一九五四年に公開された『ゴジラ』の物語で、ゴジラは最初に伊豆諸島の架空の島・大戸島に姿を現すが、その後一旦海にもどり移動、日本本土に初めて姿を現すのが品川であった。夜間、映画公開当時にはまだ存在していた品川沖の第二台場と第六台場の中間あたりの海底から姿をあらわし、そのまま品川駅に至り、京急本線のハツ山跨線線路橋を破壊して東京湾に戻る。じつはこのとき、観客は初めて闇夜に浮かぶゴジラの全身像を目撃するのである。そしてその後再び田町付近から再上陸し、東京を蹂躙する。
ここで言う台場とは、幕末、米国の使節ペリーの再来に備えて、幕府が江戸湾内品川沖に造らせた砲台である。全部で十一基が計画されたが、完成は五基のみで第四台場と第七台場が未完成のままに置かれた。映画公開当時、第二、第三、第六、第七の四基が残っていたが、現存するのは、第三台場(いわゆるお台場公園)と第六台場のみである。この第二台場には、明治三年(一八七〇)点灯の洋式灯台が設置されていた。これは観音崎に置かれた日本最初の洋式灯台に次いで据えられた灯台であった。海岸から姿を現したゴジラの背後には、セットではあるがその回転する光が表現されており、これにより最初に姿を現した場所をほぼ特定することができるのである。
その後第二台場は、東京港への航路上にあったため(1)、昭和三十六年(一九六一)に撤去された。置かれていた灯台もそれに先だつ昭和三十二年(一九五七)に取り払われ、現在は現存する最古の洋式灯台として愛知の博物館明治村に移築されている。
ちなみに日本最初の洋式灯台は、観音崎に設置された。明治二年(一八六九)一月初点灯の後、地震の被害により撤去、その後何度か再建されている。現在の灯台は、大正十四年(一九二五)の建立である。
ところで、ゴジラが本土を襲うに際して、品川から上陸するのはなぜなのだろうか。
映画の中でコジラは、徐々にその姿を観客に見せるように構成されている。最初は、嵐の中の大戸島上陸シーンで、この時は破壊された家屋の合間に、ほんの一瞬だけ、しかも体のごく一部が動いていくのが見える。二度目は、大戸島へ派遣された政府の調査団が目撃するもので、山の向こう側から頸から上の頭部を現すゴジラである。そして観客が、はじめてゴジラの全身を目の当たりにするのは、品川への上陸のときであった。
明らかにゴジラの全体像は見る側に徐々にあらわになっていくようシーンの構成がなされている。したがって、いったん品川に上陸するのは、ゴジラの全体像とその破壊力をあらかじめ観客に見せるための工夫であったと考えることも不可能ではないが、このような見方では、最初の上陸地がなぜ品川であったのかについてを説明することはできない。なぜなら、その場合上陸はほかの場所でも良かったからである。
また、多くの論者は、太平洋戦争時の空襲の被害地域がゴジラが破壊した地域と重なることを指摘している。たしかに東京へ上陸した後のゴジラは、東京空襲によって壊滅した地帯におおむね沿うかたちで移動している。しかし、これもまたゴジラの品川上陸の理由にはなりにくい。もし空襲と関連しているのであれば、房総方面からゴジラは上陸してもよかったはずである。なぜならば、攻撃に主として使用された戦略爆撃機B29の主な侵入経路が房総半島方面だったからである。
じつはゴジラの破壊地域は、一回の空襲で破壊された地域と重なるのではなく、太平洋戦争終結までの度重なる爆撃の結果で壊滅した地域をなぞっている。しかも大きな被害を出し、東京における空襲被害の象徴ともいえる一九四五年三月一〇日のいわゆる〝東京大空襲〟の被害地域は通っていない(2)。
ゴジラは、東京を破壊するに際して、なぜその最初の上陸地が、品川でなければならなかったのであろうか。そこには、当時の映画の制作者も観客もそうであることになんの違和感も抱かない、いたって自然な理由があったものと思われる。以下でその謎を追いかけてみたい。
(1)国際港としての東京港の開港は昭和一六年五月のことであった(『東京港誌』東京 市役所、一九四二年三月}。
(2)野村宏平「ゴジラと東京怪獣映画でたとる昭和の都市」(一迅社、二〇一四年八月)。

