松本城

 所 在 地   長野県松本市丸の内  別 名   鵞城烏城
 遺 構   天守・櫓・門(復元)・堀  形 式   平城
 築 城 者   石川数正・康長  築 城 年   天正20年(1592)頃
 歴 史  戦国時代、信濃守護職小笠原長朝が深志に館を構えたのが始まりとされる。
天文19年(1550)に、武田晴信(のち信玄)が、小笠原長時を追い出し、深志館を城郭に改築し、深志城と称する。
天正10年(1582)、武田氏が滅亡した後、小笠原長時の子の小笠原貞慶が深志城に入る。
天正18年(1590)、小笠原氏が下総古河へ移された後、石川数正が入封する慶長2年(1597)頃、天守が完成する。
慶長18年(1613)
、石川数正の子の石川康長が改易され、小笠原秀正が信濃飯田より入封し、深志を松本と改める。
元和3年(1617)、 松平(戸田)康長が上野高崎より入封する。寛永10年(1633)、松平直政が越前大野より入封する。寛永15年(1638)、堀田正盛が武蔵川越より入封する。寛永19年(1642)、水野忠清が三河吉田より入封する。享保10年(1725)、水野忠恒が江戸城で刃傷事件を起こし、水野家は改易される。
享保11年(1726)、松平(戸田)光慈が志摩鳥羽より入封する。以後、明治維新まで戸田氏が在封する。
歴 代 城 主 石川氏2代(8万石)・小笠原氏2代(8万石)・戸田氏2代(7万石)・松平氏1代(7万石)・堀田氏1代(10万石)・水野氏6代(7万石)・戸田氏(6万石)


 天 守 
(現存12天守の一つ 国宝)
(構造) 層塔型
(重・階) 五重六階
(形式) 連結・複合式
(高さ)  約25m

大天守(右)に、乾小天守(左)が渡櫓で連結し、辰巳櫓・月見櫓(いずれも大天守の奥側)が複合する、複合連結式天守。
石川氏時代に大天守と乾小天守が連結する姿であったが、松平氏の寛永13年頃、辰巳櫓と月見櫓が増築される。


外壁は外観下見板張りであり、外壁板に黒漆を塗り、黒を基調とした格調高いもの。


川数正は徳川家康の筆頭家老とも言うべき重臣であったが、小牧・長久手の合戦のあと、徳川家を出奔して豊臣秀吉に臣従した。理由はわかっていない。秀吉は非常に喜んで、石高に不相応な城を築かせたともいわれる。
父の数正は徳川に背いたが、子の康長は関ヶ原で徳川に味方をし、石川家は保たれた。しかし、大久保長安の失脚事件に連座し、石川家は改易になった。
城郭は、本丸を核に、二の丸、三の丸が囲む輪郭式縄張り。三の丸の四つの虎口には馬出しが設けられていた。面積は約12万坪と広大なものである。

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