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40年代に結成されたThe Royal Sons Quintetが母体となった。51年の遅くにApolloはウィンストン・セーラム(北カリフォルニア)ですでに有名となっていたゴスペルグループThe Royal Sons Quintetとの調印を発表した。これがこのグループの出発点となった。当初はゴスペルアーティストとしてレコーディング行なう予定だったが、移籍を機に間もなくR&Bへと転向を決意した。ApolloからのデビューシングルToo much of a little bitもR&Bナンバーであった。メンバーは、Lowman Pauling(ギタリスト・作曲)・ Clarence Pauling(Lowman Paulingの兄弟)・Otto Jeffreys・Johnny Tanner・William Samuelsの5人。2枚目のシングルCourage to loveがワシントン・リッチモンドで好評を得た。10月の終わりにCome over here・Let nothing separate meというゴスペルもリリースした。同月、グループの故郷ウィンストンで、Apolloが主催する大きな祝典が行われている。12月、ApolloはCharlie Ferguson Orchestraとの共演盤Baby don't do it・Take all of meをリリースし、オンエアの波に乗りセールスも好調であった。このシングルのリリース後、メンバー交代が幾度かあり、52年にはJohnny Tanner・Jimmy Moore・Obadiah Carter(~94.07.?)・Eugene Tanner(36~94.12.24)・Lowman Paulingとなっている。彼等はゴスペルの力強さとステージングのセンスの良さが好評となり、The DominoesやThe Cloversと比べても決してひけを取らないほどの影響力を持った。この頃にグループはR&Bマーケットに専念するためにThe Five Royalsと改名している。一方デトロイトではThe Royalesというグループが混乱を避けるためにThe Midnightersへと改名した。The Five Royalesは南部に向けてのツアーにRoy Brownとともに参加した。52年3月、Baby don't do itは全米でヒットし、Annisteen Allen(Kingに在籍)のアンサーソングBaby I'm doin' itも人気を得た。The Five Royalesはオハイオ州一帯で連日の公演に出演した。4月にはHelp me somebodyをリリース、瞬く間に全米で売れはじめた。6月にはこのシングルの両面は全米トップ10R&Bセールスに輝き、Apolloでの最大ヒット曲となった。グループはこの頃から、グループ自身の管理、特にブッキングビジネスを手掛けようと準備を始め、この事業も順調に運んでいたが、The Five Royalesとともにツアーに同行していたCharlie Fergusonバンドのメンバーが交通事故に巻き込まれ、Charlie Fergusonは重症、そしてバンドメンバーの一人が死亡という事態になった。バンドメンバーの交代要員を見つけるまではこのツアーも中止せざるをえなかった。この夏にはToo much lovin・Laundromat bluesをリリースした。この頃にApolloは、KingのリリースしたBaby don't do itへのアンサーソングに対し、メロディーの盗作であると訴訟を起こしている。Laundromat bluesもグループにとって3番目のセールスを記録した。年末には、All rightyをリリース、このシングルはシカゴで大ヒットとなった。同月にはGood things・I doもリリースし、特に南部で順調なセールスとなった。53年のHelp me somebody・Crazy crazy crazyが5週の間ナンバー1という記録をつくった。53年4月にCry some moreのリリースののち、6月からの1ケ月間をTab Smith主催の公演に参加し、各地でワンナイトショウを行っている。7月にはLet me come backをリリース後、グループはApolloからKingへ移籍した。King移籍直後にApolloはグループとの契約の有効性を主張し、この問題を解決するために法廷の場で争うことになった。間もなくThe Five Royalesの最初のKingからのBehave yourselfがリリースされるが、法廷がApolloの主張を認めたことにより発売中止命令が出された。10月には再びTab Smithのショーに参加し、西海岸のツアーに出発し、10月下旬にはタルサ(オクラホマ州)に到着し、3組のグループとともに出演。The Midnighters・Todd Rhodes Bandと共演している。しかし11月にKingは再びThe Five RoyalesのMonkey hips and riceをリリース、年明けの54年1月にはOne mistakeもリリースしたが、売れ行きは不調。続くMohawk squaw・When I get like thisも同様の結果であった。これらの失敗の真中、Apolloは6 O'clock in the morning・With all your heartを54年末前にリリースしている。The Five Royalesの出演するTab Smithショウのツアーはカリフォルニアで幕を閉じた。間もなく次のツアーが開始、南部一帯でもショウにJimmy Coe Bandとともに8月からスタートした。KingからWoman about to make me go crazyがリリースされたが、このシングルも不成功となった。9月になってLowman Paulingは、Apolloに対し著作料の未払いについて訴訟を起こしている。Apolloはすでに50万枚以上のシングルを売りさばいていたのである。10月、Someone made me for youのリリースに伴い、Roy BrownとともにAkron Armory(オハイオ州)での公演を開始する。56年1月にはRight around the cornerをリリース、3月から4月にかけて南部やミッドウエストでのRock 'n' Roll Cavalcadeというショウに参加した。出演者はLittle Willie John・Roy Brown・Camille Howard・Joe Tex・Linda Hopkins・Jimmy Coe's orchestraらで、ほとんどがベテランR&Bソロシンガーというのも興味深いことである。公演の行われた3月にI could love youがリリースされている。6月にはJimmy Coeとともに改築されたPla-Mor Ballroom(クリーブランド)に出演している。KingからはさらにCome on and save me・Just as I amの2枚をリリースした。57年、すでにアメリカでは音楽が徐々に変化を起こしていた。ElvisのロカビリーサウンドやR&Bクラシックはすでに古いものとなり、ティーンエイジアイドルによるポップスが受け入れられはじめていたのである。しかしThe Five RoyalesのTears of joyがチャートインし、続くThinkはグループにとって最初のポップスチャートインとなるヒットになった。しかしThe Five Royalesの栄光もこれまでであった。グループはその後も60年代までKingからリリースを行ない41枚のシングルを残した。後期には大きなヒットを出す事もなく、Vee Jay・ABC・Toddといったレーベルを転々とする。グループ最大のヒットは、57年のLowman Paulingの書いたDedicated to the one I loveで、のちにThe ShirellesやThe Mamas and Papasがカバーして再びヒットとなっている。なおこのシングルは61年に再発されている。Clarence PaulingはClarence Paulと改名し、Motownへ入社し、Marvin GayeやStevie Wonderを世に送りだした。