井伊直親(いい なおちか) 1535〜1562
○亀之丞 肥後守
◇父:井伊直満 養父:井伊信濃守直盛 室:奥山因幡守親朝女 子:
井伊直政
 井伊氏は南北朝期より活躍した遠江の豪族。井伊谷城主。駿河・今川氏譜代の臣。しかし養父は戦死、父は謀反との讒言で当主義元に殺されている。その為直親も一時身を隠すが、義元戦死後、当主氏真に仕えた。しかし、家老小野但馬の讒言により尾張・織田氏内通の嫌疑を受け、釈明に赴く途上、氏真の命を受けた朝比奈泰朝の軍勢に討たれた。
井伊直政(いい なおまさ) 1561〜1602 
○虎松 万千代 兵部少輔 侍従
◇父:
井伊直親 室:徳川家康養女(松平康親女) 子:井伊直勝(直継)、掃部頭直孝
 父の死後、難を逃れて隠れ住んでいたが、やがて三河・松平元康に近侍する。相模・北条氏との和平交渉の功にて、滅亡した甲斐・武田旧臣を配下に加えて甲州流軍式を取り入れ、赤の軍装で統一、“井伊の赤備え”“井伊の赤鬼”と呼ばれる。長久手の合戦には先鋒として参加し活躍。関ヶ原の合戦においても活躍するが、この時の戦傷が元で亡くなった。徳川四天王の1人。
伊賀久隆(いが ひさたか) ????〜1578
○左衛門尉
◇室:宇喜多興家女 子:伊賀与三郎家久
 備前・虎倉城主。備前守護代・松田氏に従う有力国衆であったが、やがて備前・宇喜多直家に従って松田氏を倒す。諸戦に活躍したが、直家に毛利との内通を疑われ毒殺されたといわれる。

飯川光誠(いがわ みつのぶ) ????〜????
○大炊助 主計助 若狭守
◇父:飯川肥前守義宗? 子:笠松但馬守?
 元能登守護吉見氏守護代の家柄。能登・畠山氏臣。遊佐氏失脚後は畠山7人衆の一人となり、合議に参加もしている。当主
義綱の全面的信頼を得ており、光誠も当主に反感を抱く家臣が多い中、義綱の為に尽くす。義綱が追放されると、これに従い、能登奪還に尽力した。
池田秀雄(いけだ ひでお) 1528〜1598
○孫次郎 景雄 伊予守
◇子:池田伊予守秀氏
 近江・六角氏臣。しかし尾張・織田氏の侵攻に伴い、これに従う。本能寺の変では明智光秀に味方し戦うも敗戦。その後秀吉に仕え、伊予・国分城8万石を得た。慶長の役にて、朝鮮において病死。

石川昭光(いしかわ あきみつ) 1550〜1622 
○次郎 大和守
◇父:
伊達晴宗 養父:石川修理大夫晴光 子:石川遠江守義宗
 出羽・伊達氏一族だが、石川氏に入嗣する。須賀川城主、松山城主。初め実家伊達氏と敵対するが、1589年政宗の傘下に入る。翌年、羽柴秀吉の小田原征伐に遅参したことから、領地を没収され、伊達氏に仕えた。子義宗に家督を譲り隠居するが、先立たれ、再び政務を執る。大坂の陣では道明寺口の戦いで活躍し、老いても首級5を得る奮闘を見せた。
石川高信(いしかわ たかのぶ) ????〜1581? 
○南部氏 左衛門尉
◇父:南部政康 室:一方井安正(定宗)女 子:南部信直、政信
 陸奥・南部氏一族の重鎮として活躍する。文武に優れ、津軽郡代として石川城主となり、その支配を確立した。しかし、1571年
大浦(津軽)為信の急襲を受け籠城、寡兵敵せず落城した。この時亡くなったとも、1581年病死したともいわれる。
石巻康敬(いしまき やすまさ) 1534〜1613
○左馬允 康昌 下野守
◇父:石巻下総守康信 室:内田氏女 子:石巻康貞
 相模・北条氏の評定衆を務める。三河の人。当主氏直が豊臣秀吉の要求要請を反故にした為、弁明に上洛するが却って捕らえられた。北条氏滅亡後、徳川氏に仕えた。

伊集院忠棟(いじゅういん ただむね) ????〜1599 
○源太 掃部助 忠金 右衛門大夫 幸侃
◇父:伊集院大和守忠倉 子:伊集院源次郎忠真
 薩摩・島津氏家臣。豊臣秀吉の九州出征の時あたりから秀吉に近づくようになり、後に肝属郡に8万石を得た。しかし、主家をないがしろにする振る舞いが見られた為、秀吉死後、当主忠恒と不和になり誅殺される。その後、伊集院の一統が島津に反乱を起こすが鎮圧された(庄内の乱)。

伊集院久宣(いじゅういん ひさのぶ) ????〜1587
○美作守
◇父:伊集院忠胤 子:伊集院忠許
 薩摩・島津氏家臣。各地を転戦し武功を重ねるが、豊臣秀吉の九州侵攻を前に退却中、豊後・大友軍の攻撃を受け戦死。

出羽元倶(いずは もととも) 1555〜1571
○毛利氏 鶴法師丸 孫四郎
◇父:
毛利元就 養父:出羽元祐
 安芸・毛利元就六男。石見・出羽元祐の養子となり出羽氏を名乗る。早世。
伊勢長氏(いせ ながうじ) 1432?〜1519 
○新九郎 盛時 氏茂 早雲 宗瑞
◇父:伊勢貞定(盛定)?貞藤? 室:小笠原備前守政清女、葛山備中守維貞女 弟:伊勢弥次郎 子:
北条氏綱、左馬助氏時、葛山中務少輔氏広、北条長綱
 その出自については諸説あり確かではないが、室町幕府政所執事伊勢氏に関する一族と考えられる。応仁の乱の時は足利義視 の下にあった。妹が駿河・今川義忠室となったことから駿河に下向し、義忠死後の家督争いを治める。又、幕府の申次衆を務めた。やがて内乱の続く関東方面に進出していき、関東管領上杉氏らと争いを繰り返した。1495年大森藤頼の相模・小田原城を攻略。1516年伊豆・三浦義同を討った。後代に「早雲寺殿21箇条」を伝える。尚、後北条氏の祖とされるが、長氏自身は北条氏を名乗っていない。
磯野員昌(いその かずまさ) ????〜???? 
○丹波守
◇父:磯野平八郎員宗 子:磯野右近行信 養子:織田(津田)信澄
 北近江・浅井氏家臣。磯野氏は元は近江守護京極氏の被官であり、浅井氏が京極氏から離反した後も京極氏を守っていたが、員詮の時、浅井氏に抵抗する有力被官浅見氏に与して敗れ、
浅井亮政の軍門に下った。員昌は浅井長政の有力武将として多くの戦いに参戦、姉川の戦いでは先陣を務め、倍する尾張・織田氏の軍、13段の構えの内11段まで打ち破る猛攻を見せた。しかし、姉川の戦いでは浅井氏が敗れ、居城佐和山城に引き揚げた。その後、諜略により内通を疑われて人質を殺されたことから、織田方に降伏した。織田氏の下、近江・新庄城主になるが、1578年突如所領没収され、高野山に逃れた。
板垣信方(いたがき のぶかた) ????〜1548 
○信形 駿河守
◇弟:室住玄蕃充 子:板垣弥次郎信憲、(乾)正信
 甲斐源氏流。甲斐・武田氏臣。当主
晴信(信玄)の傅役だったという。信玄の父信虎追放に協力した。以後、甘利虎泰と共に重鎮として、信玄を助け家中を支える。信玄が一時遊事に耽った際は決死の覚悟で諫めた。軍略にも優れ、後に"龍神三段の構えあり"と評される。しかし、信濃・村上義清との上田原の合戦にて不意をつかれ討死。尚、虎泰も同合戦にて戦死している。尚、2男正信は後に乾氏を名乗って土佐藩に仕え、有名な板垣退助正形はその裔。
板部岡融成(いたべおか とおなり) 1537〜1609 
○田中氏 越中守 江雪斎 岡野氏
◇父:田中泰行?康行? 養父:板部岡康雄 子:岡野房恒
 鎌倉幕府執権北条氏の裔との説有り。江雪斎の名で有名。板部岡康雄の遺領を継ぐ。相模・北条氏の評定衆であり、主に外交面で働いている。甲斐・
武田信玄死去の際には、その真偽確認に甲斐に赴いているが、身代わりとなった信玄の弟信廉を信玄と見間違えて、信玄生存と報告している。豊臣秀吉との折衝も務めたが、北条氏は滅亡。以後岡野に改姓して、秀吉の御咄衆となり、やがては徳川氏に仕えた。茶人としても優れていた。
伊丹康直(いたみ やすなお) 1523〜1596
○千代松 雅勝 康明 秀虎 大隅守
◇父:伊丹雅興 子:伊丹播磨守康勝
 摂津・伊丹城主の子であったが、落城により各地を流浪、やがて今川氏に仕えるといわれるが、真偽は不明。駿河・今川氏の下水軍を統べる。甲斐・武田氏の駿河侵攻にともない、武田氏の船大将となる。武田氏が滅亡すると今度は三河・徳川氏の御船奉行を務めた。

一条兼定(いちじょう かねさだ) 1543〜1585
○万千代 康信 パウロ 左近衛少将 左近衛中将 権中納言
◇父:
一条房基 養父:一条房通 室:宇都宮豊綱女、大友義鎮女 子:一条内政
 土佐国司職。当初は政事、軍事に精を出していたが、やがて放蕩を好み日夜酒宴、遊興にふけるようになった為、家臣らに豊後に追放された。その後、豊後の大友義鎮に兵を借り、伊予から再度土佐へ侵攻を試みたが、失敗した。42歳で病死。
一条内政(いちじょう ただまさ) ????〜1580
○万千代 左近衛中将 三位中将
◇父:
一条兼定 室:長宗我部元親女 子:一条摂津守政親
 土佐・一条氏当主。父追放後、土佐・長宗我部氏に養われる身であったが、波川清宗の謀反に加担した嫌疑を受ける。伊予追放となり、24歳の若さで亡くなるが、一説には元親が毒殺したともいわれる。
一条信龍(いちじょう のぶたつ) ????〜1582 
○武田氏 右衛門大夫
◇父:
武田信玄 子:一条上野介信就
 甲斐・武田氏一族。同じ名族一条氏を継いだ。気骨がある一方で、風雅を解する武将でもあったようだ。長篠の敗戦では、馬場信春と共に、本隊が退くまで戦場に留まった。武田氏滅亡の折には、徳川軍を迎え撃ち戦うが、捕らえられ処刑される。
一条房家(いちじょう ふさいえ) 1475?77?〜1539
○左近衛少将 権大納言
◇父:一条関白教房 室:源惟氏女、日野資冬女、東小路氏女、五辻富仲女 子:一条房冬、房通、東小路教行
 土佐・一条氏2代当主。国人衆に攻められ滅亡した、長宗我部氏の遺児
国親を庇護し扶育したことで有名。本家の京・一条氏が跡取りがなかった為、子房通に継がせている。周辺国人衆を従え、南予・西園寺氏と婚姻関係を結ぶ等、一条氏の支配基盤を確立した。
一条房基(いちじょう ふさもと) 1522〜1549
○右近衛中将 権中納言
◇父:一条権中納言房冬 室:
大友義鑑女 子:一条兼定
 土佐・一条氏当主。祖父、父を失ってからも、土佐七雄の津野基高を攻めてこれを降す等、勢力拡大に努める。しかし、28歳の若さで亡くなった。狂気の為自害したといわれる。
一色藤長(いっしき ふじなが) ????〜1596
○松丸 七郎 一遊斎 式部少輔
◇父:一色式部少輔晴具 弟:一色秀勝 子:一色式部少輔範勝、宗朴
 足利幕府の幕臣。一色氏は三河・吉良庄一色が発祥で、その後丹後守護職となって、そこから将軍家奉行職に分派した流れをひく。将軍義輝に仕え、その死後は義昭に従って各地を流浪。尾張・
織田信長の助力で義昭が上洛を果たすと、幕府御供衆に返り咲く。しかし、やがて義昭は再び追放され、藤長もこれに従った。信長との関係修復に尽力するが果たせず、紀伊、備後と流浪を続ける。やがて、細川藤孝の下に身を寄せた。
伊東祐勝(いとう すけかつ) 1569〜1594
○小右衛門尉 義勝 ゼロニモ
◇父:
伊東義益
 日向・伊東氏一族。 天正遣欧使節の候補に挙がっていたが、予定が合わなかったため、代わりに一族祐益(マンショ)が選ばれたという。朝鮮出兵に参加して病となり、帰国後病没。
伊東祐兵(いとう すけたか) 1559〜1600 
○虎熊丸 六郎五郎 六郎三郎 祐隆 豊後守 民部大輔
◇父:
伊東義祐 室:伊東義益女 子:伊東祐慶、祐寿
 日向・伊東義祐3男。薩摩・島津氏の侵攻に敗れ、父と共に豊後そして伊予に逃れる。1582年京に上って羽柴秀吉に仕え、九州征伐の時には、先導役として日向に入って旧領を復し、飫肥5万石初代藩主となる。朝鮮出兵にも参加して活躍、関ヶ原の役では日向で唯一東軍についたが、病に倒れ大坂で42歳で亡くなった。
伊東祐慶(いとう すけのり) 1589〜1636
○熊太郎 祐典 左京亮 修理大夫
◇父:
伊東祐兵 室:佐藤隆勝女?豊臣秀次女? 子:伊東祐久、祐豊
 関ヶ原の合戦では東軍に味方し、病に倒れた父に代わって領国日向に帰り、高橋元種の宮崎城を陥とし、薩摩・島津氏の佐土原城も攻める。父の死で当主となる。
伊東祐青(いとう すけはる) ????〜1577
○修理亮
◇父:伊東祐生 養父:
伊東義祐 室:伊東義祐女 子:伊東虎千代麿祐益(マンショ)、勝左衛門(ジュスト)
 日向・伊東氏一族。薩摩・島津氏の侵攻を受けて、当主義祐らを守って豊後へ敗走中に戦死。
伊東義賢(いとう よしかた) 1568〜1594 
○慶竜丸 三左衛門 義綱 義荘 パルトロメオ 左京亮
◇父:
伊東義益 室:大友義鎮女?
 日向・伊東氏一族。父が義賢1歳の時に病死した為、祖父義祐の元で育ち、伊東氏没落後、義祐らが伊予に逃れた後も、豊後・大友氏に養われる。叔父祐兵が、羽柴秀吉の力を借りて日向の旧領を回復すると、飫肥に地を得る。朝鮮出兵の最中に病没。27歳。義賢の人望を怖れた祐兵に毒殺されたとも。
伊東義祐(いとう よしすけ) 1512〜1585 
○虎熊丸 六郎五郎 祐清 昭眼 三位入道 修理大夫 大膳大夫
◇父:伊東大和守尹祐 室:河崎某女、福永某女 子:伊東観虎丸、
義益祐兵 養子:伊東祐青
 日向・伊東氏10代当主。兄祐充の死後、1536年当主となり、弟祐吉擁立派との内紛に荒れた家中をまとめる。豊後・大友氏を後ろ盾に再三薩摩・島津氏と争うが、1577年敗れて大友氏の元に走り、大友氏の耳川大敗後は伊予に逃れた。最期は堺まで流浪して、74歳で没。
伊東義益(いとう よします) 1546〜1569 
○虎房丸 六郎 左京大夫
◇父:
伊東義祐 室:一条房基女 子:伊東義賢祐勝
 日向・伊東義祐二男。兄の死後父より家督を継ぐ。文武に秀で、政事にも明るく、家中のみならず民衆の信望も厚かったといわれる。しかし、薩摩・島津氏との戦いの中、若くして病没した。24歳。
稲葉良通(いなば よしみち) 1515〜1588 
○越智氏 六郎 彦四郎 彦六 通似 通朝 貞道 長通 一鉄仙斎 右京亮 伊予守
◇父:稲葉通則? 子:稲葉兵庫頭重通、貞通、土井直政、稲葉方通
 “
西美濃三人衆”の1人。初め美濃・土岐氏、斎藤氏に仕え、その後美濃に侵攻してきた尾張・織田信長に臣従する。その後各地を転戦し、姉川の合戦では近江・浅井軍の側面を突き、織田軍の危機を救う。一時信長は彼の才を怖れ、殺そうとしたが、その文才を見いだし思い留まったという。信長死後、羽柴秀吉に仕え、74歳で亡くなった。 例え信長の前であろうとも、自分の意見を変えず、“一徹者”の語源となる。
猪苗代盛国(いなわしろ もりくに) ????〜????
○平太郎 盛親 弾正忠
◇父:猪苗代盛頼? 室:金上盛定女、二階堂氏女 子:
猪苗代盛胤、盛直、亀丸
 猪苗代氏一族は会津・蘆名氏庶流だが主家に逆らい度々叛している。会津・猪苗代城主。家督を嫡子盛胤に譲るが、後妻の言に踊らされて、嫡子を廃して猪苗代城を奪還、父子で争った。陸前・伊達氏の侵攻に際し、伊達成実臣羽根田直景を介してこれに寝返り、摺上原で蘆名勢と戦う。先鋒としても活躍し、伊達氏大勝の一因を作った。後に伊達家中で準一家に列せられた。
猪苗代盛胤(いなわしろ もりたね) ????〜????
○左馬介
◇父:
猪苗代盛国 子:中野作左衛門盛親
 磐城・蘆名氏臣。1585年父より家督を受けるが、3年後、その父に城を奪われる。その後は父との抗争を続けた。1589年摺上原の合戦では、陸前・伊達側についた父に対し、あくまで蘆名氏に従い戦うが敗北。戦後、流亡する。
井上元兼(いのうえ もとかね) ????〜1550
○源太郎丸 河内守
◇父:井上光兼 子:井上就兼、就澄
 安芸・毛利氏重臣。源頼季の裔という。
毛利元就の家督相続に貢献して家中での力を伸ばした。しかし、専横な振舞が多く、元就の命令にも服さないことが度々あったことから、元兼とその一族ほとんどが誅殺された。
猪俣邦憲(いのまた くにのり) ????〜1590
○助盛 能登守
 相模・北条氏重臣富永氏の出。
北条氏邦の奉行人から箕輪城代になる。のちに沼田城が支城になると、ここに城代として派遣された。1589年真田氏の上野・名胡桃城を謀略で陥とすが、逆に豊臣秀吉から約を違えたとして、小田原征伐の口実となってしまう。小田原城落城後、磔にされた。
揖斐光親(いび みつちか) ????〜????
○土岐氏 五郎
◇父:土岐政房 養父:揖斐基信
 美濃守護・土岐氏一族。子がなかった揖斐氏当主基信の養子として美濃・揖斐城主となる。後奈良天皇が資金不足にて10年間即位の儀式を行えずにいたところ、1526年献金を行いこれを実施させている。1547年
斎藤道三が守護土岐頼芸を大桑城に攻めて追放した際、頼芸に与した光親も、揖斐城を攻められて落城。城を脱出してその後は流浪するが、やがて復帰して斎藤道三の子義龍に従った。
今井定清(いまい さだきよ) ????〜1561
○尺夜叉丸 左近 備中守
◇父:今井秀俊 子:今井小法師丸秀形(秀家)
 近江守護・京極氏重臣の家柄。父秀俊は台頭著しい近江・浅井氏に通じ、これにより近江守護・六角氏に攻められて自刃。この為、定清は幼時から
六角定頼の庇護を受け成人するが、京極氏との内通を疑われて人質を殺害された為、六角を離れ旧主京極氏の下に戻った。しかし、恩義ある六角氏に抵抗できず、進退に苦しんで、隠棲していたところを、浅井長政に招聘され、箕浦城主となった。長政に従った定清は六角氏との戦闘に力を尽くすが、磯野員昌の加勢を得て太尾城を夜襲した際、敵と見誤った員昌の兵に、背後から刺されて戦死。
今川氏真(いまがわ うじざね) 1538〜1614 
○五郎 彦五郎 上総介 治部大輔 刑部大輔
◇父:
今川義元 室:北条氏康女、庵原右近太夫忠康女 子:今川左馬助範以、品川新六郎高久、西尾安信、今川澄存
 父戦死後、駿河・今川氏当主となるが、蹴鞠(達人級?)華道に没頭する。内政面ではそれまでの政策を受け継いで、検地、楽市等を行うが、武将としての器に欠け、家臣の離反が相次ぎ、独立した徳川家康に攻められ大敗、相模・北条氏の下に走った。舅氏康死語、北条氏を逐われると、今度は家康を頼り、後に上洛、仇織田信長にも謁見している。以後京に居住し、1612年駿府城にて家康訪問後は江戸品川に下向、77歳で没。
今川氏親(いまがわ うじちか) 1470〜1528 
○龍王丸 彦五郎 上総介 治部大夫 修理大夫
◇父:今川義忠 室:中御門宣胤女、福島氏女 子:今川氏輝、彦五郎、良真、義元、氏豊
 駿河守護今川氏当主。父は応仁の乱で東軍に付き、遠江攻略後、塩月坂にて不慮の戦死。氏親4歳の時であり、一族範満との間で家督争いが生じて堀越公方足利氏、関東管領上杉氏の介入を招いた。これは客分にあった伯父
伊勢長氏(後の北条早雲)の仲裁で争いは鎮まり、乱を逃れていた氏親も駿府に戻る。この縁で北条氏との同盟を結んで、1517年引馬の戦いにて遠江一円を攻略、三河、尾張に勢力を伸ばした。武勇に優れた一方、領国経営にも手腕を見せて検地、知行制度の確立、1509年には分国法「今川仮名目録」33ヶ条を制定している。
今川氏輝(いまがわ うじてる) 1513〜1536 
○龍王丸 五郎 上総介
◇父:
今川氏親
 父の病死で、14歳で駿河守護今川氏当主となる。母寿桂尼の輔佐を受け国政を行い、商業振興、旗本馬廻衆設置などに取組むが、甲斐・武田信虎との戦傷が元で若くして急死。次弟彦五郎も同時に死んでおり、謀殺されたともいわれる。
今川義元(いまがわ よしもと) 1519〜1560 
○芳菊丸 梅岳承芳 駿河守 三河守 治部大輔
◇父:
今川氏親 室:武田信虎女 子:今川氏真、泉奘、長得
 僧籍にあったが兄急死後、兄良真との家督争い(花倉の乱)に勝ち、駿河・今川氏当主となる。太原雪斎を軍師に迎えて相模・北条氏、尾張・織田氏に侵攻し勢力を拡大、後には甲相駿三国同盟を結んで地盤を確実なものとした。内政についても父からの領国経営を継承して検地を徹底、直臣の強化を図ると共に、「仮名目録追加」21ヶ条を出している。今川氏は全盛期を迎え、“海道一の弓取り”とうたわれた。1560年、2万7千の大軍を率いて上洛を図る(尾張攻略のみとも)が、桶狭間において雨の中休息中、尾張・織田信長に奇襲を受け、自ら太刀を振るって戦うが、その臣毛利新介に討たれた。享年42歳。義元は京風文化に憧れ、顔に化粧を施し、又、肥満していた為、行軍時は輿に乗っていたという。
今木一政(いまき かずまさ) ????〜1658
○浅井氏 源右衛門 長門守 正祥
◇父:浅井定政 子:浅井政右、武康
 近江・浅井氏庶流。
浅井長政の娘・淀殿を頼って羽柴秀頼に近習として仕えたという。1615年大坂城に籠城するが、落城直前に徳川家康へ使いに赴き、秀頼らの助命を願い出る。しかし、すでに城に火が点き、秀頼らは自害しまった為姿を消す。その後、加賀・前田利常を頼って家臣となり、1千石を得る。1658年利常に殉じて自害したという。
入田親誠(いりた ちかざね) ????〜????
○親実 親真 掃部頭 丹後守
◇父:入田親廉 室:阿蘇惟豊女 子:入田義実(宗和)、親利、鎮氏
 豊後・津賀牟礼城主で豊後守護
大友義鑑の加判衆の一人。大友親時の子泰親を祖とする。教育係を務めたが不和となった大友義鎮の廃嫡を謀り失敗。肥後・阿蘇氏の元に逃れるが、討たれた。
入交 信(いりまじり ???) ????〜1613
○松田豊後守
◇父:入交助六左衛門 室:大和・長照寺東之丞女 子:入交惣左衛門、太郎右衛門重信、助左衛門重俊、竹田次郎兵衛
 土佐・一条氏臣。後に長宗我部氏に臣従。3000石領有。長宗我部氏没落後、1601年
藤堂高虎に招かれるが、息子4人を仕官させて己は辞退した。
色部勝長(いろべ かつなが) ????〜1569
○弥三郎 修理亮
◇父:色部遠江守憲長 子:色部弥三郎顕長、惣七郎長実(長真)
 色部氏は秩父氏の流れ。初め山内上杉氏に仕え、後に越後・長尾氏に仕える。中条藤資らが上杉定実の養子に、陸前・伊達氏から後嗣を迎えようとした際にはこれに反対する。1561年の川中島の合戦では謙信血染めの感状を受けた。反旗を返した本庄繁長攻略中に夜襲を受け戦死。

岩城親隆(いわき ちかたか) ????〜1594
○伊達氏 鶴千代丸 左京大夫
◇父:
伊達晴宗 養父:岩城左京大夫重隆 室:佐竹義昭女 子:岩城常隆
 出羽・伊達氏一族ながら、岩城氏に入嗣し、当主となる。所領が常陸・佐竹氏に隣接していた為、佐竹氏、葦名氏に与して実家伊達氏と戦うことが多かった。人取橋の合戦でも、子常隆と共に、反伊達連合軍として甥政宗に敵対するが、1589年政宗の傘下に入った。
岩城常隆(いわき つねたか) 1567〜1590
○左京大夫
◇父:
岩城親隆 室:二階堂盛義女、佐竹義重女 子:伊達長次郎政隆 養子:岩城(佐竹)能化丸貞隆
 陸奥・岩城氏当主。父親隆と共に再三伊達氏らと争い、1589年伊達氏が葦名氏を破ると、これと講和する。翌年羽柴秀吉の小田原征伐に参陣し、領地安堵を得るが、陣中の鎌倉において急死。
犬童頼安(いんどう よりやす) 1521〜1606 
○熊徳丸 軍七 伝心 休矣 美作守
◇父:犬童美作守重安 子:犬童清兵衛頼兄
 肥後・相良氏臣。犬童氏は、相良長定謀反に加担した為に一族が滅亡したが、その時まだ幼少であった頼安は許された。その頼安も相良治頼の謀反に加担して出国するが、後に許され帰参している。以後相良氏の為忠義を尽くし、獺野原の合戦等で武功を挙げた。又、薩摩・島津氏に水俣城を囲まれた際には、島津方の将新納忠元と連歌の応酬を見せている。相良氏が島津氏に降った後も、幼主頼房の下
深水宗芳と共に、相良氏存続の為力を尽くした。家中の信望厚く、頼安が亡くなった際には、7人の殉死者を出している。
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