へ向かう坂道を仏坂といいます。昔、篠村八幡宮の当たりにあったお寺から薬師如来を盗んだ者がこの坂に来て、急に薬師如来が重たくなり動けなくなりここにおいて逃げたと言われています。如意寺の門の前のお堂にその「北向薬師」が安置されています。

 トロッコの線路をくぐり、保津川沿いを上っていき、西川を渡り、年谷川にかかる野橋立跡の木橋を渡ります。この辺りは千本松があったところで、遠くから見ると天橋立に似ていることから野橋立と呼ばれました。正面に牛松山を見ながら農道を進むと保津小橋に着きます。この辺りは保津下浜と言うのでしょうか、保津川下りのほかに最近はカヌーをする人も見かけます。

 


山陰古道1 山陰古道2 山陰古道3 山陰古道4 山陰古道5




 
 (足利尊氏旗上楊)


 (観音芝廃寺跡)


 (馬堀桑田神社横の旧山陰道)
 

 (野橋立跡の木橋)