六角定頼(ろっかく さだより) 1495〜1552 
○吉侍者 四郎 江雲 弾正少弼
◇父:六角大膳太夫高頼 子:
六角義賢
 相国寺慈照院の僧であったが、兄氏綱が病死した為、還俗して近江・六角氏当主の座を継ぐ。将軍足利義輝の烏帽子親にもなり、管領代に任じられるなど将軍家とも関わり深く、流亡中の将軍を度々庇護し匿った。また、北近江・浅井氏、摂津・三好氏などと戦い、六角氏の示威を高めた。
六角義賢(ろっかく よしかた) 1521〜1598 
○四郎 承禎 左京大夫
◇父:
六角定頼 室:畠山修理大夫義総女、土岐頼芸女 子:六角義治義定
 近江・六角氏第13代当主。姉が管領細川晴元正室であったことから、流亡する将軍足利義晴、義輝を助け摂津・三好氏と度々戦い、また北近江・浅井氏とも争い一時は臣従させる。しかし、家臣団との内紛があって統率力は弱まっていたため、奈良から脱出してきた足利義昭を庇護しきれず、後に、義昭を奉じて上洛する尾張・織田氏に反抗して敗れた。その後も、浅井、本願寺勢らと結んで信長に抵抗するが、制圧され1570年降伏した。その後、甲賀、伊賀方面でゲリラ活動を展開するがかなわず、本願寺に身を寄せたとも。宇治田原にて病死する。日置流弓術の奥義を修得した腕を持っている。
六角義定(ろっかく よしさだ) ????〜????
○次郎 高定 賢永 左衛門尉 中務大輔 近江守 佐々木氏 大原氏
◇父:
六角義賢 養父:大原高保 子:大原右近大夫高賢、佐々木高和、桂冶、青地等定
 近江・六角氏一族。兄義治が、家臣を誅殺して信望を失う(観音寺騒動)と、兄に代わり家督を継ぐ。しかし、尾張・織田氏攻勢の前に六角氏は滅びた。その後、父や兄のようにゲリラ戦に身を投じることなく隠棲し、のちに豊臣秀吉に召されて仕える。さらには徳川家康に仕えた。
六角義治(ろっかく よしはる) 1545〜1612
○四郎 義弼 右衛門督
◇父:
六角義賢 養子:佐々木(大原)定治
 南近江・六角氏当主。1559年父より家督を継ぐが、家中の実力者である重臣後藤賢豊父子を謀殺したことから、家臣の離反を招き、北近江・浅井氏の侵攻を許した。1567年家臣団が「六角氏式目」を制定、義治は支配力を失っていき、翌年尾張・織田氏の侵攻を受けた際は、大半の家臣は降伏し、義治は父と共に城を捨てて逃げる。その後も旧臣を頼り、織田氏に抵抗するが敵わず、義治は甲斐・武田氏を頼った。武田氏滅亡後浪人し、やがて豊臣秀頼に仕えその弓術指南役ともなっている。
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