(一)新聞記事に見える怪獣
表は、明治十年(一八七七)から『ゴジラ』の封切られる昭和二九年(一九五四)までの期間に発刊された『読売新聞』の中で、怪獣に関わる記事を拾い上げていくつかの問題について考えてみたい(引用は「ヨミダス歴史館」による)。近代の精神は「怪獣」をどのように受け継ぎまた捉えなおしていったのであろうか。
明治時代、少なくともこれら新聞記事に見える怪獣は、江戸期におけるそれと比較的類似するものが多い。たとえば、明治一七年六月二六日の朝刊には「東京・南豊島、九三年ぶりの屋根葺き替えの折、怪獣・怪魚の白骨発見」と題する次のような記事が載る。
白骨 府下南豊島郡中野村の喜瀬川半兵衛方にて、両三日前藁屋根の葺替せんと取崩しに掛ると、簣(すのこ)の間より頭は猿の如く胴は犬に似たる四足獣の白骨と、魚骨と覚しき九尺余りの白骨が出たに一同驚き、早速其の筋へ届け出たと云ふが、同家は寛政四年に普請せし、またて今度屋根の葺替までは九十三年間になると云ふ
また明治二四年三月一〇日の紙面には、「怪獣網にかゝる」と題する記事がある。
去る二月二十七八日の頃なりとか。大分県大分郡松岡村の某(なにがし)が魚を漁せんとて、所持の投網を携へ小舟に打ち乗り、大野川の支流なる同郡鶴崎町字七軒町法心寺裏の淵に来り。一(ひと)と網投(あみう)ちて引揚げんとなせしに、其の重量非常なるゆえ、定て数多の魚を漁せしならんと心中に悦びつゝ漸くにして引揚見れば、コハソモ(筆者注・これはそもそも)如何に魚にはあらで、最も大なる怪獣の死体なれば、某は大に驚き能くくその死体を改めしに、体は一身なるも頭は首の着け根より二つに分れ、両頭と成りて、両頭共目鼻口耳とも立派に備はりて牛の頭に似て、尻尾は二つに裂け其形ちは竹箒の如く、爪は単蹄にて大きさは犬ほどありしゆえ、某は益々驚き係る怪しき獣を見たることなければ、愈(いよ)々(いよ)怖気立(こわげた)ち怪獣の死体は其所に打ち捨て置き漁を止めて其(その)儘(まま)我家に帰り、有りし次第を近所のものに告げ、二人打ち連れ立ちて捨てたるところに行き両人して携へ帰りしに、見る人皆其怪獣に驚かざる者なかりしが、中にも此の事を聞き附けて、某は見世物にして一儲けせんと目下其怪獣を買取る相談中なりといふ。
さらに明治二六年八月十日(一八九三)には、福岡県遠賀郡石嶺村山中に大蛇、怪獣が出現したとの記事が載る。
この地域の山中には、二十~三十年前から大蛇の巣窟があったと伝えられていた。この年の六月頃、二~三人の樵夫が連れ立って山中にはいったところ、樹木が生い茂ったむこうに怪しい音を出しながら現れたものがあった。それは噂の大蛇であった。胴回りが一尺二寸から三寸(おおよそ三十センチ以上)もあり、背中は黒く腹は黄色でとても恐ろしいものであった。樵夫たちはすぐに下山したが、実はこの大蛇は古来人を害したことはなくとても順良であった。しかしながら、
同山には一の恠獣(かいじゅう)あり。頭は狆(ちん)の如く背は虎に似て其尾は恰(あたか)も馬尾に髣(ほう)髴(ふつ)たり。其大さは大猫に侔(ひと)しく、是も六七年前一度び見たるものありしが、本年も之に出逢ひたるものありと通信のまゝを記す
これら新聞記事に出た怪獣は、いずれも人と等身大で人間に制御可能なこと、またおおよそ生物として不合理な形態を持っている点など、江戸時代の怪獣と共通する点が多い。この場合、正体のわからない生き物が怪獣と呼ばれているわけで、『山海経』の言う意味での怪獣であると言って良い。ただ、妖力を発する怪獣は、少なくとこの時期の『読売新聞』の記事には見当たらない。
ところが、大正から昭和前期にかけてこうした怪獣観が大きく変化する。その違いの第一は、怪獣が日本人の身近な場所に発見されず、日本以外の辺境、密林あるいは南北両極など、いわゆる〝秘境〟とすべき地で見つかることである。その典型例を一つ挙げよう。昭和二年(一九二七)四月四日の記事である。
アフリカは未だに秘密の国として世界の探検家の鋭い注目の的となっているが、(中略)英国探検家のH、F、フェン中佐の一行が昨年ベルギー領コンゴーの奥に於いて、果して一の怪獣を発見した。中佐はそれにレプリカと命名した。有史前の前世界の怪獣の子孫とし、今日にまで生存していることは奇獣と云はねばならならぬ。怪獣の側に立っているのがフェン中佐である。怪獣は無論草食で運動は鈍く柔順である。
見出しには「いまだ生き残っている有史前の怪獣」とある。ここで言う「有史前」というのは、恐竜の生きていた時代を指しているらしい。この時期「前世紀の怪獣」などという言葉も多用されるようになる。こうした怪獣観の変化は、コナン・ドイルのSF小説『The Lost World』(一九一二)とそれを原作とした映画公開よる影響が無視できないものと思われる。我が国での映画公開は大正十四年(一九二五)八月であったが、『キネマ旬報』の映画広告・下部写真(注1)には
忽(こつ)として前世紀の世界は眼前に展開す。怪鳥空を圧し奇獣地を行く。倫(ろん)敦(どん)市中に出現しては文明人の膽(きも)を奪ひタワー・ブリッヂは一蹴せられ大厦(か)高楼足下に倒壊す
(筆者注・厦=家)
と記されている。
『ロストーワールド』は、新聞記者エドワード・ダン・マーロがチャレンジャー教授たちと秘境アマゾンの奥地に向かい、他とは隔絶された台地状の地に生息する恐竜たちに遭遇するという物語である。右のフェン中佐の探検旅行は、文字通りこの映画を彷彿とさせるであろう。事実、この記事では「奇獣」という言葉が使われているが、それは右の『キネマ旬報』の『The Lost World』の映画広告にも使われていた言葉であった。その影響を想定しても決して無稽とは言えない。
ところで、この時期における怪獣へのまなざしには、多分に科学的性格もうかがえる。たとえば、表のドキュメント映画の紹介記事である「極北の怪獣」や「樺太の怪獣・恐竜トラコドンの化石発見」などがその典型的として抽出できる。こうした作品の出現にも、有史以前の生物の生存を学会に証明するための科学的な探検旅行というテーマを持っていた『ロストワールド』の物語の影響を想定することも不可能ではないかもしれない。
このような科学への志向性について言うならば、我が国においては明治二十年代の井上円了の『妖怪学講義』に代表されるような、いわゆる〝迷信〟を否定する近代の啓蒙活動の影響と考えられるが、一方でこの時期の学校における科学教育重視の姿勢に起因するものであったことも考慮しておいても良いであろう(注2)。
第一次世界大戦(一九一四~一八)は、飛行機や戦車、毒ガスなど科学の力が大きく兵器を革新させた戦いであった。それを目の当たりにした日本政府は、大正七年(一九一八)に中学校と師範学校における化学や物理の実験教育に多大な予算を充てることとしたが、その科学重視の機運はやがて小学校にもおよんでいったという(25)。こうした科学教育重視の傾向も、明治期以来の啓蒙運動の成果と相まって〝科学的〟に怪獣を取り扱う傾向を生み出す背景の一つとなったものと考えてもあながち間違いとは言えないだろう。
ただし、この時期には、同時に前近代的な性格の怪獣伝承を収載した書物、たとえば『土佐風俗と伝説』(一九二五)のようなものも出版されていたことには注意しておかなければならない。
映画『ロストーワールド』の成功に導かれて、その後類似の映画が次々と封切られていったが、その有様を表からも見て取ることができる。喜劇『怪獣征服』(昭和四年)、なぞの怪獣を追う『怪獣スラダング』(昭和九年)、巨大な〝オラングータン〟と大蛇の一騎打ちをうたう『ボルネオの怪獣』(昭和一一年)などなどである。昭和八年(一九三三)には『キングコング』も封切られている。
戦後については、美女を襲う巨大なゴリラ『怪獣サンバ』(昭和二六年)が公開され、そうした流れの中で『ゴジラ』(昭和二九年)公開へとつながっていくのである。
『ロストーワールド』以後、怪獣は自然の神秘や妖異な存在から、それを楽しむ娯楽の対象へと大きく姿をかえていったその有様を見ることができるだろう。
(二)〝大怪獣〟の登場
実は『ロストーワールド』の影響には、もう一つの可能性を指摘できる。それは、怪獣が大きさを持つきっかけを作ったらしいことである。この映画に出るのはいわゆる恐竜であり、それは当然の如く人間よりも大きな存在であり、そこになんら違和感がなかった。この映画のクライマックスでは、巨大なプロントザウルス(アパトサウルス)がロンドンの街を破壊するシーンがあり、それはひとつの見どころとなっている。その影響であろうか、この時期〝大怪獣〟という表現が見られるようになるのである。
江見水蔭『暴れ大怪獣』(大正一四年・一九二五)(注3)は、まさにこの時期に著された少年冒険小説で、内蒙古という当時の日本人にとって辺境の砂漠地帯を舞台に資源を牛耳ろうとする我利我利国人と日本人の少年やモンゴルの人たちとの戦いを描いた冒険活劇である。
ここに言う〝大怪獣〟は
怪しい雲に巻かれていても、薄ぼんやりと其顔は分りました。大きな大きな顔!それが虎と獅子と象とを一緒にしたような、奇怪至極の顔でした。眼は鋭く輝き、口の大きな、牙の尖った、然うして鼻が隆く長く
といったおおよそ生物としては不合理な形をもっており、毒気を吐いて人々を気絶させる存在でもあった。その姿がいくつかの生物の複合している形態の異様さは、あきらかに前近代の怪獣観を引き継ぐものである。また、この怪獣の正体をめぐって様々なことが言われる中で、
「八百年毎に怪獣が出現する。その時には蒙古に必らず大変動がある。」喇嘛(らま)教の活仏が予言めいて云った事が有った。正しくそれに相当すると云った古老も有った。
とあり、神秘性を付与されて読者に提示されてもいる。このことは前近代から明治期までに主流であった人々の怪獣に対するイメージに連続するものであって、この時代においても怪獣の重要な属性だったのである。しかも、予言と結びつけられている点などは今日のゴジラたとえば、『ゴジラ対メカゴジラ』(福田純監督、一九七四年)にも通じるものであった。
ただし、一方で、
「前世界の動物が砂漠中に未だ生存していたので、それが此頃暴れ出したのでは有るまいか。」然ういう説を立てる者は余程知識の進んだ者であった。
とも書かれていて、怪獣に対する合理的解釈が表明されているのは、〝迷信〟を前時代的なものと退け、科学的知識にもとづく合理的判断を良しとする時代の要請に連動するものであるだろう。それはそういう説をたてる人に対して「余程知識の進んだ者であった」という評価を与えていることに端的に表れている。また、「前世界の動物が砂漠中に未だ生存」などという記述は、映画『ロスト・ワールド』の物語を彷彿とさせるものであった。
さらに
蒙古には日本内地には産しない動物が棲んでいる。駱(らく)駝(だ)、騾(しまうま)、驢(ろ)馬(ば)、水牛、狼の一種等がそれで有るが、問題の大怪獣はそんな普通のでは無いので有った。
と書かれている。この一節からは「蒙古」という場所が、日本では日常的には見られない非日常な動物がいる世界であること、そしてそれが故に不思議な動物がいてもおかしくはない場であるとのイメージのあったことが読み取れる。そしてその背後には、怪獣は、日本より遠く離れた秘境で見つけられるもの、といったこの時代の怪獣観が横たわっていると考えられ、それが故にこの作品に登場する〝大怪獣〟は物語上でのリアリティーを読者に与える効果を生んでいるといえよう。
結局、この〝大怪獣〟は、我利我利人の四足歩行の特殊な戦闘車であったことがのちには判明することになる。つまり怪獣に似せた機械だったのである。秘境の怪獣からこうした新しい兵器へと読者を導いていくことも第一次大戦という科学技術によって、数々の新兵器が誕生した新しい戦争を目の当たりにした時代の精神を明らかに示しているといえるであろう。
(注1)『キネマ旬報』大正一四年(一九二五)八月一日号。
(注2)滋賀大学附属図書館編『近代日本の教科書のあゆみー明治期から現代まで』(サンライズ出版、二〇〇六年) 一三九頁。
(注3) 伊藤秀雄編『明治大正冒険小説集』(『少年小説大系』第二期匸一巻、三一書房、一九九四)。