新納忠元(にいろ ただもと) 1526?〜1610 
○安万丸 次郎四郎 拙斎 大膳正 武蔵守 刑部大輔
◇父:新納祐久 子:新納忠堯
 薩摩・島津忠宗四男新納時久が祖。島津氏重臣として各地を転戦活躍し、“鬼武蔵”と呼ばれ怖れられた。一方で和歌、連歌をよくし、風流を解する武将であった。豊臣秀吉の九州侵攻の際には、当主島津義久が和議を結んだ後も抗戦しようとしたが、説得され降った。

二階堂盛義(にかいどう もりよし) ????〜1581
○照行 遠江守 信濃守
◇父:二階堂駿河守輝行 室:伊達晴宗女 子:
二階堂(蘆名)盛隆、行親、行栄
 会津・須賀川城主二階堂氏18代当主。会津・蘆名氏と3年に及んで激しく戦うが、敵せず臣従する。この時嫡子盛隆を人質として預けるが、この盛隆が蘆名氏を継ぐ。以後、協力して蘆名氏の為に尽力した。
仁木義視(にき よしみ) ????〜????
○友梅
 伊賀守護として、1571年
織田信長の支援を受け、伊賀に入国。しかし、国内に割拠する土豪をまとめきれずに、その反抗に遭い、1578年伊賀を追放され甲賀に逃れた。
二本松義継(にほんまつ よしつぐ) ????〜1585
○畠山氏 七郎
◇父:二本松(新城)修理大夫義国 子:
畠山義綱、二本松右京助義孝
 本姓は奥州探題畠山氏にて南北朝期の頃より威勢を振るった。足利(畠山)義純流。陸奥・二本松城主となり二本松氏を称する。会津・蘆名氏に従っていたが、陸奥・伊達政宗と争う大内定綱を庇護したことから、その侵攻を受ける。敵わないと和議を申し出に行くが、成らなかった。その為会談後、政宗の父輝宗を拉致して逃走(輝宗事件)、輝宗もろとも銃殺されたという。
二本松義綱(にほんまつ よしつな) 1574〜1589
○畠山氏 梅王丸 七郎
◇父:
二本松義継 子:畠山右京亮満重
 父の死後12歳で家督相続。父の仇と侵攻する陸前・伊達軍を、反伊達勢力の援護を受け、なんとか撃退。しかし、家中の分裂や、伊達勢力の圧迫により、翌年相馬氏の斡旋で無血開城、義綱は磐城・蘆名氏を頼った。その後、蘆名義広に常陸で殺される。16歳。
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