12月生まれの偉人伝

この日生まれた偉人
1日 沢庵 宗彭(1573〜1645)臨済宗の僧侶

江戸初期但馬(兵庫県)の出石に生まれる。
10歳で出家し京都の大徳寺で修行し35歳で第一座となり、又、堺の南宗寺の住持(じゅうじ)を兼ねた。1629年紫衣勅許(しえちょっきょ)事件(紫衣停止の幕府の命令にそむく)で上ノ山(山形県)に流される。1632年許され家光の帰依をうけ、品川の万松山東海寺を与えられる。
詩歌、書道、茶道に通じ、後水尾天皇の信任も深かった。
著書「不動智神妙録」「太阿記」(剣と禅が一致した境地を説き、柳生宗徳に示したといわれる)和歌集「東海百首」等
2日 スーラ(1859〜1891) フランス 画家

パリに生まれ、ドラクロアの日記や絵を研究する。1833年点描法による「水浴」が話題になり、86年ごろ新印象派を創始するが、「芸術とは調和である」という言葉を残し、31歳の若さでなくなった。
3日 永井荷風(1879〜1959) 小説家

本名壮吉。別号は断腸亭主人。アメリカ、フランスへ遊学し、帰国後「あめりか物語」「ふらんす物語」を発表するなどして流行作家となる。その後,慶大教授となり「三田文学」を主宰した。代表作に「腕くらべ」「墨東綺譚」などがあり、戦後は「踊り子」「勲章」などで退廃した風俗を描きながら、文明批評家と、詩人としての鋭さを見せていましたが、私生活、文壇でも孤独な存在でした。昭和27年には文化勲章を受章しています。
種田山頭火(たねだ さんとうか)(本名 種田正一)(1882〜1940)流浪の俳人
4日 リルケ(1875-1926)ドイツの詩人・小説家

新ロマン派風の詩で出発したが,ロシア旅行を契機に独自の詩境を開拓した。1902年からパリでロダンに師事。存在の悩み、苦しみを正面からとらえ、その問題をかかえつづけた。代表作は詩集「ドゥイノの悲歌」、小説「マルテの手記」など。薔薇の棘で指を傷つけたことから急性白血病になり、51歳で死去しました。
カーライル(1795〜1881)イギリス 思想家・歴史家

ゲーテらのドイツ-ロマン主義文学に傾倒、自由放任主義や功利主義を批判。ドイツ観念論とロマン主義の傾向が強かった。著書に社会の混迷を正義と力で救う英雄の出現を説く「英雄待望論」、肉体や自然は目に見えない神や霊魂の衣裳であると説く「衣裳哲学」又、彼を歴史家と位置付けた「フランス革命史」「フリードリヒ2世伝」等もある.
5日 ウォルト・ディズニー(1901〜1966)アメリカ 映画制作者

シカゴ生まれ、ハイスクール時代から、商業美術をめざし卒業後、広告社の画工、図案家を経て映画界へ入る。1928年ウォルト・ディズニー映画製作所を創立。ミッキーマウス、ドナルドダック等の本格的漫画映画で人気を得る。1932年着色漫画「森の朝」でアカデミー賞、1937年画期的長編動画映画「白雪姫」、引き続き「ピノキオ」「バンビ」「ファンタジア」等の長編作を発表。漫画映画の第一人者となる。又、自然科学映画「砂漠は生きている」劇映画「海底二万マイル」等を製作。1955年ロサンゼルス近郊に大児童遊園地ディズニーランドを設立した。
6日 仁科芳雄(にしなよしお)1890-1951 大正・昭和時代の物理学者

ヨーロッパに留学、ラザフォード、ボーアなどに学び、帰国後原子核の理論的研究および宇宙線の実験的研究を指導し、また日本最初のサイクロトロンを建設した。研究室から湯川秀樹、朝永振一郎などの優れた学者を生み、日本の理論および実験物理学の育ての親、現代物理学の父と呼ばれた。
7日 西郷隆盛(1827〜1877)薩摩藩(鹿児島県)出身 維新の三傑

藩の聖堂で勉強に励み、藩主の島津斉彬に用いられ、江戸に出て活躍、安政の大獄では大島・沖永良部島に流されたが1863年許され1866年薩摩の長州との連合をはかり倒幕を推進し、東征軍参謀として平和のうちに江戸城を開場、明治新政府の参議陸軍大臣となる。征韓論を主張したが破れ鹿児島に私学校を建てて青年の教育にあたる。1877年西南戦争を起こしたが敗れ城山に自刃した。
与謝野晶子(1878〜1942)明治・大正時代の女流歌人
8日 津田梅子(1864〜1929)教育者

1871年(明治4年)日本最初の女子留学生5人の中の最年少として8歳で渡米、11年の勉強の後帰国。華族女学校、東京女子高等学校教授になった。7年後再び渡米、女子教育制度などを研究等1900年(明治33年)帰国し女子英学塾(のちの津田塾大学)を設立。
英語教育を特色とする個性尊重の教育により、女子教育の発展に力を尽くす。
シベリウス(1865〜1957)フィンランド 作曲家

ヘルシンキ大学の法科に学んだが、まもなくヘルシンキ音楽院に転じる(ここでピアノ教師をしていたブゾーニと知り合う)1889年音楽院を卒業後ベルリンとウィーンに留学。帰国してから本格的に作曲活動に入り熱烈な国民主義の立場で作曲するようになる。初期の作品は「フィンランディア」に代表されるように非常に民族色が濃いが少しずつ洗練された絶対音楽へと移っていった。しかし、あくまでフィンランドの民族性に基づき、これを大形式にまとめ新しい個性的な表現にまで達している。
9日 ミルトン(1608〜1674)イギリス 詩人

富裕な家に生まれ、父の影響で敬虔な清教徒になる。ケンブリッジ大学在学中から古典研究と詩作にふけり高潔な思想と韻律に満ちた詩集により認められた。当時イギリスでは、王党派が市民階級や清教徒を弾圧し内紛状態が続いており、1644年清教徒革命でクロムウェルを支持し戦うが、後追放され盲目となる。失意のどん底と盲目にあえぎながら不屈の闘魂を持って、イギリス文学史上最高の傑作と言われる叙事詩「失楽園」を書く、シェークスピアと並び称されるイギリスの大詩人。主要作品「復楽園」「闘士サムソン」等の詩。
10日 メシアン(1908〜1992)フランスの作曲家

パリ音楽院で学び、初期の作品から独自の音組織を用いて作曲。1935年オルガン曲を境にして革新的なリズム技法をとる。1952年〜1963年に作られた一連の作品に鳥の歌を主要素材として用い注目を集める。カトリックの深い信仰に立ち作品には神秘性、官能的な傾向がうかがわれる。
主要作品 フルートとピアノのための「黒つぐみ」管弦楽のための「鳥の目ざめ」ピアノのための「みどりごイエスにそそぐ20のまなざし」トゥランガリラ交響曲
11日 コッホ(1843〜1910)ドイツ 医者・細菌学者

鉱山技師の子に生まれ、ゲッチンゲン大学卒業後、町医者をしながら顕微鏡で炭疽病の純粋培養に成功し、1882年結核菌を発見、1883年にはインドにてコレラ菌を発見、ベルリン大学教授となり、90年に結核の治療薬ツベルクリンを創製する。その後、伝染病研究所(のちのコッホ研究所)初代所長となり、マラリア、眠り病等の伝染病の研究を行い、又、多くの医学者を育てた、北里柴三郎はは直弟子である。1905年ノーベル医学賞をうけた。
ヘクトル・ベルリオーズ (Hector Berlioz) 1803〜1869 フランスの作曲家
12日 福沢諭吉(1835〜1901)明治時代の啓蒙思想家・教育者

豊前(大分県)中津藩の下級武士として大阪で生まれ、中津で育つ。
長崎に出て蘭学を学び、1855年(安政2年)大阪の緒方洪庵の適塾にて弟子になる。1858年江戸に蘭学塾(後の慶応大学)を開き、独学で英語を学び、幕府の翻訳官となり、1860年咸臨丸に乗って、アメリカに渡りその後もたびたび欧米に渡る。
1868年、塾を慶応義塾と改名し、明治維新後は一民間人として言論と教育による人材の養成につとめる。西洋文明の移入紹介、個人国家の独立自尊等近代精神を唱え、封建教育・封建道徳の打破に尽くす。
著書に「人は人の上に人を作らず〜」という有名な句で始まる「学問のすすめ」「西洋事情」「文名論之概略」等がある。
ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert)1821〜1880フランスの小説家
13日 ハインリヒ・ハイネ(1797〜1856)ドイツ・詩人

ライン川のほとりのデュッセルドルフで貧しいユダヤ人の子に生まれる。伯父の援助でボン大学に入り法律を学び、弁護士を志したが、ユダヤ人であるため果たせなかった。しかし、在学中から文学に惹かれ、1826年ハルツ地方の旅の印象をつづった「ハルツ紀行」を発表して有名になる。
1827年「歌の本」で抒情詩人としての地位を確立。しかし、ドイツでは、ユダヤ人であるため、絶えず迫害を受け、自由主義的な社会詩人との立場で政府を批判、追放されパリに亡命する。
パリではマルクスをはじめ政治家、芸術家と交わり、革命思想をいだき、詩風も社会主義的傾向をもつようになった。
作品は他に「ドイツ冬物語」「パリ通信」等がある。
田山花袋(たやまかたい)(本名 田山録弥)(1871〜1930)明治、大正期の小説家
14日 ティコ・ブラーエ(1546〜1601)デンマーク・天文学者

大貴族の家に生まれ、政治家になるためにコペンハーゲンライプチッヒの大学に進学したが、部分日食を体験し天文学に強い関心を持った。
1576年天文台を作り観測機器を改良し、天体の詳しい位置を観測した。1577年カシオペア座のやや北西で地球に近づいた彗星の距離を測定し、彗星が天体であることを示した。観測の精度を上げるために、大型の装置を作成し、フレデリック2世の信頼を得てベン島に観測所を作り20年間精密な天体観測を行う。観測記録は彼の死後、助手であったケプラーに譲り渡され、ケプラーの法則発見へと発展する。
15日 ベクレル(1852〜1908)フランス・物理学者

パリに生まれ1872年にパリ理工科大学に入学、国立土木学校に進み1877年土木技師となる。1892年国立博物館教授、1895年理工科大学を歴任する。
1896年X線と蛍光の関係を調べている調べているとき、偶然硫酸ウラン塩が写真乾板を感光させることから、放射能を発見した。放射能の強度はウランの絶対量に比例していることを調べた。アルファ線のビームをアルミ箔に当てると進路が広がることを見いだした。ファラデー効果、燐光、赤外線スペクトルの研究がある。アルファ線の実験はラザフォードのアルファ線散乱実験実験の契機となる。又、ベクレルの研究所はキュリー夫妻に受け継がれる。
1903年ノーベル物理学受賞。
放射能の壊変強度を表すSI単位に彼の名前が用いられている。(1ベクトルは、放射性核種が一秒間に一つの割合で崩壊する放射能)
アレクサンドル・ギュスターブ・エッフェル(Alexandre Gustave Eiffel)
(1832〜1923)「鉄の魔術師」構造エンジニア、エッフェル塔の設計者
16日 尾崎紅葉(おざきこうよう)本名 徳太郎(1867-1903)明治時代の作家

硯友社をおこして「我楽多文庫」を創刊。泉鏡花、徳田秋声ら多くの門弟を出した。代表作「二人比丘尼色懺悔」「三人妻」「多情多恨」「金色夜叉」など。明治36年、37歳での若さで胃癌で亡くなった。3年以上も新聞に連載され、人気を集めていた「金色夜叉」は、彼の死によって未完となる。
マーガレット.ミード (1901〜1978)アメリカ 女性文化人類学者

フィラデルフィア生まれ、バーナード大学を卒業し、コロンビア大学でボアズに師事し、1929年博士号を取得する。1960年アメリカ人類学会会長を務め1962年アメリカ自然博物館を経て、1969年フォーダム大学人類学教授となる。サモア等オセアニアの諸島で、エネルギッシュな現地調査を行い、人類学者としての地位を確立する。又、現代アメリカ人類学を特色づける。
「文化とパーソナリティー」分野の研究でも先駆的役割を果たす。著書「サモアの思春期」等。
17日 ベートーベン(1770〜1827)ドイツ 作曲家

ボンで生まれ、貧しい宮廷歌手であった祖父や父の影響を受け、幼い頃から作曲とピアノを学び、14才で宮廷のオルガン奏者となった。1790年頃からウィーンに出て、モーツァルトやハイドンに学び、認められ、社交界にも名をあげる。1800年交響曲第一番を作ったが、この頃から耳が、ほとんど聞こえなくなり、32才の夏、悲痛な遺書を書く(ハイリゲンシュタットの遺書)しかし、この不運が不屈の精神を呼びおこし、古典音楽に力強い生命力・人生観・世界観を盛り込み、古典音楽を完成させた。又、ロマン派音楽への道をも開き、西洋音楽史上最大の作曲家といわれるようになった。
・天国では、耳が聞こえるようになっていてほしいな。
・友よ拍手を!喜劇は終わった。
ベートーベン最後の言葉
島木赤彦(しまき あかひこ)(本名 久保田俊彦)(1876〜1926)大正時代の歌人
18日 志賀 潔(1870〜1957)細菌学者

仙台で生まれ、中学卒業後、東京のドイツ学校(私塾)第一高等学校、東京大学医学部を卒業し、伝染病研究所に入り、細菌学、免疫学を研究に励んだ。たまたま東京地方に赤痢が流行し、苦心して1897(明治30)年、赤痢の病原菌を発見した。1901(明治34)年、ドイツに留学し、エールリッヒについて、結核の化学療法を学び、帰国後研究所に戻り、結核、ハンセン氏病の予防、治療法を研究。結核菌生ワクチンを発表した。その後北里研究所の部長、京城大学総長などを歴任する。1944(昭和19)年文化勲章受賞。1957(昭和32年)勲一等瑞宝章受賞
著書 「細菌学を創った人々 〜大発見にまつわるエピソード」「細菌および免疫学」「パウル・エールリッヒ伝」
パウルクレー (1879〜1940)画家
19日 ベルツ(1849〜1913) ドイツ 医師

南ドイツのビーティッヒハイムに生まれる。1872年ライプチヒ大学を卒業、1876(明治9)年、日本政府の招きで来日、東京医学校(今の東京大学)で、生理学教師となり、以後26年間にわたり生理学、内科学、婦人科学を講義し、医学生の教育にあたり、治療も行った。
又、日本人の人類学的、病理学的特徴を研究、脚気や寄生虫についても研究日本医学の発展に尽力した。親日家で日本婦人と結婚し、日本風俗をよく理解したが、当時の日本の社会を批判した「ベルツの日記」は有名。東京帝国大学退職後、宮内省御用掛として、明治天皇やその皇太子の主治医として侍医を務めた。1905(明治38)年、家族を連れて帰国、シュツットガルトに住み余生を人類学研究にあて、熱帯医学会会長、人類学会東洋部長などを務めた。
20日 北里 柴三郎(1852〜1931)医学者 細菌学者

熊本県に生まれ、1871(明治4)年、熊本の医学所に開校と同時に入学し、オランダ人のマンスフェントの下で1874(明治7)年まで勉強する。マンスフェントに「東京には、医科大学がある。東京へ出て大学へ入れ、大学がすんだらヨーロッパで勉強せよ、世界の医学を学んでこそ、一人前の医学者である。」と励まされ、東京医学校(現東京大学医学部)に学び、32才で卒業後ドイツに留学、コッホに師事する。下宿と研究所を往復するだけと言われるほど研究熱心で、1989(明治22)年に破傷風菌の純粋培養に成功、その毒素をとり、それを元に行う血清療法をベーリングと共に発見。これを翌年、発表して世界の医学界を驚かせた。帰国後、伝染病研究所を創立し、後、北里研究所を作り、日本の伝染病研究の土台を築いた。又、ジフテリアの血清療法やペスト菌の発見、結核の研究等にも大きな功績がある。研究所には、志賀潔、秦佐八郎らの世界的細菌学者が集まり「世界の北里研究所」と言われた。
21日 ロバート・ブラウン(1773〜1858)イギリス 植物学者、分類学者

スコットランドのモントローズに生まれエジンバラ大学で、医学と自然科学を学び、1800年にイギリスの博物学者バンクスに勧められ、オーストラリアの沿岸の調査に参加、1805年にオーストラリアの新植物約4000種の標本を持ち帰り、ブラウンの分類系を提出している。1810年司書として、バンクスの蔵書と標本を管理するようになり、1827年それらが大英博物館に移され、その植物標本部門の責任者となる。又、同年、水面に浮かぶ花粉を顕微鏡で観察中にブラウン運動を発見し(花粉の大きさでは運動は起こらないが、花粉が破裂して流れ出した微粒子を観察した。)1831年には、全ての植物に細胞核が存在することを明確にし、カガイモ科とラン科の植物の核を丹念に描き出した。又、裸子植物と被子植物の相違点の発見でも有名。
スターリン(1870〜1953)ソ連 政治家

グルジア人で靴職人の家庭に生まれ、19歳で革命運動に加わり、社会民主党(のちの共産党)に入党、投獄、流刑、脱走を繰り返し、11月革命にレーニンを助け、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の建設に尽くし、1924年レーニンの死後最高指導者となる。一国社会主義を唱え、新経済政策を完遂、国力を増し農業を近代化させた。第2次世界大戦を勝利に導き、又、理論家としても多くの著述を残す。しかし、死後、その独裁ぶりが幹部達から激しい批判をうけた。「スターリン」とは鋼鉄の人の意で、困難を乗り越え社会主義国家の基礎を築いた。
22日 ジャコモ・プッチーニ(1858〜1924)イタリア 作曲家
18歳のときベルディのオペラ「アイーダ」を見て、オペラ作曲家になることを決意する。「妖精ヴィッリ」の台本に曲を作り応募、1884年に初演され大成功となる。その後「マノン・レスコー」「トスカ」等の傑作を作った。1904年長崎に題材をとり、日本の旋律を随所に用いた名作「蝶々夫人」を発表し大好評を得る。
東郷平八郎(とうごう へいはちろう)1847〜1934海軍軍人
23日 アンリ・ファーブル(1823年〜1915年)フランス 昆虫学者

南フランス、サンレオンの貧しい農家に生まれたが、苦学して教師になり、幼少の頃より好きだった昆虫の観察を続け、深い愛情を込めて昆虫を観察し、昆虫の生活、本能、習性を研究、1907年までの間に、優しく美しい文章で、「昆虫記」10巻を書く。90才になるまで野や山で観察を続け、92歳で生涯を閉じた。
リチャード・アークライト(Richard Arkwright)1732〜1792イギリスの紡績機械の発明者
24日 ジュール(1818〜1889)イギリス 物理学者
電流の熱作用について有名なジュールの法則を発見。又、熱の仕事当量を実測、エネルギー保存の法則の基礎となる。気体の温度変化を研究、気体の自由膨張では温度が変わらないことを確認し、ジュール・トムソンの実験を行った。この研究は、その後の冷蔵産業の基礎となった。仕事の単位に用いられている「ジュール」はその名を記念したもの。
25日 モーリス・ユトリロ(1883〜1955)フランス 画家

ユトリロは少年時代から、孤独と酒癖にさいなまれ、中学時代にアルコール中毒で入院し、その対症療法として絵を描き始め、ほとんど独学でパリの街角などを数多く描いた。生活は酒におぼれて、すさんでいたにもかかわらず、同時代の芸術動向とは無縁のまま強い純粋な感覚で独自の画境を確立し大成した。1955年に71年間の生涯を終える。
26日 徳川家康(1542〜1616)

幼名は竹千代、織田氏、今川氏の人質となり苦労し、桶狭間の戦いで今川義元が戦死してから岡崎に帰り独立、信長と組んで各地で戦い、信長の死後は秀吉と対立。秀吉の死後次第に実権を握り、関が原の戦いで石田三成に勝ち征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く、死後「日光東照宮」に神として祭られる。
菊池寛(きくちかん) 本名 寛(ひろし)(1888〜1948)大正、昭和前期の小説家、劇作家
27日 ヨハネス・ケプラー(1571〜1630)ドイツ 天文学者

グラーツ大学で数学と天文学を教える傍ら、暦の編集にあたり「宇宙の神秘」を著す。新教徒迫害のため、グラーツを追われ、1600年プラハでブラーエの助手となり、精密、広範な観測記録を整理、検討し、火星の位置に基ずく「ケプラーの法則」を発見し、ニュートンの万有引力の法則を生み出す元になると共に、地動説の正しさを示した。
ルイ・パスツール(1822〜1895)フランスの化学者、細菌学者、近代微生物学の祖
28日 ウッドロウ・ウィルソン(1856〜1924)アメリカ 政治家 第28代大統領

民主党に推されてニュージャージー州知事となり、進歩的諸改革で注目され、第28代大統領となった、「ニューフリーダム」をかかげ、革新的諸政策を推進。大戦後、ベルサイユ講和条約や国際連盟の創設に努めたが、上院の反対で自国の参加は阻まれた。1919年ノーベル平和賞を受賞。
堀 辰雄(ほり たつお)1904〜1953小説家
29日 野口雨情(1882〜1945)

事業の失敗などで苦労し放浪の生活を送るが、1919年より童謡の詩を児童文芸誌に発表、又、民謡「枯れすすき」は中山晋平の作曲により「船頭小唄」となって一世を風靡し、以後は主に童謡において活躍。北原白秋、西条八十と並び3大童謡、民謡詩人と称されるようになる。代表作には「七つの子」「しゃぼん玉」「証城寺の狸ばやし」等。
30日 ラジャード・キップリング(1865〜1936)イギリス 小説家 詩人

インドのボンベイに生まれ、イギリスで教育を受け、再びインドに戻り、新聞記者となる。その後、数多くの詩や物語を書きましたが、中でも1894年少年読み物である「ジャングルブック」を書いて、愛国的作家として人気を得た。又、1901年「キム」を書き、1907年イギリス人として初めて、ノーベル文学賞を受賞しました。
31日 アンリ・マチス(1869〜1954)フランス 画家

21歳の時に病気で療養中にとった絵筆が大画家へのきっかけとなる。22才の頃から本格的に絵を学び1893年官立美術学校に入りモローに師事。1905年のサロン・ドートンヌに出品した作品は世の注目を集め「野獣派」と呼ばれた。画風は強烈な原色と、形象を単純化することにより率直な表現をしているのが特色。
林芙美子(はやし ふみこ 本名 フミ子)(1903〜1951)昭和前期の小説家

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