12月


17日
ベートーベン(1770〜1827)

「運命はかく扉を叩く」

ドイツの作曲家

ボンで生まれました。父親は選帝侯の宮廷歌手から楽長に就任した音楽家でしたが、音楽的には凡庸な存在だったと言われています。幼くしてその父親から鍵盤楽器のレッスンを強要され、7歳にでケルンでピアノの演奏会を開催しています。

けれども、音楽的に開眼するのは宮廷オルガニストであったネーフェの指導を受けてからで、1782年、13歳にして変奏曲を初出版しています。

14歳で宮廷のオルガン奏者となった彼は、ウィーンに出て、モーツァルトと出会ったり、ハイドンから励ましを受けながら音楽家としての才能を伸ばしていき、そして、1792年、選帝侯から学費を支給されて活躍の場をウィーンに移すのでした。

1800年にはブルク劇場で第1交響曲などを公演して交響曲作家としても評価され、社交界にも名をあげるようになるのですが、この頃から耳が、ほとんど聞こえなくなってしまうのでした。

32才の夏、彼は絶望し悲痛な遺書を書いています(ハイリゲンシュタットの遺書)。この遺書は二人の弟に宛てられたものでしたが、ついに出されることはなく、彼の死後まで秘められていました。

しかし、この不運が不屈の精神を呼びおこし、古典音楽に力強い生命力・人生観・世界観を盛り込み、古典音楽を完成させてゆきました。又、ロマン派音楽への道をも開き、西洋音楽史上最大の作曲家といわれるようになったのでした。

1827年、肝硬変が原因と見られる水腫で腹部からの排水手術を重ねましたが、ウィーンにおいて亡くなりました。56歳でした。
運命
第九交響曲の初演はベートーヴェンが一人で指揮をしましたが、その素晴らしさに観客が興奮、途中から激しい拍手をしたとわれています。しかし耳が聞こえないベートーヴェンはそのことに気が付かず、見かねたアルト歌手のウンガーが手を添えて振り向かせ、ようやく観客の拍手に気づいたといわれています。
月光
ある夕暮れのこと、ベートーヴェンが靴職人の家の前を通ると、誰かが自分の作曲した曲を練習しているのが聞こえました。立ち止まって、それに耳を傾けていると、「誰かちゃんとした音楽家がこの曲をきちんと演奏してくれないかしら」と言う女の人の声が聞こえたのです。ベートーヴェンがその家に入ると、その女の人が盲人だということを知りました。そして、その曲を一時間以上も弾いてあげたのでした。とうに日は暮れて、たった一本のろうそくもほとんど燃え尽きてしまいました。でも、部屋の中には月光がきらめいていました。そして、その情景と、自分の音楽をこよなく愛してくれたその盲人の女性から受け取ったインスピレーションによって、ベートーヴェンは「月光ソナタ」を作曲したといわれています。
ベートーヴェンは即興演奏で得意でした。彼の即興があまりに素晴らしく驚嘆すべきものなので、それを聴いている人たちの目にしばしば涙が溢れ、また大声ですすり泣く者もいたということです。
彼は即興演奏を始めると、我を忘れてピアノを叩き、そのため弦は切れ、ハンマーは壊れたそうです。当時のほとんどのピアニストは、鍵盤の近くに手を保っていたのですが、彼だけはまるで指揮者のように腕を高く振り上げて演奏していました。演奏を始めた最初の和音で、いきなり6本もの弦を切ったこともあったそうです。
また、彼の譜めくりを務めたライヒャは「ベートーヴェンは私に譜めくりを頼んだ。しかし私はピアノの切れた弦をねじり取るのに忙殺されてしまった。というのはハンマーが、切れた弦の間をぬって打つためだった。ベートーヴェンはその協奏曲をあくまで弾き終えようとした。そこで私は前へ後ろへと飛び回り、弦を引っ張り出し、ハンマーをもつれから解き、また譜めくりをした。というわけで私は奏者であるベートーヴェンよりも、もっと動かなくてはならなかった」と感想を述べているそうです。
これは、インターネットで見つけた話ですが、交響曲という音楽形式を考案したハイドンは77年の生涯に108個の交響曲を書き、次の世代のモーツァルトはその半分の35年の生涯に41個の交響曲を書いています。

ところがその次の、交響曲を完成させたといわれるベートーヴェンは56年の生涯にわずか9個しか交響曲しか書いていません。ベートーヴェンは一応第10交響曲の構想もあり、それも合唱付きになるはずだったそうですが実現しないまま亡くなってしまいました。このときの彼の無念が残っていたのか、不思議なことが起こり始めるのです。

シューベルトは8個の交響曲を書いた後、最高傑作の「未完成交響曲」をまだ第三楽章までしか書いていない内に尊敬するベートーヴェンの死の知らせを聞いたショックでわずか31歳で死んでしまいます。

そして、「交響曲9番新世界より」を書き上げたドボルザークもそのまま次の交響曲を書かないまま亡くなるのです。

交響曲9番を書くと死ぬという噂が広がり、そして、その噂を恐れたマーラーは、9番目の交響曲を書き上げた時、交響曲に番号を付けず「大地の歌」というタイトルにしました。

死ぬ気配がないので、安心して次の第10交響曲にとりかかった彼は、第10交響曲を書いている途中で亡くなってしまうのでした。(現在のマーラーの交響曲10番は彼の遺稿を再編して演奏されているそうです。)

このジンクスは、現代のショスタコビッチまで破られなかったということです。彼は68年の生涯に15個の交響曲を完成させています。

12月


17日
島木赤彦(しまき あかひこ)(本名 久保田俊彦)

(1876〜1926)

大正時代の歌人

長野県上諏訪で生まれました。成長して長野師範学校に入り、太田水穂と詩歌に親しんでいました

長野県師範学校を卒業してからは16年間小学校の先生を務めながら短歌を作っていましたが、大正3年に東京に出て、伊藤左千夫について短歌を学んで作家生活に入りました。

その後、伊藤左千夫、長塚節が亡くなった後「アララギ」の編集にあたり、斎藤茂吉とともに短歌における写生を強調し、赤彦調といわれる風格の高い歌を作り、大正期の歌壇を支配しました。

彼は、万葉長を重んじ、写生を説いて、短歌の創作を人間の鍛錬と考えていたといわれています。

しかし、48歳ころから神経痛と胃痛に苦しめられ、養生していましたが、胃ガンが肝臓に転移しており、大正15年3月27日、斎藤茂吉ら40余人にみとられて亡くなりました。50歳でした。

  信濃路は いつ春にならむ 夕づく 日入りてしまらく 黄なる空のいろ
  雪ふかき 街に日照ればきはやかに 店ぬち暗くこもる人見ゆ
  湖の氷は とけてなほさむし 三日月の影 波にうつろふ
  夕焼雲 焦げきはまれる 下にして 氷らんとする 湖の静けさ
  信濃路に  帰り来りてうれしけれ 黄に透りたる 漬菜の色は


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