対海国(対馬国)


魏志倭人伝の風景
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対海国(対馬国)

 対馬下島は、現在、下県郡ですが、倭名抄では上県郡になっています。明治期の日本地理志料は、他の文献と照らし合わせて、下県郡に訂正しており、そちらが正しいのかもしれません。延喜式神名帳の神社名を見ると、下県郡の神社と下島の神社が一致しています。ただ、上毛野、上総という上の付け方を見ると、都に近い方が上となっているようで、それなら、倭名抄の方が自然です。下県郡が正しいように思えますが、書物は全て伝世されたもので、後世の変化に合わせて書き換えられた可能性もあり、何とも言えない部分が残ります。
 下(上?)県郡には、賀志、鶏知、玉調、豆酘という四つの鄕がありました。地図を見てわかる通り、下島は山脈により自ずから四つの地域にわかれます。賀志、鶏知、豆酘の三鄕は現在の地名から明らかにできるのですが、玉調郷だけが所在不明です。西海岸中部のぽっかり空いた部分は、後世、佐須郡とされていますから、鄕域としては佐須鄕であって良いはずなのに、この名は倭名抄にありません。ごく早い時期に、玉調から佐須に改名されたのではないかと思われます。
 対という文字は「タ」音を写した可能性があり、対馬は、玉調のタマという音を表すと考えられます。対(タイ)が用いられたのは、「ター」と少し伸ばすような感じがあったためでしょう。元禄時代の地図に高月村があり、今、上槻(コウツキ)と記されていますが、文字を考えるとタカツキだった可能性があります。これは「対海」という百衲本の表記に合うのです。おそらく、風土記編纂時、津の国が摂津となったように、ツキを加えて地名が好字二文字に変えられたもので、弥生時代には「ターカ」、「ターマ」と呼ばれていたと思われます。三国史記、新羅本紀に現れる多婆那国(1世紀にすでに存在した)にも一致しますし、朝鮮で対馬をテマ島と呼ぶのも、このタマ(タバ)という音に由来するようです。多婆那国に生まれた第四代新羅王、脱解尼師今は、生後まもなく籠に入れて海に流され金官国へ漂着したとされています。多婆那国は金官国に面した対馬西岸に存在したことになるのです。
 日本後紀、弘仁三年(812)、「前年の十二月六日に新羅船三艘が西海に浮かび、一艘が下県郡佐須浦に着いた。船中には十余人がいた。言葉が通じず、意図はわからなかった。二艘は闇夜に流れ去ってどこへ行ったかわからない。七日に船二十余艘が島の西海中にいて、灯火を相連ねた。ここにおいてついに賊船と知った。」という太宰府の報告が記されています。刀伊の入冦(1019)も佐須浦ですし、文永の役の蒙古軍もまた小茂田に襲来しました。地図の小茂田浜神社は、その戦いで戦死した対馬の守護代、宗助国等を祭ったものです。
 倭人伝は「良田なし」と記していますが、大江匡房の対馬国貢銀記(平安後期)にも、「田圃はなく、ただ畑を耕す。…この島は大豆を正税としている。」となっています。「島中、珍貨充溢、白銀、鉛、錫、真珠、金、漆の類は長らく朝貢していた。」とも記しており、真珠が産物としてあげられていますが、山中の鉱物の中に混ぜられていますから、パールではなく、赤色顔料となる硫化水銀(辰砂)でしょう。魏が卑弥呼に贈った物品の中に真珠五十斤(11㎏ほど)がみられますが、これも辰砂です。鄕域内に式内社の銀山神社、銀山上神社があり、上記の珍貨はすべてこの地方の産物かも知れません。この地が侵略の対象となったのは偶然なのか。それとも、狙われる理由があったのか、判然としません。しかし、朝鮮半島住民にはよく知られていた土地のようにみえます。銀山神社と銀山上神社の位置関係は、下島が上県郡である可能性を示します。「山険多深林」という描写は、やはり、下島の方が似合うようで、上島に比べ山が高く険しくなっています。小茂田付近も山がいきなり海に落ち込んでおり、平坦地はほとんど見あたりません。
 戸数は千余戸で、この国には王は存在せず、卑狗という官、卑奴母離という副官の存在が記されているのみです。帯方郡使は航海に都合の良い港に立ち寄り、その行政地域名と特長を記しただけですから、豆酘や鶏知、賀志という当時も存在したと思われる他の行政地域には王がいたかもしれません(弥生時代と倭名抄時代の地名が一致するとは限りませんが)。ともかく、対海国、対馬国は島全体の呼称ではなく、地域国家名なのです。
 万葉集の記述から、天平八年(736)の遣新羅使は北方の浅茅湾に入ったことがわかります。下島東北部に大船越という地峡があり、現在は水路になっていますが、これは江戸時代以降の開削によるもので、古代、上島、下島は陸続きでした。混一彊理図でも湾が奥深く入り込んだ一つの島に描かれています。したがって、浅茅湾に入るには、大船越で荷物を降ろして船を降り、船を陸に上げて運ぶという面倒な作業が必要でした。
 浅茅湾の奥に竹敷(タカシキ)、玉調という地名があり、それだけを考えると浅茅湾最深部がタカ国、タマ国の有力候補地になります。しかし、帯方郡使が行き止まりの浅茅湾に入り、上記作業を行ったことを想定しなければなりません。それには船を運ぶ土地の管理と職業集団、それを維持できるだけの交通量が必要になりそうで、人口希薄な弥生時代にそういう作業が可能だったかに疑問がありますし、帯方郡使は百済方面から来たのですから、わざわざ浅茅湾に入る遠回りの必要もないでしょう。そして、そんな珍しい作業について記さないわけがないとも思うのです。帯方郡の船は卑弥呼に与える布地1500メートル以上、銅鏡百枚、辰砂と鉛丹を11キロずつ、幔幕のようなものを15張、すべてを装封して積んでいたわけですから、かなりの荷物になりますし、船も大きかったと思われます。
 浅茅湾最深部は下島では最も平坦と表現できるような地形で、「山険」という倭人伝の描写にも合いません。浅茅山(付近では最も高い山、標高187m)の歌が残されていることから、遣新羅使は山に近い現在の玉調浦に停泊したと推定できますが、万葉集では浅茅浦となっていて、玉調の名は見られません。象徴的な山が浅茅山で、海が浅茅浦ですから、このあたりに鄕域があったなら浅茅がふさわしいでしょう。地勢的には鶏知鄕に入りそうです。次の竹敷浦で遣新羅使を接待した女性が歌を残していますが、玉調郷出身だったらしく、名が玉槻となっています。したがって、736年には玉調郷が存在していたことになります。現在の玉調は「もみぢ」の名所、浅茅山のふもとにあります。竹敷と地理的に近い、玉槻が「もみぢ」の歌を詠んでいるというような理由で、後世与えられた地名と思われます。それに、このあたりから赤ん坊を海に流しても金官国と結びつきそうにありません。