瀋陽 日本総領事館 玄関前

     
・関空〜瀋陽へ 7月3日(水)       

前日(7/2)は関空ホテル日航にて渡航先に関する説明会および結団式が行われ、同ホテルに前泊。
翌日、われわれ東北班は他の班とは渡航先が異なるため先にホテルを出発、空港に向かい飛行機に乗り込むが、すでに気持ちは中国に飛んでいた。やがて10時05分(ANN947便)飛行機は滑走路を離陸すると一気に青天に向け飛び立ち8日間の慰霊巡拝の旅の始まりに期待をよせた。
飛行機は「関空から瀋陽までの直行便がないため大連を経由し、瀋陽空港に到着。その間およそ3時間10分の予定である」。

約1時間20分ほどのフライトで大連空港に到着。瀋陽への出発までにはロビーで待機となるが、閑散とした空港でまだ日本のローカル空港の方が活気がありそうな気がした。それでも初めて降り立った空港の写真で撮ろうとカメラを構えシャッターを押した瞬間、近くにいた警備員がそば来て、きつい表情で“撮るな!”と云うようなゼスチャーを示されあわててカメラをしまった。
運が悪ければカメラを没収されるところであったが、そのようなことはなかった。これはその時の最初の記念写真である。


・日本総領事館訪問                             
瀋陽空港には13時15分到着。空港には現地旅行社のガイドさんの出迎えを受け、空港から専用バスに乗りこみ日本領事館に向かう、添乗員から絶対にカメラを向けないでと注意を受け領事館に到着した。すると周囲は武装警備官が至るところに立っている。そんな状況なので早くバスごと入れてほしいと思ったが扉が開く様子がまったくない。入門前のなにかのチェックなのか?。
そして、車中の様子にも警官の目が注がれ少し不安の面持ちで目のやり場に困ったが、それは、すこし思い過ごしのようでもあった。


領事館では岡崎清総領事館との面談、われわれ訪問団へのねぎらいの言葉をかけて頂いた。また、警備の凄さは2ヶ月前に起きた北朝鮮人家族の亡命事件によるもので、武装警官の増加、警備を余儀なくされたと説明された。


・瀋陽〜長春へ
夕方バスは瀋陽から長春へ移動、距離は350キロ余り、この道路は3年ほど前に瀋陽〜長春間が全面開通したばかりの高速道路だが、片側一斜線、しかも追い越し区域が設けていない。そのため追い越しは反対斜線に出るため、危ないと叫びたくなることがしばしばあった。車窓には田園風景のところどころにパンク修理と大きな字で書いた看板がよく見かけた。トラックなどは積載量が無制限なのか?、荷台が沈みがちに走る車も少なからず、また長距離車が多いためパンクのトラブルもあって当然とだと思った。それと、行き交う車をよく見てみるとエアコン車がない、乗合バスやタクシーなどは窓を全開にして走っていた。一般車では上半身は裸で運転するドライバーも多く見かけた。
・長春慰霊祭  7月4日(木)   
追悼式は、この周辺で戦没した父の遺族が対象で追悼文を読み上げることになる。今日の式には自分と福岡からこられた二人であった。場所は宿泊ホテルの融府康年の会議室。  準備は献花や父の形見や嗜好品などを備え、正面の壁には日中両国の国旗が飾られた。しかし、ロウソクや線香はお供えるだけで火をつける事ができません。


 その理由は、中国ではいまだ一部の地域をのぞいて慰霊祭を公に行うことを認めていないためだそうです。
司会、進行には日本遺族会役員、添乗員の協力のもとでリハーサルをも含め進められた。1分間の黙祷後、初めて経験する緊張の中、私は祭壇の前に立ち手にした榊の枝をお供えし、長年の父への思いの丈を述べた。

         
・夕立
追悼式も無事終り昼食のためレストランに入り食事を始めたその時、大きな雨音が聞こえ出した。午後からの予定に支障がなければいいのにな・・・と思った矢先。
この雨はお父さんが降らした嬉し涙!それを聞いた瞬間、身体全体に鳥肌が走るのを覚えた。


・長春〜ハルピンへ

専用バスは長春市内をあとにして、黒龍江省の首都ハルピン市へと向かう。バスは昨日と同じ高速道路に入り、さらに北へと進む。やがて市内を抜けると車窓のスクリーンには見渡すかぎりのトウモロコシ畑が映りだされ、その風景は何処まで行っても果てしなく続き、いつまで見続けていても飽きることはなかった。


・ハルピン〜チチハルへ                
ハルピンの滞在は、昨日の夕方から今朝までと大変短くローカルガイドさんは「迎えと見送りだけでしたネ」と云って笑顔で駅を後にした。列車は9時58分、静かにホームを離れチチハルへと向かった。今回のツアー旅行では始めての列車の旅である。旧満州鉄道はかつての日本人が手がけ築きあげたもので、同じ日本人として誇らしげに思うと同時に、父もこの列車に乗りきっと家族への想いを募らせたことだろう。


済済哈爾(チチハル)市外貌
黒龍江省の北西部でハルピン市の北西約270キロに位置する省で、人口約600万人の第2の都市で、住民のほとんどが難民族で、ほかに25の少数民族が移住しているといわれています。「チチハル」とは「辺境」を意味し、人口の約7割が農業に従事し、林業・牧畜なども盛んに行われています。チチハルの最大の観光地は、大草原にある「扎龍自然保護区」。大自然とバードウォッチングを楽しむことができでくる。

・チチハル慰霊祭   
2回目の個人追悼の儀を述べるのが7名、内3組(6名)の方がご兄弟での参加で、なかには出征する前の父をよく知っていると言った遺児は、自転車の運転する前に乗せてもらったという思い出話をされていた。
戦没されたた場所はさまざまで、チチハルから遠く離れた方が何人かおられて、その方々もここまできて、どうして父の側まで行けないのかと残念さと悔しさを募らせた。


・松花江 7月5日(金)
朝食は、松花江が一望できる展望レストラン。中国では円卓を囲んでの食事方法が一般的だが、今朝は珍しく長方形のテーブルにバイキングシステムであった。店内は静かで落ち着いた感で日本のレストランを思い出させた。
眼下には朝の光を浴びる松花江が「ゆうゆう」と流れていた。
この川は全長1840`、中国で5番目に長い河で、北朝鮮国境に近い長白山から流出し、夏は水泳、釣り、ボート遊びなどで短い夏を楽しむ。また、冬は河全体が凍結し、氷上ヨットやスケートなど様々なウインタースポーツで賑わうという。


ハルピン市
中国で最も北部に位置する黒龍江省の省都で、市の面積は1万3432ku、人口は570万人。(黒龍江省は3,644万人)。
みどころは、ほとんどが市外区に公園・博物館・その他名所が点在していますが、今回は時間の都合上、斯大林(スターリン)公園のみを見学することになった。
松花江の南が公園になっていて、中央にこのシンボル「防洪記念塔」そびえている。これは1957年松花江が氾濫し、町に危険が迫ったとき、市民が一致して堤防を守り洪水を防いだことの記念碑であります。


・移動日(チチハル〜牡丹江) 7月6日(土)  
牡丹江への移動のため(延べ11時間)早朝よりホテルを出発、チチハル駅へと向う。出発時刻は8時03分発だが、余裕を見て早く到着した。8時03分(列車K403)がホームを離れると列車は広大な大自然の中を走り抜ける、周りがあまりにも広いため列車のスピードがおそく感じられる。それだけにのびのびとした開放感に浸ることができ、疲れるどころかかえって休養になり元気を取りもどしたよう気がした。
 
・車掌/売り子スルーガイド                                     
このツアーには、ローカルガイドとは別に,スルーガイド(団体と一緒に移動、行動を共にする)が同行しており、そのガイドから日本の流行歌を中国語に変えた歌詞を全員に手渡した。中国語には日本語のルビ打たれてあり、それを観もって練習をし始めたのであるが、なか発音が上手にできない。そんな我々の様子をデッキの片隅で笑みを見せながら聞いている若い車掌がいました。

 
しばらくして、その車掌が歌の練習が終わると待ちかねたように我々の席に近寄り、なにやら話し掛けながら、カバンの中の物を取りだした。「中国は車掌が商品を売ることも兼務しているそうである」ことばはまったく分からないが手振り身振りのゼスチャーによる、まさに実演販売である。その洗練された演技は“必ず売る”という執念にも思えるような説得力があり、その根性とパワーは並みのものではないと、あらためて感じたのであった。

牡丹江市の概要 7月7日(日)
牡丹江市は黒龍江省の東南部にある、3番目の都市で東南アジア地域の経済における流通情報の中心地であり,交通の中枢でもある。牡丹江市は6町4区からなり、人口268万人その内市内人口は78万人で、全面積は約4万
平方キロ。(ちなみに1940年ころの人口は、約10万人ほどで、その内の4万人が日本人であったそうです)。



・牡丹江慰霊祭
最後の個人追悼式は宿泊ホテルの北山賓館で行いました。この地域での父を亡くされた遺児の方は5人で、ここでも戦死場所と離れた方、中には遠くは朝鮮収容場で亡くした遺児の方もおられ、遺児の切ない思いが届いたであろうか。
この式典の様子などは、添乗員が、それぞれ本人のカメラをあずかり、供養を行う様子などを写してもらいました。



旧陸軍病院を訪問
式典が終わった後、二ヶ所の旧陸軍病院を訪ねました。最初に訪れた病院は名前が変わったものの当時の姿のままで病院内の見学も許されました。しかし、当病院は近日中に建て替えの予定となっていて、それまで当病院を訪れた当事者にとっては何よりだったことでしょう。
もう一ヶ所の旧陸軍病院につては、建物は当時のままでしたが精神病院に変わっていたため、院内の様子を覗うことができませんでした。

その後、牡丹江市のとある小高い山に上がり、その中腹に花壇を設け、献花と共に線香・ロウソクにはじめて火を灯し、戦争犠牲者の冥福と、そして、亡き父への最後の別れを告げました。
また最後に、総括団長の掛け声で父の眠る東北の地に全員で「おとうさ
ん」と呼びかけました。




Home  ページ上
プロフィール 中国慰霊の旅 くらしの体験 手話
URL http://www.eonet.ne.jp/~184