狗奴国


魏志倭人伝の風景
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狗奴国

 漢音で「コウドゥ国」と読みます。魏の正始八年、卑弥呼は狗奴国との折り合いが付かず、帯方郡に急使を派遣し、戦争状態になっていることを訴え、援助を求めました。帯方郡はその要請にこたえて塞曹掾史の張政等を派遣します。軍隊ではなく少数の人間だけで渡来していますから、軍事作戦の立案にかかわっていた指導力のある人物と思われます。
 張政は帯方郡に仮授されていた(帯方郡が預かっていた)難升米の黄幢を届けたおり、檄を作って告諭していますし、壱与の即位の際にも檄を壱与に告諭しています。卑弥呼の墓造りも目撃しました。邪馬壱国まで至ったことは間違いありません。そして、狗奴国との戦いに決着がつくまで十数年間、大和を中心に活動していたと考えられます。おのずから正確な方向がつかめるはずで、邪馬壱国の南と記された狗奴国は和歌山に存在したことになるのです。
 紀伊国風土記逸文に、紀伊国、雄山の関守の持つ弓の握りを大きくした手束弓(タヅカユミ)の伝承があり、これは魏志倭人伝中の卑弥呼の献上物、木の握りを付けた短い弓、木拊短弓の形に一致します。卑弥呼の使者は、どこかの小競り合いで得た弓を献上し、戦争状態にあることを訴えたのだと思われますが、雄ノ山峠は旧熊野街道、現在も阪和自動車道、阪和線が通る大阪から和歌山への幹線道にあります。ここに狗奴国の関が設けられたとしても不思議はありません。



 和歌山側が関を設けたということは、邪馬壱国は狗奴国の臣、コウチヒコの支配していた大阪を傘下におさめた後、和歌山を攻撃したと推定できます。以上、手束弓が風土記逸文として残っているわけですから、風土記以前の時代の、雄山の関の存在に筋道が通ります。
 そして、「コウド」、「コウヅ」という発音に絞って地名を調べると、近接する那賀郡貴志川町に神戸(コウド)、海南市に高津(タカヅ)、桃山町に、神田(コウダ)という地名があります。大阪の高津はコウヅですから、海南市の高津も元々はコウヅだったのではないか。
 以下は崇神記を読み下したものです。
 「御真木入日子印恵命は師木水垣宮に坐して天下を治すなり。木国造、名は荒河戸辨の女、遠津年魚目目微比売を娶りて生む御子は豊木入日子命、次は豊鉏入日売命。また尾張連の祖、意富阿麻比売を娶りて生む御子は……」
 大和朝廷初代の大王は崇神天皇で、木国造がその妃を出している。それだけ和歌山が重要だったわけですが、その名が荒河戸辨となっています。神田付近が旧安楽川村ですから、これは居住地の名を採ったものではないか。紀氏の首長が居住していたとすれば、古墳時代前期の紀氏の主邑は桃山町にあったことになるわけです。

 神田には三船神社という神社があります。神社前の縁起には、「崇神天皇皇女、豊鉏入比売命の創祀と伝えられ、安楽川荘中の産土神として祀られていた。紀伊国神名帳では、正一位、御船大神と記され、祭神は木霊屋船神。本殿は天正十八年(1590)、摂社二社は慶長四年(1599)の造営で桃山時代の手法を示す神社として、国の重要文化財に指定されている。」というようなことが記されています。
 なぜ、この位置に、こんなに古く、格式の高い神社があるのかという疑問も、古代、狗奴国の心臓部で、紀氏の首長が祀っていたとすれば解消します。後、紀ノ川デルタの発達と共に中心がそちらへ移り、大和朝廷にとっては取るに足らない神社になったらしく、延喜式の撰に漏れていますが、地元の紀氏には重要な神社ですから、丁寧な祭りが続いていたのではないでしょうか。
 
 木霊屋船神という神名も謎めいていますが、木と屋根、船に関係するのは間違いないでしょう。和歌山市に伊太祁曽神社があり、素戔鳴命の子、五十猛命を祀っています。この神は妹の大屋津姫命、柧津姫命と共に木種を持って韓国から渡ってきたとされる神です(神代紀上一書)。兄の八十神達に迫害された大国主命を、その母神が紀国の大屋毘古神の元に逃がしたとされていますが(神代記)、五十猛神の妹が大屋津姫ですから、大屋毘古神は五十猛神の別名とされています。木、屋、韓国から渡ってきたということで船。五十猛神と三船神社の木霊屋船神を重ねることもできそうです。これは狗奴国系の地主神で、邪馬壱国系の忌部氏の祖神、太玉命、彦狭知命も共に祀られています。
 狗奴国が奈良の邪馬壱国に敗れた後、邪馬壱国の神、三輪山の大国主(大物主)神が和歌山へ進出します。神戸の南には国主という地名があり、貴志川に面した大国主神社があります。《大物主神=大国主神の幸魂、奇魂》

 上記の神代記、出雲の大国主神が紀国の大屋毘古神を頼って来たという記述が、大国主神の紀伊進出を示唆しているわけです。この神社の起源としては壱与時代を想定できますが、それを示す証拠はありません。鎌倉時代末から続くという「大飯盛物祭」が貴志川町の民俗文化財に指定されているといいますから、古い神社には違いないのですが。
 地形図を見てわかるように、神戸は陸上交通の要といった位置にあります。この神社が紀氏系氏族の押さえのために設けられたのなら、弥生時代の紀氏の居住地、狗奴国中心部は、やはり、貴志川町から桃山町と解釈するべきでしょう。上の写真に見られる大国主神社の小山は三輪山を連想させます。近くにある和歌山市下三毛の上小倉神社や上記の三船神社は忌部氏の祖神を祭っていますから、この大国主神社を支えたのも忌部氏であろうと思われます。

大阪から和歌山への道関係Link  男神社(男之水門)