日本神話にあるヤマタノオロチは古代における大蛇系怪獣の代表的な存在であるが、おなじ大蛇系の話として、次のような話もある。すなわち『日光山縁起』下(室町時代後期ころ)に日光三所権現と赤城大明神の戦いの物語である。
下野国の鎮守である日光三所権現は、湖水の境を上野国の赤城大明神と争い、幾たびとなく神(かみ)軍(いくさ)を行っていた。このことは「なのめなぬ大儀(きわだって大きな問題)だったので、日光権現は鹿島大明神と軍(いくさ)の評定をした。鹿島は、奥州の猟師猿丸大夫は権現の孫にあたるが、彼は弓の名手であるから、猿丸に助力を願えばよいのではないかと進言する。日光権現は、さっそくその姿を鹿に変えて猿丸の前に顕れる。権現は、猿丸を日光山に導き入れ、本来の姿を現じて事の次第を述べる。猿丸は、すぐに承諾し、決戦は翌日の午のときと定まった。そしていよいよ合戦の時、
ようやく夜もあけてきた。猿丸大夫はしばの茂みの中からやぐらをたてて、敵をいまかといまかと待ち構えていた。すると空が曇り、風がしきりに草木をなびかし、湖面には白波がたった。猿丸はかねてかまえていたことなので、弓をひきしぼって待っていた。その時、敵と思われるものが湖面に浮かび上がった。両目は鏡をならべたようで、たくさんの足は百千の火をともしたようになっていた。一方、日光権現は大蛇の姿であった。敵味方の声が山を響かし雲の上、海の底の神々の声がどうどうと鳴り響き、いなずまがひらめいて、ほんとうに驚くばかりであった。敵は百足であった。その目をねらって三人がかりで弦を張るほどの強い弓に十五束(一束=親指を除く指四本の長さ)もの長い矢をとって弓につがい、しっかりと引いて放った。矢は湖上をひらめきわたって、百足の左の目に深く突き刺さった。百足は深手を負ったため退いていった。
【原文】 漸(ようよう)天も明しかば、猿丸大夫、ふし柴の茂みが中にやぐらをあげて、御敵いまやくと待(まち)かけたり。さるほどに空かき曇り、山風しきりに草木をなびかし、海上に白浪立(たち)わたりぬ。猿丸おもひまふけたることなれば、弓の絃くゐしめし、そゞろ引て待居たり。こゝにかたきかとおぼしき者、海のおもてにうかび出たり。両眼はかゞみをならべたるがごとし。そのかずおほきあしは、百千の火をともしたるにことならず。権現は大蛇の躰にてぞおはしける。かたきみかたのどよむこゑ、山岳をひゞかしけり。雲の上海のそこなる神とどろき、いなづまひらめきて、まことに耳目をおどろかせり。かたきは百足たり、かゞやくはまなこなりと見さだめしかば、三人張に十五束の中ざし取て打(うち)つがい、吉(よつ)引(ぴき)しばしかためて、兵(ひよう)とはなつ。かぶらは海上にひらめきわたり、百足の左の眼に篦(の)ぶかに立にけり。大事の手なれば、かなはで引退けり
戦いは、結局日光側の勝利に終わったのだが、日光権現は大蛇、赤城大明神は巨大な百足の姿であった。
今日の怪獣映画の定石ともいえる怪獣VS怪獣というモティーフの淵源とも目される話である。類話として、前章でも取り上げた『今昔物語集』巻二六の第九「加賀国諍蛇蜈島行人、助蛇住島語(かがのくにのへびとむかでのあらそうしまにいくひと、へびをたすけてしまにすむこと)」、鎌倉時代初頭の『古(こ)事(じ)談(だん)』(巻五の三四)「園(おん)城(じょう)寺(じ)ニ龍宮ノ鐘ノ釣ラルル事」(竜と大蛇の争いに人間が助力)、一四世紀の『太平記』巻一五(竜と蜈蚣の争いに俵藤太(たわらのとうた)が助力)などをあげることができる。
これらは、いずれの話においても、大蛇や蜈蚣は神もしくは神的な存在であって、両者の戦いは神(かみ)戦(いくさ)としての性格が濃厚であることが特色である。そして、それが故にであろうか、これらに「怪獣」という呼称は当てられない。