「怪獣」という言葉が頻繁に使われるようになるのは、江戸期に入ってからのことである(14)。しかも、それは『山海経』の意味に近いかたちでつかわれる。そのいくつかを見てみよう。
江戸後期の画家であり国学者であった平尾魯僊(ろせん)の『谷の響』(万延元・一八六〇)に次のような話が載る(15)。梗概で示そう。
文化初年の四月の頃のことであった。赤石川の水源にあたるサルコ淵で網を下ろして漁をしていたとき、突然波の音がしたので目をこらして見てみると、蓑(みの)を着たようなものが水の真ん中に立っていた。月夜にすかしてみたが、顔や手足がよく分からず、ただ毛のなかに蛍火のようなものが百ばかりもあって全身を覆っていた。何者かとそのまま歩み寄ってつかみかかったところ、その怪物は一跳ねして一四~五メートルも退いた。そのまま水の中に沈み見えなくなり、手の中にはただ一握りの毛だけが残った。夜が明けてからその毛を見てみると長さは五十センチ程で、太さは馬のたてがみの二倍くらいあった。色は赤黒く先はみんな二股になっていた。この毛については、厄除けのまじないにしたいという人に与えてしまいすべて無くなってしまったという。
この話は、「六十に余れる老父」が語ったもので、彼は「盛壮(さかり)の時は山を舎(いへ)とし澗(たに)を棲(すみか)とせるならば、いかなる幽邃(ふか)き陰地(ところ)といへど歩猟(あるか)ざる」はなかったという。右の話は、そうした彼が遭遇した唯一の不思議な体験であった。
そして魯僊は、この話を
いかなる怪獣であろうか。その毛を見ることができなかったのは遺憾である。
【原文 いかなる怪獣にや有けん、其毛を見ざるは遺憾(ざんねん)なり】
と結んでいる。
華誘居士『遠山奇談』にも深山で遭遇した不思議な動物について書かれている。
この書は、天明八(一七七八)の京都大火で類焼した東本願寺の再建のための用材をもとめて、遠州浜松の齢松寺の僧ら七人が、信濃駿河甲斐遠江にまたがる広大な山に分け入ったときに体験した様々な不思議な出来事やめずらしい鳥獣などについて、詳しく記したものである。初編は寛政十年(一七九八)、後編が享和元年(一八〇一)に出版されている。その中から「深山に宿り白き怪獣に出合又夜中こずへに猛火飛たゝかふ事」の一話を示そう。
夜、岩陰に宿ったときのことである。炊事係が食事の用意をしていると真っ白な獣が走り寄ってきた。こわくなって枯れ枝で打ち払ったが、しばらくするとまたやってきた。今度は燃えた杭で打ち払った。気持ちが悪いので吉兵衛を呼んだところ、その獣がまたやってきた。かねてから構えていたこともあって、吉兵衛が燃えた木を差し出すとそれに喰いつきてきたので、そのまま突いてやると獣は逃げていった。だがしばらくするとまたやって来た。吉兵衛は今度は用意していた鉄砲を差し出すとそれにも食らい付いてきたのでそのまま火ぶたをきった。獣は、胴腹を撃ち抜かれたが、そのまま逃げていった。血の跡を追ってみると八キロほどむこうに倒れていた。そこで四足をしばって持ち帰ってきたが、それは、
吉兵衛も見たことのない獣でその名前さえわからなかった。これはまったく怪獣と言わざるを得ない。大きさはイノシシほどで全身が真っ白である。体の毛は長さが六四~五センチほどあり、狸の顔に似ていた。むく犬のように毛が長く全身を覆っていた。
【原文 吉兵衛もついに見ぬ獣にて何といふ名をしらず。是全く怪獣なるべし。大きさ猪ほとありて惣身真白、惣毛の長さ二尺余狸のかほによく似たり。むく犬のごとくすべて毛長ふして惣身の毛地をする。】(16)
という。
もう一つ事例をあげておこう。山崎美成『閑室漫録』から「狭間弥一兵衛怪獣を斬る」である。
先月二十一日の午後八時前のことであった。岡崎城内に字切通というところで、櫓(やぐら)修理のための足場から異形のものが飛び降りてきて、弥一兵衛に組み付いてきた。そのまま生け捕ったのだが、毛が長く取り逃がしそうになったので、抜き打ちに刀で切り捨てた。弥一兵衛はそのまま帰宅し、下男を遣わして確認させたところ、大きさは犬くらいで、尾は猫のようで赤と白が混じり合った色をしていた。尾は長く四足で、顔は猿に似て五本の指がそろっていた。血に染まって死んでいた。このことについて届け出があった。見物の群衆が集まったと矢矧橋の御普請掛かりが報告してきたとのことである。
天保十亥年(一八四〇)九月
【原文 先月廿一日夜五ツ時前、岡崎場内に字切通と申処にて、同所櫓修覆足代より異形のもの 飛下り、弥一兵衛へ組付候故、既生捕候処、毛至て長く、可二取逃一哉に付、抜打に一刀に切捨、其儘帰宅致し、下男差遣し、右場所見せ候処、大サ犬程にて、尾は猫の如く赤く白く交り、尾長く四足、面猿に似、五指全く備り、血に染死居候に付、其段届有之、見物群集致候由、矢矧橋御普請掛りより申越候由、
天保十亥年九月】(17)
右に示した三つ話の中に出る動物は、いずれも尋常ではない姿をした獣類で、いくつかの生き物の形態が複合しているという点では鵺にも通じる存在であり、その点に於いて中世と連続している。しかし、そうした動物に確かに「怪獣」という言葉が使われていることは前の時代にはなかったことである。これはなぜであろうか。
実は江戸期は、知識人における教養が漢籍にあった時代である。江戸中期までは、外部の知識は漢籍を通じて日本へもたらされるのが一般的であり、また印刷技術の発達が読者層の広がりをもたらし、その結果、中国の書物は広く知識人の間に浸透することになった。そのことに配慮するならば、あるいは『山海経』の「怪獣」がこの時代〝再発見〟されたのかもしれない。実際、江戸時代において『山海経』は確かに版行されており、ある程度人々に知られていたようである。たとえば大坂の河内屋吉兵衛は文化年間に和刻本を出しており(18)、また平田篤胤はその著書『大扶桑国考』の、ことにその上巻で『山海経』に基づく地名考証を行っている(19)などの例から、そのことは裏付けられる。
ところで、近世期の怪獣観については、いまひとつ古代・中世と異なる点が指摘できる。それは「怪獣」の出現が妖異な現象というよりも自然における不思議として理解されている点である。その点においては、今日のゴジラにも通じる性格である。殊にシリーズ第一作の『ゴジラ』(一九五四)では、海底洞窟にひっそりと暮らしていた恐竜型の動物が、人間の水爆実験によって特異な変異を起こしゴジラとなったという設定であり、主人公の一人で古生物学者である山根の「水爆の放射能を受け乍ら、尚且つ生きている生命の秘密を何故解こうとしないんだ」(20)という台詞は、ゴジラそのものが自然の神秘であったことをよく示している。そこには、近世随筆のなかで語られている「怪獣」に遭遇した人々の驚きに通じるものを認めることができるであろう。
また、江戸期の怪獣は、いずれも人と等身大で人間にとって制御可能なものとして捉えられている。これは、この時期の知識人における合理主義的な傾向と連動しているのであろう。その点においては、『山海経』に近く、現代の人間の力を超越した巨大な怪獣からは距離を置く。
もっとも、前の時代における「怪獣」の神秘性を全く受け継いでいないかというと、実は必ずしもそうとは言えない。次に示すのは、尾張藩士・三(み)好(よし)想(しょう)山(ざん)の『想(しょう)山(ざん)著(ちょ)聞(もん)集(じゅう)』(嘉永二・一八四九)に載る「信州にて、くだと云怪獣を刺殺たる事」(21)である。
信州伊奈郡にわずか五、六軒の家があつまる集落があった。その荒れ果てた旧家にひとりの女がいたが、夜分になると声を限りにヒイヒイと泣くことがあった。難儀した主人は、縣道玄に療養のことを頼む。夜、用足しに立った道玄の左の額に冷たく触るものがあった。翌晩、今度は刀を隠し持ってその場所へ行く。昨晩の如く、冷たいものが触ったので、力を限りに刀を突きあげた。手ごたえがあり、血のりが額へ流れかかった。その晩は、正体を見極めることができなかったが、翌朝隣家に不思議な怪物が死んでいるのを見る。それは
その大きさ大猫ほどあって、顔はまったく猫のようで、体はカワウソに似ていて、毛の色は全体的に灰色で、尾はとても太く大きく、栗鼠のような怪獣。
【原文 其大さ、大猫程ありて、顔は全く猫のごとく、躰は獺に似て、毛色は惣躰、灰鼠にて尾は甚だ太く大ひにして、栗鼠のごとくなる怪獣】
で「左りの下腹の処より、右の脇腹の所迄、斜に突通され」て死んでいた。女は泣くことは「此ものゝなす業(わざ)と見えて(このものの仕業と考えられ)」その後は止んだ。
人々は、この怪獣を「管(くだ)狐(ぎつね)」ではないかと言ったが、「しかし、其管狐と云うものとは全(まった)く別種のものと見えたり」と記されている。「管狐」については、「甚(はなはだ)の妖獣(とんでもない妖獣)」と表現されており、たいへんな妖異を示すものとの認識がみられるが、否定はされたものの、人々ははじめ右の怪獣も同種のものと考えたわけであるから、妖獣と呼ばれる存在と怪獣のあいだにはイメージの上で重なる部分のあったことを示している。
近世期の人々の怪獣に対するイメージには、『山海経』的な自然の神秘としての存在と、一方では中世から引き継ぐ「見えない力」を発する妖異な存在としての在り方を見せるものもあって、その両方を混在させていたことを示す一例である。
