⑷人間は宗教においてどのような指向性を持っているか

(3)人間は宗教においてどのような志向性を持っているか
 さてこの節と次の節では、この本が取り扱う「宗教」をどのようなものとして捉えているかについて簡単にお示ししておきましょう。
僧侶や神父あるいは神職などの聖職者ではない普通の生活者が、宗教に何を求めるかを考えたとき、強く表れる傾向として、おおきく二つのものがあります。
第1には、やはり日々の暮らしの安定への願いです。それはたとえば健康な体や経済的な充実などこの世での利益を得ることが前提となります。こうした願望を現世利益(げんぜりやく)願望といいます。たとえば、みなさんの中には大学受験の時に神社やお寺でお守りをいただいた方があるかもしれませんが、このように受験に成功したいという願望は、現世利益願望の一つです。
一部の聖職者などは、こうした願望を宗教的に低俗なものとして否定する人がいます。たしかに世に行われているいずれの宗教においても、その理想からすれば、この種の欲求は、充足すれば人の心に一時的な安定はもたらしますが、究極の解決には至らないことが多いでしょう。しかも、欲求がいつも充足されるとはかぎりませんから、その場合はあらたな苦しみを背負い込むことになります。したがって、こうした願望を否定しより高い次元に心を置くことを教えるのは、確かに大切なことではあります。しかし、一方でこうした欲求は意図的にというよりも普通にしていれば、自然に沸き起こってくるという事実があります。むしろそれを否定することの方が、意識的に心を働かせなければなりません。おそらく私たちに起こる現世利益願望は、人間の生存本能にも触れる根源的な問題であろうと思われますから、単純に否定すればよいということではないかもしれません。大切なことは、適度な制御のもとでこうした願いをもつことなのだと思います。
 第2の傾向として、先亡の祖先や肉親の霊魂の存在とその加護を信じ、さらに自身の死後および先亡の霊魂が宗教的浄土(天国)へ生まれ変わることを希求(ききゅう・のぞみもとめること)することがあります。先ほどの受験の例をもう一度つかうならば、たとえば亡くなった人たちの中で、自分によくしてくれた人、たとえば“お婆ちゃん”などに合格をお願いした方がいらっしゃったかもしれません。それはとりもなおさず死後の“お婆ちゃん”の存在を信じかつその助けに期待してのことだったわけですね。しかもそうした人たちが地獄に落ちていたらやはり嫌ですよね。というよりも考えたくもないというのが本当でしょうか。ですから、自分が大切にしている亡き人が、成仏しますようにとか天国(極楽)に生まれ変わっていますようにと手を合わせているのではないでしょうか。日本では、いわゆる四十九日法要や一周忌、三周忌などの定期的な年忌法要を行うのが普通ですが、これらは先亡の霊魂を浄化し、良いところに生まれるように期待して行われる宗教行事なのです。
このように、人々の宗教的な指向(考えや気持ちがある方向を目指すこと)は、この世の安寧(あんねい・世の中が無事で平穏なこと)や自分自身の生活の充実や安定、そして来世への信仰などが基本なのですが、大切なのはこれらがいずれも神仏や霊魂などとかかわっている点です。