江戸の外食文化 資料 | ||
江戸長屋の暮らしと生活(1) |
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裏長屋の生活・庶民の暮らし(1) 次のページ「裏長屋の生活・庶民の暮らし(2)」に進む。 庶民の住まい長屋生活 ■庶民の住まい長屋生活の概要江戸の都市の面積のほとんどは武家屋敷で占められていたにもかかわらず、町人地(町方とも呼ばれる)人口は武士とほぼ同数だったといわれている。町人地には、表通りに町屋敷を持つ「地主層」と、土地は持たないものの表通りに土地を借り持つ「地借層」、表通りに面しない裏長屋に住む「店借層」がいた。 表通りでは商売が営まれ、裏長屋では店の奉公人や職人、行商人など江戸の大部分の庶民が生活していた。 長屋には「表店」(おもてだな)と「裏店」(うらだな)があり、表通りに面して建てられたのが「表店」。ここに住めるのは、高給取りの職人の頭や、大店の番頭クラスで、二階建てもめずらしくはなかった。 一方、表店の路地を入ったところに並んでいるのが「裏店」。庶民を代表する職人たちの多くはこの裏店の「裏長屋」を借り、それぞれ店子(たなこ=借家人)として住み、家賃を日払いでおさめていた。 多くの江戸庶民の住まいでは、中堅の商人や職人層(地借家持)は、主に表通りに面した地所を借り、自ら家を建てて住んだ。駄菓子や小間物、荒物などを商う比較的裕福な小商人(こあきんど)などは、表通りに面して建てられた「表長屋」といわれる一棟を数軒に区分けされた店舗と住まいを兼ねた二階建ての長屋を借りた。 また、農村で生活できなくなって江戸に流入した貧農(小百姓)、商家の奉公人、職人、行商人や日雇人夫、最下層の武士などは、表通りの裏手の路地中に建てられた「裏長屋」で暮らしていた。
庶民が暮らす裏長屋は、井戸やトイレ、路地などの生活空間を共有し、2軒の世帯が背中合わせに住む "棟割り形式" の平屋が普通であった。長屋は一家族ごとに住まいが区切られていて、1軒の広さは9尺×2間/約3坪か、9尺×3間/約4.5坪が多く、「九尺二間の裏長屋」と称され、六畳一間の広さが住宅の基本となっている。 長屋の部屋は、腰障子の戸口を開けると小さな土間になっていて、土間には煮炊きをする竃(へっつい,かまど)があり、座り流しに水瓶が置かれている。水は水瓶から柄杓(ひしゃく)ですくって飲む。 かまどの上にあるのは、煮炊き用の釜か鍋である。その釜で朝に1日分の飯を一度に炊き、昼と夕方は冷やご飯を食べていた。 食事の支度は、さまざまな振売り行商人から朝食にあう豆腐や納豆などの買った食材で食事を作った。 長屋の食事は一汁一菜が基本で、朝食は、ご飯と味噌汁、漬物が一般的で、昼には、朝炊いた冷や飯と残った味噌汁で済まし、夜はそれに加えて根菜の煮物や魚の煮付けなどのおかずが一品ついたという。 おかずの調理は、共同井戸の周りで行い、外にある「七輪」で焼くという調理方法をとっていた。イワシやサンマなどの焼き魚が食卓に上がるのは、七輪が登場する江戸後期といわれている。 それだけに調理済みの総菜を売る屋台や煮売り屋(道端で魚や野菜の煮物を売る商売)はとても重宝された。また、小型で移動できる七輪や長火鉢などで、お茶を沸かしたり鍋物を温めたりもした。 庶民が普段着る衣服は、古着屋で買った木綿の古着であったし、普段から火の用心を心掛けており、火事が起きたら、まず家財道具を全て運び出し逃げるとことが前提だったので、持って逃げることの難しい大きな家具などを置いている家は少なかった。 そのため、下着から鍋、釜、布団、正装まで借りることのできる損料屋(そんりょうや)に賃料を払って必要なものをレンタルするのも一般的であった。 表長屋と裏長屋の関係 ■江戸庶民の住い長屋江戸は、御城を中心に武家地、寺社地、町人地が区分けされ、その多くを武家地・寺社地が占め、20%に満たない町人地に庶民が暮らしていた。御府内は4里(約16km)四方で、その外側は農業地帯であった。 城下町の中心部に格子状に整然と並ぶ町は、通りに面した四方が商家や職人の見世(表店,店舗)で、その内側に「裏店」があった。江戸時代の庶民は基本的に長屋(裏店)とよばれる共同住宅に住んでいた。 多くの江戸庶民の住まいでは、江戸町人といわれた中堅の商人や職人層(地借家持)は、主に大通りに面した地所を借り、自ら家を建てて住んだ。 一方、表通りに面して建てられた商売を営む家屋敷を保有できない駄菓子や小間物、荒物などを商う小商人(こあきんど)などは、表通りに面して建てられた店舗兼住宅の「表長屋」(表店,おもてだな)といわれる見世(店舗)と住まいを兼ねた二階建ての長屋を借りた。一階部分が商いのスペース、二階部分が住居になっており裕福な人が住んでいた。 それに対して、表通りから表店の裏側へ入っていく三尺~ 六尺の路地に面している住宅が「裏長屋」(裏店,うらだな)である。一般に長屋といえば裏長屋のことをいった。 裏長屋には農村で生活できなくなって江戸に流入した貧農、職人や日雇人夫、最下層の武士などが暮らしていた。裏長屋の家賃は、棟割り長屋で月500文程度、老朽化したもので月300文程度であった。 ■町木戸と長屋木戸 江戸の町には、町の防犯を担うための「町木戸」や 「路地木戸=長屋木戸」と呼ばれる門を設置していた。木戸は、市中の要所や町々の境界に設けられた治安維持のための門である。 町木戸は木戸番が木戸の管理を行っていた。町木戸の開閉時間は、朝は「明六ツ」(午前6時頃)に開けられ、夜は「夜四ツ」(午後10時頃)に閉めた。 裏長屋の入口にも木戸があり、長屋の大家は長屋木戸と呼ばれる出入り口のカギを開け閉めしていた。 長屋木戸は、「明六ツ」に開けられ、「暮六ツ」(午後6時頃)に閉じられた。このように、表店のある表通りの町木戸と裏長屋の路地にある長屋木戸の門を閉める時間が違っていた。 表通りとの出入口には路地木戸(長屋木戸)があった。裏長屋への出入り口は門の形をした長屋木戸のみで、そこを閉めると出入りができなくなる。長屋の大家、または、当番の者が月番で錠をあずかって木戸の戸締りの仕事をした。 木戸の上には、住民の表札を兼ねた看板や貼り紙が掲げられているものもあった。 裏長屋の木戸とは別に、町の境には警備のための木戸(町木戸)が設けられ、その横に「木戸番屋」が設けられていた。 木戸番(番太郎)は、木戸の脇に設けられた番小屋で、家族とともに暮らし、木戸を管理していた。番小屋という詰所に番太郎がいて、夜間に長屋に出入りする者を確認、不審者の侵入を防いでいた。外部の者が町を通るときは一人で歩かせず、拍子木を鳴らして次の木戸の木戸番に知らせた。 木戸番は町に雇われていたが、給金は少なく、それだけでは暮らしていけない。そこで自分で作った草履(ぞうり)や草鞋(わらじ)のほか鼻紙や駄菓子、焼き芋など日用品から食料品に至るまで幅広く販売し、売り上げを生計の足しにした。 当時、火の使用を許されていたのは、木戸番だけであった。したがって焼き芋は木戸番が独占的に売ることが出来た。 江戸の町は、道路幅四丈(約12m)の表通り・裏通り・横町(よこちょう)に囲まれた京間六十間四方が基本的な一区画となっている。 この正方形の街区に京間二十間四方の宅地が、通りに面して八つ築かれた。中央は会所地(空き地)とされ、江戸時代初期の頃は共同のゴミ捨て場として利用された。(京間,一間六尺五寸=約1.97m) なお、江戸の人口増加にともない、会所地の遊休地に新設されたのが「新道」である。新道が設置されると、その通り沿いにも商店が形成された。 ■表長屋と裏長屋 表通りに面して並ぶ店(表店、表長屋)の奥、路地を入った裏側にある裏長屋が一般的な庶民の住居で、町人の約7割が暮らしていたと言われる。 長屋の地主は、主に表通りに家を持っていた。長屋には表店(表長屋)と裏店(裏長屋)があった。店(だな)とは家のことをいう。表通りの表店には、瓦屋根による土蔵造りや塗屋造りとする見世蔵(店)などの堅牢な町屋が並んでいたが、町裏へ入れば粗末な造りの長屋があった。 表通りに面して建てられたのが「表店」。大通りに面した表店に住めるのは、表通りに土地を借りて自分の家や店を持つ地借家持ち町人・中堅の商人・高給取りの大工の棟梁や職人の親方衆、隠居、大店の番頭クラスが住み、二階建てもめずらしくはなかった。 江戸人口のほぼ半数を占める庶民は路地に面した裏長屋に住み、主に、四畳半の部屋に一畳半の台所と土間がついた「九尺二間」(間口3.6m、奥行2.7m)の大きさである。 そこには、車曳き・火消人足・大工や左官・髪結(かみゆい)・畳刺し・籠かき・魚売り・浪人者等々さまざまな人達が暮らしていた。長屋が建てられ、一般化したのは享保期以降と言われている。 一方、表店の路地を入ったところに並んでいるのが、庶民の多くが住んだ裏店(裏長屋)と呼ばれる共同住宅である。 庶民を代表する職人たちの多くはこの裏店に仕み、家賃を日払いで納めていた。裏店の裏通りの住人は家を持たない“借家人”で、その職種は基本的には小職人や棒手振り商人が多く、はっきりと住みわけの状態がみられた。 ■地借層と店借層 江戸の町には、地主から土地を賃借し、自己の家屋を建て居住する「地借人」と、家や屋敷を所持せず、他の人の所持する家や屋敷を賃借し居住する「店借人」がいた。 江戸において土地家屋を所有しないものを「店借人(たながりにん)」といい、この中でも表通りに面する家に住んでいたのが「表店借=地借家持」で、表通りで家や店を構えた中堅の商人や職人層である。 「裏店借」の店子は〝土地も家も持たない借家人で、路地裏に住む「裏店借=裏長屋」の住人である。こうした人びとの生業は、肴(さかな)商や前栽商などの棒手振りと呼ばれる小商人や、左官や提灯張り、髪結い等の小職人である。 「九尺二間」の六畳の裏長屋に住む店子の身分や職業はさまざまで、店の奉公人や小職人、小商人、浪人、下級の芸人など、江戸の大部分の庶民が生活していた。 ■裏長屋の作り 江戸時代の庶民は、ほぼ長屋に住んでいた。そして、その長屋は火事で燃えることが多かったので、かなり安普請に作られていた。江戸っ子の住まいの代表格といわれる「九尺二間の裏長屋」は、一棟を縦に仕切ったもので三方が壁の「棟割長屋」の小さな住まいである。 採光は玄関の一方向のみで、風通しもよくなかった。入り口をくぐると台所兼土間が一畳半、畳の部分が四畳半の計六畳といったところ。 ここにだいたい家族3~5人で暮らしていた。裏長屋住まい住人の持ち物は布団、衣服、火鉢、小箪笥、鍋、釜、小物など生活できる最小限度の家財道具が標準である。長屋では物を持たない暮らしは当たり前であった。 表通りに面した表長屋(表店)に門の形をした「長屋木戸(入り口)」から、三~六尺(約90cm~約1.8m)程度の細い路地があり、路地を挟んで向かい合って「裏長屋」が建てられていた。 裏長屋が向かいあった路地は住人の共有通路で、路地の中央には溝板(どぶいた)が奥の方まで敷いてあり、その下には雨水を流す下水溝(どぶ)が通っていた。 台所の「流し台」からの排水は、木樋や竹筒で家の外へ出し、長屋の路地の真ん中を流れている幅が6,7寸(約18~21cm)ほどの「溝(どぶ)」に排水した。ここには、長屋の人々が洗濯や食器などの洗い物をする、井戸端の共同の流し場からの排水、雨水もこの「どぶ」に流れ込んでいた。 長屋住民の共用スペースとしての路地には、厠(かわや)または惣後架(そうごうか)と呼ぶ共同便所、掃き溜め(ゴミ捨て場=ごみ箱)、井戸があった。 厠(かわや)の開き戸は下半分のみである。長屋の住人に使用されていた共同便所の排泄物は大切な肥料として農家に買い取られており、その売上は大家の重要な収入源となっていた。 共同のゴミ捨て場には、茶碗のかけらのようなもの、生ゴミや貝殻、再利用し尽くして用途のなくなった生活用品などが捨てられた。共同のごみ箱に集められたゴミは、町内の大ゴミ溜を経て、芥取捨請負人により船で運ばれ、江戸の埋立地の造成に使われた。 共同の井戸は円形で、長い竹竿の先に付けた桶が井戸の中に入れてあり、これを引き上げて井戸の水をくみ上げた。住人共有の路地の奥にある井戸は、飲料水や、洗濯用の生活用水として重宝されていた。 共同の井戸では、朝の洗顔から、食事の下ごしらえ、洗濯などをすべてここで行なった。住人同士が毎日顔を合わせる情報交換の場、社交の場となっていたことから「井戸端会議」の言葉も誕生した。井戸の多くは神田上水や玉川上水の水を汲揚げる水道井戸であった。 路地は通路以外として物売りの市、子供の遊び場、夏には縁台を出しての夕涼み、井戸端会議など、社交場としての役割を果たした。 長屋はもちろん大店でも内風呂を備えている家は少なかったため、湯屋(銭湯)を使用した。水は貴重だったので風呂は蒸し風呂だった。湯屋は庶民の社交場でもあった。 長屋住人にとって重要なライフラインである井戸の大掃除「井戸浚え(いどさらえ)」は、年に1度(七夕)に、住人総出で行われた。すべての作業が終わると、井戸に蓋をしてお神酒や塩を備えるのが習わしであった。 井戸は地下水を汲み上げる掘り抜き井戸ではなく、深いものではなかったので住人だけでも掃除が可能であった。 裏長屋の共同井戸と厠(かわや)、扉が下半分だけの大便所と小便所の桶。
江戸の長屋の種類 江戸に暮らす庶民の多くは「長屋」で共同生活をしていた。「長屋」とは、一棟の細長い建物を複数の所帯で住み分ける住居のことをいう。 長屋と言っても種類があり、表通りに面した「表長屋」は、比較的裕福な小商人などが住んでおり、日当たりも良いうえ、八畳と四畳の部屋に土間があるなど間取りも広く、四畳の部屋で小間物や荒物などを商う住人もいた。 江戸の庶民は、主に「裏長屋」に暮らしていた。長屋は、1つの棟(むね)を数戸に区切った住居である。なかでも、棟の前後で部屋を分ける形のものを棟割長屋(むねわりながや)と呼んだ。 棟割長屋の間取りは、九尺二間と、かなり狭い(妻帯者用は、三間というところも)。トイレと井戸、ごみ捨て場は共同。四畳半の座敷と1.5畳程度の玄関兼台所の土間といった間取りが一般的なつくりだった。 裏路地に建てられた裏長屋(裏店,うらだな)には、「棟割長屋」と「割長屋」があった。 「棟割長屋(むねわりながや)」は、屋根の棟のところで数軒から十軒前後に仕切り、背中合わせに部屋が作られた形で、両隣だけでなく背中合わせにも隣の住人がいる連棟式集合住宅の形式である。 部屋同士が横に連なる「棟割長屋」1戸の平均的な大きさは、間口は九尺(約2.7m)で、奥行きは二間(約3.6m)が多く、入り口をくぐると三尺四方の踏み込みの土間、片隅に竈(かまど)と座り流しに水瓶(みずがめ)が置かれていた。その奥に生活空間の四畳半があった。窓と押し入れはなく、1軒には平均2~3人が住んでいた。(家賃300〜500文) 「割長屋(わりながや)」は、屋根の棟と垂直方向に部屋を仕切った作り。1戸の平均的な大きさは、間口が二間、奥行きが二間。入り口から入ると土間とは別に六畳間があり、梯子(はしご)をかけて上る物置のような中2階も付いていた。 また、背中合わせの棟割長屋と違って部屋はたいがい裏庭に面している。(家賃800〜1000文) 長屋の大家 ■長屋木戸の開閉江戸時代の土地は、基本的にはすべて幕府の所有物であった。幕府は大名に土地を貸し、大名は地主などに貸し、地主はそこに長屋を建てて庶民に貸すという構図であった。その中で、地主に代わってその土地・家を管理する家主(いえぬし)がいた。 家主は、家守(やもり)とか大家(おおや)とも呼ばれていた。大家は長屋の管理人であって、長屋の持ち主ではなかった。大家はたいがい、表通りに面した表店の主であったり、裏長屋の入り口の一角に住んでいたりした。 江戸の一日は「明六ツの鐘」で始まった。表店のある表長屋の間に路地があり、そこから裏長屋への出入り口には「長屋木戸」があった。長屋の大家は、「明六ツ」(午前6時)の鐘が鳴ると裏木戸と呼ばれる長屋木戸の門を開いて、「暮六ツ」(午後6時)には木戸が閉めなくてはならなかった。 長屋木戸は、朝の「明六ツ」(午前6時)に開けて、夜は「暮六ツ」(午後6時)に閉めていた。また、大家は多くの場合、長屋の入り口付近の1軒に住んでいた。長屋木戸の鍵は家守(大家)が持っていることが多かった。
■町の支配体制、大家は町の行政を担っていた 町人地は町奉行所の管轄下にあった。幕府は町奉行のもとに、上級町役人(ちょうやくにん)の「町年寄」や「町名主」と下級町役人の「大家(家主)」などの3役で町と住民の管理を行なった。町年寄は名字帯刀を許され、将軍にも謁見できるという、武士と同等の扱いを受ける名誉職である。 家屋敷を持たない「町人」は、「町」の構成員とは見なされなかった。幕府が定めた「町人」とは地主・家持層を指した。町人たちは税金(町入用-ちょうにゅうよう)を払う義務を果たし、その権利を認められた。 江戸の町は、町奉行所の支配を受けていたが、基本的に町役人による自治が広く認められていた。江戸の町の行政の中心の「町年寄」「町名主」「大家」の3役は、武士ではなく町人階級の中から選ばれ、道路の保守管理や防犯、防火、紛争の調停などさまざまな役割を担っていた。この3役の中でもっとも高位だったのが「町年寄」という役で、町奉行所から出された布令を受け取り、町人に伝達する役割を持っていた。 「町名主」は町年寄の下に位置し、小さく区切られた町単位での行政を任されて、平均しておよそ7〜8町を担当しており、ほかに仕事は持たず、専任で「町政」を行い、給金は町入用より出た。 また、「大家(家主/家守)」はさらにその下で、町名主の指示を受けて実際の町民と接触し、実際の町の運営に当たっていた。つまり、大家は町役人の末端を担う支配者といえる。 大家は町奉行所など行政機関の末端に位置し、裏長屋の店賃(たなちん)のやり取りだけなく、店子(たなこ)へ町触れ(広報)の読み聞かせ、店子の身元調査と身元保証人の確定、諸願や土地家屋の売買書類への連印、賃貸の管理、水道や井戸の修理、道路の修繕、喧嘩・口論の仲裁、人別帳調査をはじめとした長屋の住民の把握など、さまざまな役目があった。 また、名主や大家で「五人組」を作り、自治組織によって運営されていた「町政」では、月毎に当番を決めて月行事(がちぎょうじ)を選び、町の自身番(じしんばん)に詰め、長屋だけでなく町の自治管理も務めた。 借家人は、表借家人(表長屋)・裏借家人(裏長屋)を問わず、町人としての「町政」参加が認められなかった。 町奉行所の役人を町方役人、町民の役人を町(ちょう)役人と区別して呼んだ。町役人が江戸府内の自治を行い、町法という町地の規則を定め、住民から町入用(税金)を徴収し、自治を行っていた。 ■長屋の大家の仕事 町人が住む「町人地」は土地の私有が認められていた。そこで土地を持った人は地主となり、長屋を作って経営していた。長屋の所有者(家主)は、地主や裕福な商人たちがほとんどであった。 なお江戸時代における大家とは、必ずしも家主ではなく、長屋の住人の家賃を集めたり、管理を任されたりしている人を指す場合が一般的で、地主や家持ちに代わって店賃(たなちん)や地代を取り立て、店子(たなこ)を監督する役割を担う「差配人(さはいにん)」とも呼ばれていた。 江戸時代には、長屋の土地・建物の所有者と、その所有者に代わって貸地・貸家を管理する大家がいた。 大家について『守貞漫稿』によれば、江戸には約2万人いたと言われる。様々な人々が暮らす江戸の長屋を取りまとめていたのは大家である。ただこの大家はほとんどが、地主ではなく、借家人の管理を地主から請け負って行う管理人的な人で、地主から給料を貰っていた。 大家のその他の収入は、新しい店子(借家人)が移り住むときの大家への挨拶料(樽代,酒代)、店賃を集めた手数料(賃料の5%程度)、店子からの礼金(訴訟やお願いなどの付き添い料)、五節句(人日,上巳,端午,七夕,重陽の五つ)には店子からの節句銭。 その他に、大きな収入となったのが店子たちの糞尿。これを下肥(しもごえ)として近郊の農家に肥料として売った。農家は大家と1年契約をして、毎年11月か12月に代金を前納していた。下肥料は住民一人あたり1年で米一斗(約15kg)ほどの値になったと云う。
乳飲み子の捨て子が保護された場合は、養子先を探す、適当な里親が見つからなければ、奉公に出られる年齢になるまでの衣食住の世話、手跡指南所(寺子屋)の入所などの教育、奉公先の斡旋など自活するための援助など、親同然としての責務が課せられていた。 また、自分が管理している長屋から泥棒、強盗、放火、殺人などの罪人が出ると、連座(連帯責任を負って罰せられる)によって罪に問われることもある。大家自身、何の関係が無くても処分を受け、重罪の場合は手鎖や遠島となることもあった。それだけに大家は自分が管理する長屋の木戸脇に住み、店子の暮らしに目を光らせていた。 裏長屋・住人の暮らし ■長屋住人の職業と収入裏長屋の住人の多くは、物売りなどの独身男性たちであった。江戸の庶民である長屋住民の職業を見ても日雇稼ぎ、棒手振り等の不定期就労者が多く、1日の稼ぎは、大工・左官・土方などが1日320~540文、野菜の棒手振りが1日100~200文程度であった。 文化文政(1804~1830)頃の裏長屋の店賃(たなちん=家賃)は、月に300~500文程度であった。物価が上がった幕末頃は、九尺二間の店賃が500~600文だったという記録がある。 当時、真面目に働けば2~3日で稼げる程度の安い金額である。江戸時代に「長屋」の家賃が安かった理由が大家は店子の糞尿を「下肥」(肥料)として百姓に売る権利を持っていた為だという。 長屋に住む多くの人は多種多様な行商人を仕事としていたが、商う品物は一種類か、多くても2,3種類だったので、仕入れも簡単で素人でもその日からはじめられるほどだった。長屋にはいろいろな職業の人たちが住み、物質的には貧しくとも、おおらかに長屋での生活を謳歌していた。 長屋では、住民同士の人情味溢れる助け合い社会が形成されており、生活必需品の貸し借りは、その代表例といえる。みそや醤油、米などの貸し借りがひんぱんに行われていたほか、食材や料理のお裾分けも日常的に行われていたようである。いわば、“個人の所有物は長屋の共有財産”という共通認識が、長屋の住民間で出来上がっていた。 裏長屋の大家と店子は親子のような関係を持ち、大家の仕事は単に長屋の管理だけではなくプライベートな部分の世話も行っていた。 裏長屋の生活は“その日暮らし”が多かったこともあり、「親も同然」といわれた大家の管理下のもと、「子」である店子たちもお互い助け合って生活していた。大家は店子の保証人になることもあり、子供の誕生や婚礼、葬式、奉行所への訴えにかかわったりもした。 「割長屋」の九尺二間(間口約2.7m、奥行き約3.6m)の部屋、障子が部屋奥に付いている。裏長屋でも四畳半二間のものがあった、 玄関横には竃(へっつい)、流し、水がめがある。押し入れはなく、夜具は片隅で枕屏風で囲ってある。畳部分は4畳半しかない。ほとんどはこのようなつくりだが、親子3人暮らしではこれで十分な広さだったようだ。家賃は300文から500文で、収入の約12%位。畳や障子は自分持ちなので、板の間だけや、ゴザでの部屋もあった。 ■長屋の住人「その日稼ぎ」の生活 長屋の住人には、「大工、左官、桶職などの職人」や「棒手振りと呼ばれる天秤棒をかついで魚や野菜を売り歩く行商人」、「背負い荷の小商いをする人」、さらに「鳶(とび)や其日稼(そのひかせぎ)の者」と呼ばれた日雇などの様々な都市下層庶民、そして、単身世帯から子供のいる夫婦まで様々な人が暮らしていた。 職人は、家で仕事をする「居職」と外に出る「出職」とに分かれ、前者は狭い長屋の一角に作業場を設けて仕事をしていた。
外で働く「出職」と家で働く「居職」。職種によって違うが、多くの「居職」の職人は裏長屋の住まいをそのまま「仕事場」にしていたという。長屋住人の平均的な1日の稼ぎは、居職で350文、出職で410文程度であったと云われている。 出職のなかでも、人夫日当が約200文の相場であった時、江戸っ子にとって高給取りの代表は大工職人だった。大工は、朝五ッ(午前8時頃)から暮六ッ(午後6時頃)まで、1時間の休憩時間を挟み、1日約8時間働いた。 給料は日給制で、文政時代(1818~31年)には大工の手間賃が銀で3~5匁、銭に換算すると約320~530文、そして、安政二年(1855)の時点では銀六匁(約630文)である。 《1800年(寛政)頃の金・銀・銭の相場は、金一両=銀63匁=銅銭6400文、銀1匁=105文である》 居職は畳職人や鍛冶屋などで、主に表店の下請けとして働く者が多かった。彼らも日の出とともに仕事を始め、日の入りとともに仕事を終えた。
このように、町人(庶民)の多くを占めたのが裏店(裏長屋)に住む人々であり、その代表的な職業が「其日稼」であった。一般庶民の其日稼とは、自分の店舗を持たず、商品を売り歩いた行商人(振売り、棒手振り、と云う)と、短期契約の肉体労働や雑務などの日雇いを生業にする者たちである。 「其日稼」の者(庶民)たちは文字通り「その日」の「稼ぎ」で生活し、日々貨幣を手に入れていた。 町人地の日銭稼ぎの住人にとっては、醤油・味噌と米・魚・蔬菜(そさい)などの食費や薪代などの燃料費と長屋の家賃が大きな支出費目であった。彼らは、日々の稼ぎの範囲で貨幣を使用して、その日暮らしの生活をしていた。 江戸っ子の「宵越しの銭は持たない」という言葉があるように、一度の火事で何もかもが灰になってしまうことを身をもって知る長屋の住人にとっては蓄えなどはほとんど無かった。それでも、庶民たちは「金は天下の回りもの。なんとかならぁな」と金離れよく、気軽に身軽に暮らしていた。 ■裏長屋と損料屋(そんりょうや) 長屋の住人にとっては、貸物屋 (損料屋)は、日銭稼ぎの職人や商人が多かったこともあり、その日暮らしの貧民にとって不可欠な存在であった。 農村からの出稼人はほとんどが着の身着のままだったので、おのずから損料屋にたよらざるをえなかった。 江戸や大阪で貧民相手の損料屋が多かったのは、こうした出稼人の流入増加によるところが大きい。 貸物の種類は、各種の衣類・蒲団・蚊帳・食器・冠婚葬祭具・雨具・道具・家具・畳・大八車などがあり、生活用品がほとんどを占めていた。 なかでも多かったのは衣類と夜具類で、衣類には冠婚葬祭などの儀礼用と遊興用があり、身分や収入に応じて上・中・下の等級があった。 損料屋といえばいちばんの得意先は長屋であった。長屋から長屋への引っ越しなどでは、わざわざ家財道具は購入せずレンタルで済ますことが、上方ほどではないにせよ江戸でもそれなりにあった。 引っ越してきたときは近所の道具屋から古道具を購入し、引っ越していく際には売却する。あるいは損料屋から道具を借りて、引っ越していくときに返却する。これならばどこへ引っ越すにも身軽に移動できて合理的であった。 「江戸っ子は宵越しの金は持たない」という言葉があるが、実はお金だけではなく「宵越しの物」も持たなかった。 長屋暮らしの庶民が着物を新調するのは一生のうちに数えるほどで、古着屋や損料屋が繁盛した。 長屋暮らしの庶民が住んでいる長屋の狭さは想像以上で、炊事場を兼ねたわずかばかりの土間と、家財道具を置く場所もない4畳半の部屋に家族全員が生活をしていた。 押し入れなどもなかったために、物を買いこんでも置いておく場所がなかった。火事も頻繁に起きたから、あまり物をもたない生活をしていた長屋の住民たちが利用したのが損料屋である。 江戸の町は火事が多く、火事が起きたら着の身着のままで逃げるというのが前提だった。このため、持って逃げることが難しい大きな家具などを置いている家は少なかった。 それでも必要な季節物(火鉢や炬燵、蚊帳など)は損料屋から借りていた。長屋住まいでは、鍋、布団などの日用品や衣装まで損料(貸料)をとって品物を貸し出す損料屋を利用するのが一般的であった。 損料屋が扱うものは、着物や夜具、鍋釜、火鉢、家財道具、祝儀不祝儀の衣装など多岐にわたっていた。 【損料屋】 損料をとって衣服や夜具・器物などを貸す店。また、その職業の人。 【損料】衣類や器物などを借りた時、それがいたむ代償として支払う金銭。かりちん。借用料。 ■庶民の着物と古着屋 〇庶民の着物に使用できる色彩は、幕府による奢侈禁止令(しゃしきんしれい)のために藍色・茶色・鼠色を中心にした地味なものに限定されていた。 その中で微妙な違いの色を作ればいいと多くの茶系や鼠系の色味が作られた。それが比喩として四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)と言われている。実際は48色以上の茶色、100色以上の鼠色があったという。 また、江戸期を通して「絹」は禁制対象であり続け、庶民の身近にあったのは「木綿」である。当時は木綿も安くはないので、1枚の着物を長いこと使っていた。 そして、江戸庶民が着ていた木綿の着物のほとんどが「古着」であった。着物にはサイズの違いがほとんど無く、着付けのときに長さを腰のところで調整し、帯で固定するので誰でもが着ることができた。 当時、庶民の男性の普段着は着物に帯の着流し姿が一般的であった。女性達は古着屋で買った着物を大切に着続けるために、着物の襟元に黒掛襟(もしくは黒襟)と前掛けを掛けて着衣の汚れが目立たない工夫をしていた。 農民の服装では、男性は膝丈の短い着物を着て、緩めの股引(ももひき)をはき、足には脚絆(きゃはん)。頭は手ぬぐいで頬被りをしたり、笠をかぶったりしていた。女性は短めの着物にたすき、前掛け。頭は手ぬぐいで姉さん被りをしたりしながら農作業をしていた。 〇江戸時代の着物は「呉服屋」や木綿や麻の織物を扱う「太物(ふともの)屋」で新品の反物を販売し、裕福な町人層がその反物を買い、仕立屋で仕立てて着用していた。 当時はすべての衣服が手作りであって着物は貴重品だった。そして富裕層がその着物に飽きたら古着屋に売る。その古着を「古着屋」とか「古着の行商」から庶民が買っていた。 「古着屋」は高価な新品の着物が買えない庶民が古着を買ったり、生活に困った庶民が着物を売ったりするのに利用されていた。そして、武士でも新しく仕立卸しの着物を着ることは生涯幾度もなかった。 一般庶民は新しい着物を手に入れるにも、高級品のため簡単には手が出せなかった。そんな庶民は、衣類を買うときも、高価な新品には手が出ないため、もっぱら「古着屋」を利用していた。古着こそが庶民の代表的な衣料商品であった。このため、当時は古着市場が大きく、古着店から行商まで、いろんなタイプの「古着屋」があった。 江戸時代の古着屋は、現代とは比べ物にならないほど、庶民の暮らしに密着していた。それだけに、古着の需要は多く、江戸の町には数多くの古着屋が存在していた。当時、古着は裕福な家から仲買人が買い取り、古着屋で売られていた。 江戸には、「古着屋・仲買、古着仕立て屋・仲買、古着買い・仲買」だけでも2,000軒を超す店が江戸にあった、という。古着屋の中でも、クラスが分かれていて、一等が日本橋富沢町に店を構えている、次が柳原の土手、最後が棒手振りの担ぎの古着売りである。 江戸時代中期以降、山ノ手に武士を顧客とする古着屋は牛込改代町,四谷伝馬町,市ヶ谷田町などにあった。 1830~43年(天保年間)、庶民相手の古着店(ダナ)としては、富沢町,橘町,村松町,芝日蔭町,浅草東中町,西中町,柳原土手※などに多く見られ、店舗だけでなく行商による古着の販売も行われていた。 古着の行商人は、竹馬という竹筒で組んだ四足の運搬具を担いで町中を売り歩いたので、「竹馬古着売り」とも呼ばれていた。 当時の古着屋の品ぞろえは多種多様であった。古着屋に足を運べば、そろわない衣類はないほどで、豪華な打掛、紋付き、羽織、袴から、腰巻や股引などの下着類まで何でも手に入った。
さらに、それが古くなっても捨てることはなく、最後は下駄の鼻緒や雑巾にするなど、徹底して布を使い切った。一方で、農村では貧しさ故、古着を買うのもままならなかった。忙しい農作業の合間に手前織りの麻や木綿の衣服を仕立てたり、古いものを仕立て直したりしていたという。 ※:1736~40年(元文年間)に、神田川沿いの柳原土手で、筋違橋から和泉橋までの間に土手見世が許され、その7割が庶民相手の下級の古着屋であった。 いずれも路傍にムシロを敷き、その上に古着、襤褸(ボロ=着古して破れた衣服)を並べて売る最下級の古着店、天道干(テンドウボシ=露店)か、葦簀(よしず)張りの床店(とこみせ)の古着屋であった。柳原土手には江戸の庶民への小売りだけでなく武士や旅人、同業の古着屋が寄ってきて着物を仕入れた。 この柳原土手通りの古着市場は、少なくとも幕末段階では、由緒ある日本橋富沢町と肩を並べる卸売市場として発達を遂げていた。日本橋富沢町は、古着屋の軒が連なり大きな市も立つ町であった。日常着や各地の名産織物、大名クラスの豪華な着物もここに集まり、また全国へと買われていった。 《幕末には古着屋が3,987軒、古道具屋が,3672軒(そば屋の3,763軒と比較しても多い) … 幕末の古着屋の軒数は「未来のための江戸の暮らし」森ネットワークより引用》 参考資料:東建コーポレーション株式会社、江東区深川江戸資料館「長屋と人々の暮らし」、紅葉堂書房「江戸の夕栄」、「蔵のあるまちーまちといとなみ」都市環境デザイン会議広報2000.1.20、公益社団法人 都市住宅学会、「物品賃貸業の歴史的研究-江戸時代の物品賃貸業-」水谷謙治、「衣服産業のはじめ」中込省三、現代に活かそう「江戸のエコ生活」、神奈川新聞社「開国史話」加藤祐三、三笠書房「図解!江戸時代」、PHP文庫「物価から見える江戸っ子の生活模様」、谷釜尋徳「近世後期における江戸庶民の勧進相撲興行見物の実際」 次のページ「裏長屋の生活・庶民の暮らし(2)」に進む。
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