以上、古代・中世から近代にいたるまでの怪獣に関わる記録を概観し、時代における様々な属性が今日の怪獣にどのように受け継がれまた逆に受け継がれてこなかったかについて見てきた。
ゴジラの持つ生物としての不合理性についていうならば、それは明らかに古い時代からの継承であった。むろん鵺のように様々な動物の集合体のような姿をしているわけではない。むしろその形態は一見して恐竜である。ただし、詳細にみれば、そこには進化上の問題がある。
たとえば、ゴジラは胴体を直立させた二足歩行でかつベタ足(かがとを地面につける)で歩くが、これは霊長類ことに人間の特色である。また第一作『ゴジラ』(一九五四)で山根恭平はゴジラについて「海生爬虫類から陸上獣類に進化しようとする中間型の生物」というが、現実の自然界では海に住む両生類はいまのところ確認されてはおらず、またゴジラには水かきなど水中生活に適応できる形態がない。また一部例外を除いてゴジラにおける後足の指は四本であるが、恐竜は、その誕生の初期から指は三本であった。「退化したものがまた伸びてくるなんて、進化ではあり得ないこと」だという。つまりゴジラは恐竜だけに分類するには矛盾する点が多く、また哺乳類ことに霊長類との共通点もあって、さまざまな種類の生物の特色を「モザイク的に備えている」のである(1)。そもそも口から放射能の熱戦を吐くこと自体が生物としてはあきらかな不合理である。
ただし、問題はそうした現象面の不合理にあるのではない。むしろそんな怪獣になんら違和感を感じない我々の精神のあり方のほうにこそ考えるべき課題が存在する。古い時代から継承しているのは、そうした精神の方なのだと言ってもよいかもしれない。丸山眞男の言葉を借りるならば、そこには〝執拗低音〟のごとく響き続けるなんらかの構造、そのようなものが明らかに浮かび上がってくる(2)。そして、それこそが日本人や日本文化を、意識的にしろ無意識的にしろ根底から枠づけているもののひとつなのである。
(1)武居克明「ゴジラ生物学序説批判」(『科学朝日』五四巻一号、一九九四)。
(2)丸山真男 「原型・古層・執拗低音」( 『日本文化のかくれた形』 岩波現代文庫)