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人を喰う怪獣の恐怖

ゴジラは、人を喰う怪獣であることをご存じだろうか。第一作『ゴジラ』(一九五四)の撮影用台本に次のようにある。
いきなりニュッと 想像も出来ない位の巨大なゴジラの恐ろしい顔が 尾根の向側から現れる/その口には血のしたたる牛を喰えている/あッと尻込みする一同/博士はハッキリ世紀の巨獣を見たのである/ゴジラがぐっと身をかがめたと見るや その爪にすくい上げられた山仕事に出掛けた娘の姿/かすかに娘の絶叫が聞こえたようである。
 これは、大戸島へ派遣された山根博士をはじめとするゴジラ被害調査団や島の人々が、はじめてゴジラの姿を目撃する場面である。はっきりとは書かれていないが、文脈上ここに出る「山仕事の娘」がゴジラに喰われたことはほぼ間違いない。 この部分、あまりに残酷になるので実際には描写されたなかったと聞いた。だが、このシーンがあって、これより先の大戸島被害の国会公聴会の
各政党代表の委員達の前で 村長が固くなって説明している/委員長 書類から目をあげると/「この家畜類の被害 というのは」/村長「あ 申し忘れました 牛が十二頭 豚が八匹であります」
という台詞が生きてくるであろう。因みにこの部分は、映画作品では委員長の直接の質問ではなく、大山委員の質問と言うことになっており、また破壊家屋十七、死者十名の報告も付加されている。
 このように第一作のゴジラは、あきらかに獰猛な肉食獣であり、人をも食らうという設定だったのである。まさに恐怖の怪獣であった。
 食人する怪獣は比較的多い。代表的なものを幾つかあげよと言われれば、まずはギャオスの名前が上がるであろう。『ガメラ対ギャオス』(一九六七)で、捕らえられた複数の人間らの絶叫とともに口を動かすシーンは衝撃的であった。『サンダ対ガイラ』(一九六六)のガイラも好んで人を食べていた。じつはキングギドラも『モスラ3』(一九九八)では、子供達を集めて青木ヶ原につくったドームに閉じ込め、そのエキスをエネルギー源にしようとしていたのである。ウルトラ怪獣の中では。ウルトラマンタロウに出るバードンが有名である。ZATは、その人的被害や食肉工場への被害をくいとめるために、日本中の食肉や家畜を隠す。その為かえってバードンはマンモス団地の人間を襲って食べてしまうことになった。
 ところで、怪獣が人を食べる設定がなされるのは、むろん怪獣の恐ろしさを表現するためであるが、なぜ人が食べられると恐怖を感じるのであろうか。それについていまだ明確な解答に行き着いているわけではないが、幾つかは思い浮かぶ。
 一つには、単なる〝餌〟となることの恐怖である。それは我々が一個の動物であることを思い出させることでもある。人間は、自然界では食物連鎖の頂点に君臨しており、我々を脅かす存在はいない。それゆえ安全が担保されているわけだが、食人怪獣の出現は、それを破壊し人を食物連鎖の中間に位置づけてしまう。一方、人間は何かにつけて動物であることを忘れようとしてきた。人間は神に創られたと教えるキリスト教は、歴史的にそのことに殊更腐心してきた。しかし、〝餌〟となることで自然界における一個の動物に過ぎないことを明らかにしてしまうのである。人間を保つために覆っていたものが、食人怪獣の出現によって、簡単に取り払らわれてしまうと言うわけだ。
 いまひとつは、性との関わりである。食と性は密接な関わりがあるという(赤坂憲雄『性食考』岩波書店、二〇一七)。「食べちゃいほど可愛い」はその関係を端的に表す。しかし、このとき現れる性は、快楽と禁忌のないまぜになったいわゆるエログロで、倫理的には忌避すべき性で罪悪感を伴う。怪獣によって人が食べられるのを見ることによって、明確に意識はしないが、触れてはならない人間の性的欲望の闇とリンクしまうのである。そしてそれは、人が人を食べることの恐怖や禁忌などからくる悪感情と平行関係にあると思われる。怪獣が人を食べることの恐怖は、人が人を食べることへの恐怖と連続しているのである。

2020年08月15日

キリスト教と火星人

『宇宙戦争』というSF小説をご存じだろうか。いやこのコラムを訪問するようなあなたならば、一度はその名をお聞きであろう。あるいは既にお読みになった方もいらっしゃるかも知れない。 

 あらためて言うまでもなく、これはイギリスの作家H・G・ウェルズが一八九八年に発表したSF小説における不朽の名作で、その内容はイギリスを舞台にした火星人の地球侵略の物語であった。
 一九三八年に名優オーソン・ウェルズによってラジオドラマとしてアメリカで放送されたとき、本当に火星人が襲来したと勘違いした人たちから、警察へ問い合わせが殺到したというのはよく知られたエピソードである。
 この作品は、これまで幾度か映画化もされているが、ここで取り上げたいのは、二〇〇五年六月に公開されたスティーブン・スピルバーグ監督、そしてトム・クルーズの主演で制作された作品である。
 本作は、原作の要素は残しながらも、舞台をアメリカへ、そして物語も火星人の襲撃のなか、離婚した男が、実の子である兄妹を元妻のもとへ送り届ける話へと大きくデフォルメ(作家による素材の意識的変形)されている。その詳細については、映画に直接あたっていただくこととして、ここではこの作品の冒頭部分に注目してみたい。
 物語のはじめ、火星人らは稲妻の光に乗って、地中に埋められていた彼らの戦闘マシーン・トライポットへ次々と乗り込んでいた。彼らは、人類がまだ生まれるはるか以前にこの時に備えてあらかじめこの機械を地中に埋めていたのである。
 この映画でのトライポットは、比較的原作に近い形で造形されており、三本の足の上に紡錘状の本体を載せ、また二本の腕のようなものがついている。腕の先には、破壊光線を出す装置がつけられていた。むろん人間よりもはるかに大きい。
 主人公の住む町にも埋められていたが、それは教会前の交差点の地下であった。トライポットが地中からせり上がってくるとき、地面に無数の亀裂が入り、それが周辺の建物にも及んでいく。もちろん教会も例外ではない。ついにトライポットが地中より姿を現したとき、教会の建物も崩れ落ちる。そのとき屋根の上にあったであろう大きな十字架がひとつ落ちてくるのである。
 実は、ここに興味深い問題が潜んでいる。教会が破壊される直前、トライポットが交差点から無理にせり上がろうとする様子を空撮で映すシーンがはさまれている。そこでは交差点と教会の建物の全体が映し込まれているが、興味深いことに、なんと教会に十字架が見えないのである。が、次に切り替わる地上からのシーンでは、せり上がるトライポットによって教会が破壊され、そこに確かに十字架が落ちてくるのである。
 これは、このシーンをなすにあたって、十字架の落下を何らかの意図をもってあらたに付け加えたことを示している。
 十字架は、教会を象徴するともにキリスト教という宗教をも象徴する。もともと建物になかった十字架をわざわざ落下させているのは、明らかに火星人が〝神をもおそれない存在〟であることを強調する効果を持っている。これは、キリスト教を文化基盤にもつ人々にとっては、ある種の恐怖を抱かせることにつながるはずだ。
 しかし、そもそも火星人は、人類とは文化の異なる存在である。それ故、人が信仰する神を信じていないのはむしろ当たり前である。我々が未知の宗教に出逢ったときのことを思い起こせば、そのことは容易に想像がつくであろう。ここには我々が宗教を考える時の深いヒントが隠れている。
 ただ、物語の結末では、神の英知によって作られた細菌が、火星人たちをむしばむことで、彼らを死に至らしめることになっているから、全体としては、神を畏れないものが、神によって滅ぼされたという構図になっている。したがって、物語の冒頭で十字架が落とされることと、最期の結末はあきらかに連動していると考えて良いだろう。

2020年08月15日

映画ゴジラの中の新技術

第一作の『ゴジラ』には当時としては比較的新しい技術が幾つか登場する。例えば、その一つとしてテレビがあげられるだろう。山根邸の居間に置かれたテレビ、芹沢博士の実験室におかれたテレビなどが、ゴジラの破壊行為の現状をリアルタイムに映し出している。このリアルタイムな〝映像〟こそが、当時一般的であったラジオとはことなる新技術テレビの特徴であった。東京を破壊するゴジラをテレビ塔から実況中継するアナウンサーが「これは、劇でも映画でもありません」と叫ぶその言葉にそれは端的に表れている。ただし、これは裏返せば、テレビに映し出されるものが、劇や映画と区別がつかないという危うさをも暗に示しているわけであり、今日しばしば問題となるいわゆる「やらせ」というテレビのもつ視聴者への裏切り行為の問題とも関わっていく。
 物語の最後で芹沢は、尾形や恵美子の説得に応じてオキシジェン・デストロイヤーの使用と自身の死を決意するが、その直接のきっかけはテレビから流れてくるゴジラによる破壊の惨状と鎮魂のために歌う乙女達の映像であった。いうならば、ゴジラ排除について、間接的ではあるが重要な役割を果たしたわけある。今日では当たり前となってとくに意識しなくなってしまったテレビだが、それがどのような意義をもっていたかをあらためて思い起こさせてくれるシーンである。
 ちなみに彼の決断は、実は恵美子との恋愛関係の破綻も理由のひとつであったことは見逃してはならない。先に芹沢が、恵美子へオキシジェン・デストロイヤーの秘密を打ち明けたとき、彼はその公表を強制されたときは死を選ぶと伝えていた。しかし、恵美子は誰にも言わないという約束を破ったばかりか、こともあろうか自分の恋敵である尾形に告げたのである。これでは芹沢に死んでくれといっているようなものであろう。
 ところで、日本においてテレビ放送が始まったのは、一九五三年(昭和二八)二月一日のことであった。午後二時、NHK東京テレビが放送を開始したのが最初である。流されたのは歌舞伎の中継である。また八月二八日には日本テレビが開局し、よく二九日に巨人・阪神戦のナイター試合を中継している。
 一九五三年の段階でNHKの契約者は一五〇〇人程度だったが、翌五四年では一六八〇〇人弱にまで増加し、五五年になると五二〇〇〇人以上の人が契約していた。きわめて急激な伸びである。ただ、シャープが一九五三年に他社に先駆けて発売した国産テレビの価格は一七五〇〇〇円であった。当時の大卒初任給が一五〇〇〇円前後であったことを考えると、現在の価格ではほぼ二〇〇万円以上となり、おおよそ自動車一台分に相当したから、最初期においては一般家庭には普及しがたく、喫茶店などが客寄せのために購入することが多かったようである。主人公のひとり山根恭平は、大学教授でありいわゆるブルジョアに属するから、家庭にテレビがあってもあるいはおかしくはないかもしれない。
映画では、ラジオも頻繁に出てくる。特に「臨時ニュース」などの緊急情報のアナウンスは、ほとんどラジオを通してである。その第一の理由は、当時はテレビよりもラジオの方が普及率が高かったことによるのであろう。しかし、映画の上ではもう一つの効果がそこには隠されているようだ。それは、この映画では、人々の恐怖をあおるために戦時中の空襲の被害や恐怖が重ね合わされているのだが、ラジオは、空襲における爆撃機の進入情報などを臨時にアナウンスする機能を担っていた。ラジオから流れるゴジラ接近の情報は、こうした空襲における警報放送に重ね合わされることで、戦争を経験した人たちがほとんどを占めていた当時において、観客に恐怖を呼び起こすには十分な仕掛けとなったと思われる。ラジオが緊急情報を伝え、テレビが惨状を見せる。その役割分担を通してゴジラの恐怖が演出されているわけだ。
 ちなみに映画で使われているテレビには「ユタカ」の文字が見える。これは、当時実際に存在したテレビ受像機のメーカーであった。

2020年08月15日

鳴動

 ゴジラのドーンという足音は、きわめて印象的である。
 もっとも典型的なのは、第一作の『ゴジラ』(一九五四)である。冒頭のタイトルバックは、ゴジラの足音と咆吼からはじまるが、ストーリーの中でもゴジラ出現の前には必ずといって良いほどこの足音が挿入されるのである。
 「足音」という言葉自体は、たとえば「春の足音を感じる」などというように何かが身近に迫ってくることの比(ひ)喩(ゆ)的な表現として使われる。ゴジラの足音の場合、もちろん迫ってくるのは、ゴジラであるが、それだけではなく、これから自分たちに降りかかるであろう圧倒的な〝災難〟の切迫(今にも事件がおこりそうになること)をあらわしている。いうならば、この音は目前の不幸を予兆しているのである。それ故に観客に恐怖を感じさせる効果を持っている。
 実のところ、この足音は、「鳴動(めいどう)」に類似の性格を持っているように思える。それは悪いことの前兆を表すものとして古来より日本人が怖れてきたものである。
 鳴動とは、「大きな音をたててゆれ動くこと。鳴りうごくこと」、と手元の『日本国語大辞典』(小学館、1976)にはある。
 いま特撮の世界でもっともわかりやすく鳴動現象が使われている作品をあげるならば、大映の「大魔神」シリーズ三作品が思い浮かぶ。たとえば第一作『大魔神』では、「悪い知らせ」としての鳴動が、典型的な形で何度か出る。その幾つかを具体的に見てみよう。
 まず、冒頭部分、平和な農家の夜に突如としてドーンという音が響き、それとともに家がゆり動かされる。


夫 魔神だ! 魔神の足音だ!
妻 魔神だって?
夫 お山の魔神が出ようと暴れているんだ。
妻 それじゃ、おおかみ谷に封じ込められていると、この里に古くから言