すでに指摘のあるように(3)「怪獣」という言葉を見る比較的早い例は中国古代の文献『山海経(せんがいきょう)』である。すなわち、その「山経」の「南山経次一経」に
東の方、三百八十里(約百五十二キロ)のかなたは援翼の山という、その中には怪獣が多くすみ、また水の中には怪魚がたくさんいる。
【又東のかた三百八十里を、援翼の山と曰ふその中に怪獣多く、水に怪魚多し(現漢文)】(4)
とあるのがそれである。
『山海経』とは、中国・漢代(前漢・BC206~AC7、後漢・25~220)ころのもので「山経」五編と「海経」13編よりなる。「山経」には「人々の暮らす。内なる世界の外である山岳丘陵・森林や川沢のひろがる空間」(5)を、「海経」では「主として中国世界の外側にひろがる非中国的異属の世界」(6)についてのことが記されている。いうならば地誌のごとき性格の書物である。内容は、多分に荒唐無稽なものが多く、中国においても長いあいだ取り扱われることは少なかった。晋代(265~419)に郭璞(かくぼく)(267~324)が注釈を著したことがあったが、これが中国人に注目せられるようになったのは14世紀中頃以降の明や清の時代になってからである。
我が国においては、日本最古の勅撰による漢籍目録である『日本国見(げん)在(ざい)書(しょ)目録』(藤(ふじ)原(わら)佐(のすけ)世(よ)、寛平3・891年ころ)にその名があげられているから、少なくとも九世紀には輸入されていたと考えられる。ただし、日本においても江戸時代までは、それほど大きな影響は与えなかったらしい。
ところで、『山海経』「西山経次三経」には次のような記録があって注目される。
みつ山より鍾山まで四六〇里(約184キロ)ある。その間はことごとく沢(湿地)であって、そこには奇鳥・怪獣・奇魚が多く棲んでおり、それらはみんな普通とは違っている。
【■(みつ=山に大に土)山より鍾山に至るまで、四百六十里、その間尽く沢なり。是れ奇鳥・怪獣・奇魚多し。皆異物なり(現漢文)】
ここでは、奇鳥や怪魚とともに怪獣があげられているから、その意味するところは、主として陸上で生活する獣類をいうものであったことが知られる。それは、先にあげた「南山次一経」の記述から見てもほぼ誤りではないであろう。では「怪」とはどのようにとらえられていたのであろうか。郭璞の注釈『山海経伝』はこれについて
おおよそ怪というのは、みな姿かたちがかわっていて普通ではないことをいう。
【凡そ怪と言ふは、皆貌状倔奇にして常ならざるを謂ふなり。(現漢文)】
と記している。してみれば、怪獣とは「姿かたちがかわっていて普通ではないその意味で不思議な陸上獣類」を指す言葉となる。ちなみに諸橋轍次『大漢和辞典』における「怪獣」の項目では「不思議な形をしたけもの。奇獣」と記され、用例として先に示した「南山次一経」の文および右の郭璞の注をあげる。
また郭璞は、
『尸子(シシ)』(中国戦国時代・前403~前221の思想書、尸皎(しこう)著)にある。
徐の偃王(えんおう)は怪を好み、深い水の中に入っては怪魚を捕り、深山に分け入っては怪獣を得て、多くを庭にならべた。
【『尸子』に曰く、「徐の偃王怪を好み、深水に没して怪魚を得、深山に入りて怪獣を得たるは、多く庭に列ぬ」と。(現漢文)】
とも記しているから、怪獣は深山において発見されるものとの認識があったことがわかる。
(3)斎藤純「妖怪と怪獣」。(常光徹編『妖怪変化』筑摩査房、一九九九)。
(4)『山海経』の引用は、前野直彬著『山海経-列仙伝』(『全釈漢文大系』33、集英社、1975)による。
(5)伊藤清司著『中国の神獣・悪鬼たち 山海経の世界』(増補改訂版。東方書院、2013)6頁。
(6)前掲(5)7頁。