⑶土蜘蛛

(三)土蜘蛛
 「土蜘蛛」は、様々な表記はあるものの、すでに『日本書紀』や各地の『風土記』に多出し、古くから人々に知られていた妖怪であった。はじめは朝廷の支配を拒む在地の豪族を指していた。たとえば『日本書紀』神武天皇即位前紀己未(つちのとひつじ)春二月の記録には、

 層富懸(そほのあがた)の波哆丘岬(はたのをかさき)に、新城戸畔(にいきとべ)といふ者がいた。又、和珥(わに)の坂下に、居勢祝(こせのはふり)といふ者がいた。さらに臍(ほそ)見(み)の長(な)柄(がらの)丘(おか)岬(さき)には、猪祝(いのはふり)といふ者がいた。此の三カ所の土蜘蛛はみんな勇猛さを誇り、それが故に朝廷にそむいていた。天皇は軍勢の一部をわけて彼らの討伐をおこなった。また高(たか)尾(を)張(はり)邑(むら)にも、土蜘蛛がいた。其の姿は、体は短小で手足が長く、侏(ひき)儒(ひと)(背丈の低い人)と似ていた。皇軍は、葛の網をつくって彼らを襲い殺した。そこでその村を葛城と改めたという。
 【原文 層富懸(そほのあがた)の波哆丘岬(はたのをかさき)に、新城戸畔(にいきとべ)といふ者有り。又、和珥(わに)の坂下に、居勢祝(こせのはふり)といふ者有り。臍(ほそ)見(み)の長(な)柄(がらの)丘(をか)岬(さき)に、猪祝(いのはふり)といふ者有り。此の三(み)処(ところ)の土蜘蛛、並(ならび)に其の勇力(たけきこと)を恃みて、来庭(まうき)き背(か)へにす。天皇乃ち偏師(かたいくさ)を分け遣して、皆誅(ころ)さしめたまふ。また高(たか)尾(を)張(はり)邑(むら)に、土蜘蛛有り。其の為人(ひととなり)、身短くして手足長し。侏(ひき)儒(ひと)と相(あい)類(に)たり。皇軍、葛の網を結(す)きて、掩襲(おそ)ひ殺しつ。因りて改めて其の邑(むら)を号(なづ)けて葛城と曰(い)ふ】(11)。(原漢文)

とある。この資料の後半部分に、高尾張邑の土蜘蛛についてその姿について書かれている。これによれば昆虫の蜘蛛を連想させるが、はやく津田左右吉に指摘があるように、こうした姿形の表現は「土蜘蛛」という言葉から逆に想像された結果なされたものと考えてよい(12)。しかし、この時点ですでに神秘化が始まっており、かつ土蜘蛛と呼ばれた人々が、朝廷に反抗し、それが故に亡ぼされたことからすれば、彼らが朝廷に恨みを持ってもおかしくない存在であったから、後世には人に災いをもたらす妖獣へと展開する。
 一四世紀ころに制作された『土蜘蛛草紙』には、そうした土蜘蛛の典型的なあり方が示されている。まず話の内容を梗概で示そう。

 平安時代の武将、源頼光が北山蓮台野にいくと一つの髑髏が空を飛んでいくのを見る。それを追っていくと古びた屋敷に一人の老女がいるのに出会う。彼女は二九〇歳にもなるといい、瞼(まぶた)や乳房が垂れ下がっていて、それを体にまとわりつけるといった異様な姿をしていた。頼光は老女に自分を殺すように懇願されたが、その場を離れる。やがて頭の大きな尼が出てきたり、黒雲が立ち込める中をたくさんの妖怪たちが現れるが、どっと笑ったかと思うと障子の向こうに消え去ったりする。そして最後に一人の美女が現れ、裾をまくし上げたかと思うと毬(まり)のような白雲を投げつけ、頼光に目くらましをくらわせる。見えない中を頼光がやみくもに剣で斬りかかると確かに手応えがあった。流れ出た白い血痕をたどっていくと洞窟の中にいる巨大な蜘蛛を発見する。怪異のすべてはこの蜘蛛のしわざであった。頼光が、切り裂いた腹から一九九〇ものどくろと無数の子蜘蛛が出てきた。頼光は、子蜘蛛を蹴散らし、髑髏を土中に埋めた(13)。

 この土蜘蛛は変幻自在な存在であるから、明らかに「見えない世界」の存在である。頼光がはじめに出会った老婆について、
 
 (流れ出た白い血をたどって)化け物の行方を捜すうちに、昨日であった老女の家にたどり着いた。そこにも白い血があったが、主の老女はいなかった。すでに一口にくわれてしまったのだと思いさらに探索をつづけると、
 【原文 行方を尋ぬる程に、昨日の老女の局に至りぬ。此処にも白血計り有りて、主は見えず。早や、一口に喰はれてけるなど思ひたづね行くに】

とあるから、この蜘蛛は人を喰う存在であった。したがって、腹から出てきたという一九九〇もの髑髏は、この蜘蛛に喰われた人のものなのであろう。しかし、この土蜘蛛に対しても「怪獣」という言葉は当てられない。

(11)『日本書紀』上(『岩波古典文学大系』、一九八四)ニ一○頁。
(12)前掲(11)補注 五八〇頁。
(13)小松茂美編『土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞』(『続絵巻大成』、中央公論社、一九八   四)。