邪馬壹国


魏志倭人伝の風景
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邪馬壱国

 帯方郡使は、室津付近で上陸後、邪馬壱国と考えられる大和まで、ひと月をかけて歩きました。そのまま水行を続けて大阪湾に入った方が簡単なのに、できなかった。何か障害があったわけです。
 その原因と思われるのが、邪馬壱国の南、つまり、和歌山に存在したという狗奴国との対立です。狗奴国の臣は、魏志では狗古智卑狗、魏略逸文では拘右智卑狗となっており、魏略逸文の拘右智卑狗(コウチヒコ)が正しいようです。ということは、河内と表される大阪も狗奴国に属していたことになります。淡路島も狗奴国の所領で、明石海峡を封鎖されていたとすれば、海岸部を避けて内陸へ迂回せざるを得ない。「陸行一月」という記述から上記の可能性を引き出せます。(*/仁徳記に、大阪と淡路島を関連づける丸木船、枯野の話があります。)
 卑弥呼の鬼道は破邪の能力を持つ鏡を重要な術具としていたようで、魏帝から「汝の好物を与える」として百枚の銅鏡を贈られました
 そして、鏡に着目して奈良盆地を見渡せば、倭名抄、城下郡の鏡作鄕と黒田鄕にまたがる地域に、三つの鏡作神社と法楽寺に囲まれた奇妙な空間があります。
 地図の鳥居の位置を結んだだけなので、だいたいこのあたりという程度ですが、長方形が描けます。これは偶然ではあり得ません。最初からこういう形に設計されたものです。黒田の孝霊神社は元、法楽寺内にあったものが、明治の廃仏毀釈の際に移転したということですから、これも鏡作神社だった可能性があります。今の神社名は、孝霊天皇の都が黒田廬戸宮とされることから、後世、与えられた名称と思われます。
 孝霊天皇という奈良時代の諡号は、「桓、霊の間、倭国大乱」と表された後漢書の孝霊帝に合わされており、この人物が倭国大乱の主人公であることを示唆しています。そして、その娘が三輪山の神の妻となり、箸でホトを突いて死んだという箸墓の主、ヤマトトトビモモソ姫なのです。卑弥呼を共立して倭国大乱が治まったのですから、倭国大乱の孝霊天皇の娘、ヤマトトトビモモソ姫こそが魏志倭人伝中の卑弥呼ということになります。箸でホトを突くという異様な突然死も、「卑弥呼以って死す。」と記された、狗奴国との戦いのさ中の卑弥呼の死を連想させます。倭国大乱は160~170年代、卑弥呼の死は248年頃、長大と表される年齢です。幼女で即位しなければ70~80年後まで生存できない。幼女なら父親の都に同居していた可能性が強いでしょう。
 以上から、三つの鏡作神社と法楽寺で囲まれた空間、特に孝霊天皇の黒田廬戸宮が置かれたという法楽寺付近が、魏志倭人伝の記す宮室の設けられた土地、邪馬壱国の中心と考えられるのです。
 右の絵図は法楽寺内に掲示されていた室町時代(長禄三年、1460)の伽藍配置図で、黒田大塚古墳という六世紀の前方後円墳も寺内に取り込まれていたことがわかります。法楽寺は、聖徳太子の建立で、慶雲四年(767)、黒田寺法性護国王院の号を賜る。弘仁九年(819)、弘法大師が在住し法楽往生院と名付けた。鎌倉時代の真応元年(1222)に再建されたが、元正元年(1573)、松永久秀と筒井順慶の合戦のおり焼失。天正六年(1578)、筒井順慶が再建。二十五坊があったが、維新の際に寺領は廃せられ、堂宇その他諸建物は大破させられ、僅かに子安地蔵堂と鐘楼、庫裡を残す現況で田畑地も農地解放により全く無財産寺院になったと縁起は記しています。大和志料は「本堂の本尊は勝軍地蔵秘仏なり」と記しています。
 
 
 式内大社、鏡作坐天照御魂神社の祭神は天照国照彦火明命、石凝姥命、天糠戸命とされています。火明命は先代旧事本紀、天孫本紀に「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、またの名は天火明命、またの名は天照国照彦天火明尊、または饒速日尊という。またの名は膽杵磯丹杵穂命」となっていますから、物部氏の祖神、饒速日命と同一神です。石凝姥命とその子、天糠戸命は鏡作の祖とされている神ですから、鏡作神社に最もふさわしい神でしょう。この神社は天照御魂と名乗っている以上、火明命が主神になります。鏡作伊太神社、鏡作麻気神社を合わせて鏡作三所大明神と号していたようです。伊太神社、麻気神社も式内社です。石見の鏡作神社は黒田鄕に属したせいか、延喜式の撰に漏れています。
 
 物部氏の祖神、饒速日命は神武天皇以前に天磐船に乗って飛び下ったとされる神です。青山に囲まれた美しい土地のことを鹽土老翁から聞き、そこへ行って都を作ろうと神武天皇は日向から大和を目指しました。戦いの後、その地に君臨していた饒速日に王位を譲られて大和朝廷が成立。つまり、大和には物部系の先王朝が存在したのです。その王朝の成立は倭国大乱後で、170年代前半と考えられます。大和朝廷の成立は320年代のようですから、150年ほどの存続期間になります。これが魏志倭人伝の邪馬壱国(女王国)です。このあたりのことは「弥生の興亡」に詳しく書いてあります。
 ハツクニシラス天皇、神武天皇は、同じくハツクニシラス天皇とされる崇神天皇が大和入りするまでの事績を分割して先頭に置いたもので、崇神天皇と同一人物です。神武天皇を除く崇神天皇以前の欠史八代、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化とされる天皇は物部系、邪馬壱国の王朝を意識したもので、孝霊天皇や、ヤマトトトビモモソ姫も物部系の人物なのです。
 この鏡作神社と法楽寺で囲まれた空間の長軸が、饒速日命が乗って天降ったという天磐船に関係する河内磐船神社に向けられているのも、その証左とできます。(リンク、「饒速日の来た道」)
 寺川の対岸には弥生時代の大規模遺跡、唐子・鍵遺跡があり、出土した土器片の絵を元に建物が復元されています。右の写真ですが、実際はもっと立派だったのではないでしょうか。弥生人の能力を見くびっていると感じました。
 遺跡は弥生時代前期から古墳時代前期までの長期に渡るといいますから、170年代に成立した邪馬壱国と平行して存在しています。土器がいつ頃のものなのか。川向こうの卑弥呼の樓観そのものを写した可能性だってあるのです。