では、宗教学を専門とする研究者は、どのように考えているのでしょうか。ここでは、宮家準氏の規定をご紹介しましょう。そのご著書『宗教民俗学』(東京大学出版会 1989)には次のように書かれています。すなわち
宗教を聖なるものとのかかわりにおいて営まれる人間の行動が、一定の思想、実践、組織として体系化されたものとする。なお宗教は、人間生活における究極的な挫折からの救済と究極的な意味づけを与える機能をはたすものである。(下線筆者)
とあります。ちなみに「究極」という言葉については、「他の何ものにもかえがたいという意味で用いている」と述べておられます。
この規定では、①聖なるものと関わる人間の行動が、②思想、実践、組織として体系化されたもの、それが「宗教」だというわけです。この規定では、①と②の要件が両方そろわなければ「宗教」とは呼べません。しかし『広辞苑』の場合は、少々大まかに言えば、①の条件を満たせば、「宗教」と認める立場であった点が異なりますね。なんとなれば、『広辞苑』では、神聖なものに関する信仰と行事、もしく(・・・)は(・)それらの連関的なシステムが宗教とされていたからです(傍点筆者)。この場合は、「信仰と行事」あるいは「それらの連関的システム」のどちらかが備わっていたならば、宗教と認められることになります。むろん連関的システムは信仰と行事があってこそ成り立つことですから、それが単独で存在するということは考えられません。しかしながら、“もしくは”という言葉が使われていますから、連関システムがなくとも信仰と行事が存在すれば宗教と認められるわけですよね。
ところで、宮家氏の規定では、後半部分で宗教の機能について述べられています。すなわち、宗教は人間生活における挫折などの問題が起こったとき、他の方法ではできないような程度で救済したり、また人間生活そのものに意味を与えてくれる働きをする、というわけです。
「救済」は、宗教のもっとも基本的な存在意義です。古くからある伝統的な宗教は、長い間に教義が深められており、かえって複雑さが増して、それが我々をして「宗教はむずかしい」といったイメージを抱かせています。一見して哲学と見まごうほどですね。とくに仏教においてはその傾向があります。しかし、哲学との大きな違いは、救済を目指すかどうかにあります。哲学は、「愛知」であり人間やその器である世界についての理解を与えるものですが、宗教はそこにとどまらず、その理解を基礎にして人々を救済へと導くことが目的なのです。
