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ピアノ独奏 入江一雄
東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校を経て、東京藝術大学・同大学院修士課程を首席で卒業・修了。第77回日本音楽コンクールピアノ部門第1位。併せて野村賞、井口賞、河合賞、岩谷賞(聴衆賞)受賞。10年、日本ショパン協会主催「ショパン・フェスティバル2010
in表参道」のランチタイムコンサートに出演。国内主要オーケストラとの共演多数。これまでにピアノを栗原ひろみ、國谷尊之、故・竹島悠紀子、ガブリエル・タッキーノ、植田克己の各氏に師事。 |
『ひとすじの道』 河合尚市
今から20年も前のことです。私は、板橋区文化振興財団N氏の協力を得て、区役所で年に6回開催される『昼休みロビーコンサート』を指揮していました。ある事件に巻き込まれ、N氏の同窓であるN弁護士を紹介されました。更に数年後、そのN弁護士から「職場体験プログラムで、指揮者の仕事を見たいという中学生がいるのだけれど、彼の希望を叶えて欲しい」との申し出を受けました。事件解決でお世話になったこともあり、二つ返事でお引き受けし、自分が指揮するオーケストラリハーサル、またオーチャードホールでのバレエ公演本番を観てもらう事にしました。よくある知り合いの連鎖です。
一方こんなこともありました。大垣市のアマチュアオーケストラ代表の方が、指揮依頼に上京され、松山バレエ団の指揮をしている私に会いに、新国立劇場まで足を運んで下さいました。それを期に、数回その大垣の楽団を指揮する事になりました。その楽団に、奇しくも『ひこね第九オーケストラ』の団長が参加されていていたのです。一年前、本公演の指揮依頼をうけ、同時にラフマニノフのピアニストを探して欲しいという希望がありました。私は迷うことなく既にコンクールで優勝を果たしていた、その『知り合い』に出演を打診しました。彼が、N弁護士を通して職場体験を依頼した中学生であり、本日のソリスト入江一雄君その人なのです。
私が事件に巻き込まれた際に、N氏に相談しなければN弁護士との接点が無く、N弁護士との接点がなければ中学生だった入江君との接点もなく、松山バレエ団の指揮者をしていなければ大垣のオーケストラを客演することもなかっただろうし、この演奏会の指揮をすることもなかったはずです。無数の歯車のひとつでも欠けていたら叶わなかった本日のキャスティング、実に面白いですね。様々な出会いをひとつひとつ丁寧に掘り起こしてみると、彦根への『ひとすじの道』がくっきりと浮かび上がって見えて来るのです。
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ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番
ロシアを代表する作曲家・ピアニストであるラフマニノフ(1873-1943)は、幼少期から音楽の才能をあらわし、ペテルブルク音楽院、後にモスクワ音楽院で学びました。1892年にモスクワ音楽院を優秀な成績で卒業したラフマニノフは、同年にピアノ協奏曲第1番で作曲家として颯爽とデビューします。発表した作品はどこからも好意的に受け入れられ、作曲家としての人生を順調に歩むかのように見えました。しかし、1897年に初演された意欲作である交響曲第1番は、一転して酷評を浴びることになるのです。彼は精神的に立ち直れないほどのショックを受け、それ以降作曲の筆をとる気力すらわきませんでした。(実は、この失敗の真相は、指揮を担当したグラズノフが自分と派閥の違うラフマニノフをよく思っていなかったことによる策略だっ
た、と言われています)。
2年後、いよいよノイローゼ症状が限界に近づき、ラフマニノフは周りの人に勧められて精神科医ニコライ・ダール博士に相談します。ダール博士は「あなたはピアノ協奏曲を始める。そしてその曲は傑作となる。」と暗示療法を試みます。この暗示が功を奏し、ラフマニノフは一念発起し、1901年にこのピアノ協奏曲第2番を完成させたのです。ダール博士の治療は、ラフマニノフ自身の努力との相乗効果により、実を結びました。ラフマニノフ自らのピアノ独奏による「ピアノ協奏曲第2番」は大喝采を浴び、初演は大成功でした。ついに彼は、名声とともに作曲家としての自信をも取り戻し、また意欲的に創作活動を再開しました。そして、彼は自分を再起へと導いてくれたダール博士に感謝を込め、いわば再スタートの記念作であるこのピアノ協奏曲を博士に献呈することにしたのです。余談ですが、ラフマニノフは生前、ピアニストとしても有名でした。彼の身長は2mに近く、また手も大きく12度の音程(ドから1オクターブ半上のソまで)が押さえることができたと言われています。その大きな両手から打ち出されるダイナミックで力強い演奏、また大きな体躯からは想像もつかないような繊細で抒情的な演奏は、観衆を魅了して止みませんでした。このピアノ協奏曲は、作曲家ラフマニノフがピアノという楽器の魅力を存分に生かすとともに、構成、オーケストレーションなども細部にこだわった素晴らしい一曲です。
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シューマン 交響曲第3番「ライン」
シューマン(1810-1856)はドイツの作曲家で、ロマン派音楽を代表する一人です。出版業を営む父親のもとに生まれたシューマンは、小さな頃から数多くの父親の蔵書を読む機会に恵まれ、古典文学からゲーテやシラーなどのロマン派文学まで読みこなし、やがて自分で詩を書くようにもなりました。また、彼の父親は、息子の音楽的才能を伸ばすために、ピアノを習わせたりウェーバーに師事させようとしたりするなどできる限り才能を伸ばすことに努めてくれました。この父親の影響を強く受けて、シューマンはロマン派音楽家としての道を歩み始めるのです。
1850年、シューマンは音楽監督として招聘されデュッセルドルフに移住してきました。デュッセルドルフはライン河畔に隣接している風光明媚な街でした。数年前から精神的に悩まされていたシューマンですが、穏やかな気候に恵まれ、人々ものんびりと暮らしているこの街は彼にも好影響を与えたようで、この時期に、本作品はもちろん、チェロ協奏曲やミサ曲など数多くの名作を生み出します。
本日演奏する交響曲第3番は、シューマンが作曲した4つの交響曲の最後の作品です(第4番は、作曲の順番としては2番目の曲)。「父なるライン」と称されるほどドイツ人に愛されるライン川は、全長約1,200km、スイスのアルプスを源流とし、古代ローマ時代より現代まで、商業、交通、軍事などあらゆる面でゲルマン人に恩恵を与えてきました。ちなみに「ライン」の名称はシューマン自身が付けたものではありませんが、やはりライン川の自然が彼に作用し、そこから着想を得て書き上げられたことは間違いなく、伸びやかで開放感に溢れた曲であるといえるでしょう。 |
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