12月


1日
沢庵 宗彭(たくあん そうほう)

(1573〜1645)

心さえ潔白であれば身の苦しみは何ともない。

臨済宗の僧侶

江戸初期但馬(兵庫県)の出石)の武士の家柄に生まれました。10歳で出家し14歳で宗鏡寺に入り、ついで大徳寺派の董甫宗仲らの教えを受けました。特に董甫宗仲との出会いが、権力に迎合しない彼の生涯を決定したといわれています。

1607年には若くして大徳寺の首座に選ばれますが、「空理空論に走る大徳寺の仏法は今の世に用に立ち申さず」といってわずか3日で堺に帰ってしまっています。

その後も現世を離れて修行することを希望した彼は、豊臣秀頼など多くの大名からの招きを受けることなく、故郷出石の藩主小出吉英の援助で宗鏡寺を再興し、その裏山に小さな庵を建て、隠遁生活をおくっていました。

しかし、この間に天下は豊臣から徳川の手に移り、徳川幕府は宗教界の統制を強化し、彼も1629年紫衣勅許事件(紫衣停止の幕府の命令にそむく)で幕府の怒りを買い出石から遠く出羽国(今の山形県)へ流罪になります。

5年後ゆるされて故郷に戻った彼は、更に3年後、時の将軍徳川家光の招きに応じて江戸に下りました。詩歌、書画、茶道、武道の知識が深く、人柄も優れていた沢庵に将軍はとても感動し、品川に東海寺を建てて沢庵に住んでもらっています。その後彼がなくなるまでの七年間に家光は、将軍という忙しい立場でしたが、75回も東海寺を訪れて沢庵の教えを受けにいったそうです。

清貧を喜び、権力に屈することなく劇的な生涯を送った彼は1645年、東海寺で大往生を遂げました。時に七十三歳でした。その死に際し、侍僧に乞われて筆をとった沢庵は、「夢」 の一字を書いた後、筆を擲って絶命したといわれています。
「紫衣(しえ)事件」
高僧が身につける紫色の法衣や袈裟は、もともとは朝廷が与えるものでした。しかし幕府は1615年の「禁中並公家諸法度」などで、紫衣や上人の号をみだりに授けることを戒めました。そして1627年(寛永4)、ついに幕府は朝廷が出した紫衣の勅許を無効とする決定を下したのです。

翌年これに対して、大徳寺の沢庵、玉室、江月らは、痛烈な批判を含む抗議書を提出します。それにたいして幕府で重く用いられ、「禁中並公家諸法度」などの起草を行った臨済宗の僧、金地院崇伝はこれに不快感を示し、沢庵らを厳罰に処すよう主張したのでした。

他方で、天台宗の僧で二代将軍秀忠、三代将軍家光が帰依し、寛永寺を創したことでも知られる天海和尚は、沢庵達の権力を恐れぬ抵抗を高く評価したと言われましたが、結局、崇伝の主張通り、江月以外は流罪に処せられることになってしまいました。沢庵は1629年,出羽の上山に流されました。

さらにこの事件は,幕府の介入に怒った後水尾天皇が退位し,7歳の女一宮への譲位にまで発展する。
そんな幕府の囚人となった沢庵を、配流先の上山で丁重に迎え、厚遇したのが、時の藩主・土岐頼行その人であった。
頼行は着封後、まだ日も浅く多忙な身であったが、崇敬している沢庵のために小さくも豪華な一庵を建立。沢庵は春雨にけむる閑静な庵をこよなく愛し、「春雨庵」と名づけた。また頼行は歌人としての沢庵を慰めるために、領内はもちろん、山形領をはじめ松島まで歌枕をたずねる遊覧の旅を取り計らったりもした。何これと気遣ってくれるために、何不自由のない日々であった。まさに悠々自適たる生活だったのである。

沢庵は藩政への教導を乞う頼行の意にこたえ、「上中下三字の説」という政治の要諦を説いた一文を贈った。これは上(=主君)中(=家臣)下(=領民)相通ずるの心をむねとして政治を行うべきことを諭したものである。

頼行は以降、この教えを座右の銘として藩政に当たった。そして実に、沢庵の教えを施政の上に実行すること五十年に及んだ。領民もよく心服して一揆などもなく、上山城主歴代の藩政における黄金時代とも称されるほどの顕著な治績を挙げたのである。
あるとき品川東海寺を訪ねた徳川家光に、沢庵宗彭が「禅刹何も珍物これなく、たくあえ漬香の物あり」と当時でいう「貯え漬」を献上すると、「貯え漬にてはなし。沢庵漬けなり」との家光の上意。これがきっかけで「貯え漬」が「沢庵漬」と呼ばれるようになったそうです。
武蔵(たけぞう)に宮本 武蔵(むさし)と名づけた「沢庵和尚」、しかし、二人共同じ時代を生きてはいたのですが、実際は武蔵と沢庵が出会ってたと言う資料は一切残っていないそうです。
しかし武蔵と沢庵の不思議な縁を象徴するかのように、1645年、武蔵は突然の病を得、江戸で死の床についていた沢庵は時を同じくして逝ったということです。


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