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最初に、よりふじ(依藤)氏については、様々な文献に記載されていますが、一部抜粋して紹介します。

【本稿は管理人が、平成5年7月号の秋田書店出版「歴史と旅」…【タイトル=我が家系を語る(赤松氏と運命を共にした播磨の豪族−依藤家)】…に投稿し、掲載されたものの一部です。】
 

依藤という姓については、『姓氏家系大辞典』に次のように記載されている。

――播磨の豪族にして赤松家配下の将也。

赤松家風條々事に「當方御年寄、依藤」と見ゆ。
氏人は太平記卷九に、寄藤十郎兵衛、その後異本嘉吉(かきつ)記に「寄藤太郎左衛門豊房、千本村の地蔵堂にて腹を召さる」と見え、上月記に「依藤彌三郎(播州三草山に出張仕り候)」と。

上の写真は米原市にある蓮華寺。
太平記に出て来る寄藤も含め、北条仲時以下総勢430余人が蓮華寺本堂前庭にて自刃した。

上の写真は、北条仲時以下自刃した430余名の墓地。
時の住職・三代同阿上人は、その姓名と年令・法名を一巻の過去帳に留め、更にその墓を建て丁重に弔った。
過去帳は重要文化財として宝物館に収蔵されている。


又、応仁記巻二に「赤松勢依藤豊後守」を載せ、細川両家記に「享禄三年、依藤退治云々」と。
又、赤松記に「別所孫右衛門、依藤太郎左衛門跡をしんたいす」など多し。


『戦国人名事典』(新人物往来社)には

――播磨の豪族。赤松氏配下の武将。
応仁の乱において、依藤豊後守則忠は、赤松政則のもとにあって活躍し、赤松氏は旧領播磨を回復し、守護に任ぜられ、依藤は東条谷を宛がわれた。

文明十六年(1484年)、赤松氏家臣団は赤松政則を追放したが(国人一揆)、依藤氏もこれに加わった。
依藤氏はその居城、豊地(といち)[拾市・都市・依藤・東条]城を放棄して摂津へ逃れるが、やがて政則と家臣団が和解し、同十七年、依藤氏は豊地城を奪回した。

享禄三年(1530年)五月、別所村治が豊地を攻撃したが、依藤氏は浦上村宗の援助を受けて別所氏の軍勢を敗走させた。
しかし、別所氏の勢力が次第に伸長し、永禄二年(1559年)頃、依藤氏は別所氏に滅ぼされたらしい。


『日本城郭大系』の中から一部抜粋してみると、

依藤氏の史料上の初見は明徳三年(元中九年、1392年)の「相国寺供養記」である。
赤松氏の在京年寄衆の一人として太郎左衛門尉資頼の名が見え、本姓を藤原氏としている。

応永十九年(1412年)には、依藤性好(資頼か)が穴粟(しそう)郡神戸荘内の相伝の名田畠を、伊和神社(一宮町にあり、新田義貞の寄進状など古文書類も多く残っている)に寄進している。

これらから分かるように、この頃は西播磨にいたと推察される。

依藤太郎左衛門の伊和神社への寄進状
(上記古文書)
応永十九年(1412年)
依藤太郎左衛門尉資頼の伊和神社への寄進状

(東京大学資料編纂所影写本「伊和神社文書」)
【以下読み下し】
此の分、相違あるべからず候なり。赤松義則(花押)
寄附  一宮
右、播州神戸(かんべ)荘内 宰相房跡名田畠(さいしょうぼうあとみょうでんばた)等の事、
相伝の当地行(とうちぎょう)たりといえども、敬信の儀をもって、当社造営方に寄附奉るところなり。
仍()って、後証のための寄進の状、件(くだん)の如(ごと)し。
応永十九年(1412)五月十六日 沙弥性好(しゃみせいこう)(花押)

次に、赤松氏との関係について、もう少し詳しく紹介します。

嘉吉元年、赤松満祐は時の将軍、足利義教の弾圧に反発して、これを弑逆(しいぎゃく)[嘉吉の乱]、居城である城山(きのやま)城に立て籠もった。

この時、依藤太郎左衛門豊房も赤松側に立って、赤松満祐と運命を共にすることになる。

赤松氏の出自は村上天皇より始まったとされ、歴史の表舞台に登場してくるのは、円心の時が有名である。
足利政権下では幕府を支える「三管四職」のうちの四職の一つとして、成長発展を遂げた。

しかしながら、幕府の信任を受けてきた赤松氏が、満祐の時に将軍暗殺というショッキングな事件を起こしてしまう。
その原因には、少なからず依藤氏も絡んでいると思われる部分がある。

将軍家では五代将軍の義持が急逝したため、後任を義持の兄弟四人の中から、くじで選ぶこととなり、
その結果選ばれたのが青蓮院門跡義円で、後に還俗して六代将軍、足利義教となった。

最初のうちは赤松満祐と将軍義教の間は比較的円滑であったが、義教は将軍就任にあたって、兄義持が重臣の圧力を受け苦しんでいたのを知っていたので、その二の舞を踏まぬようにと、徐々に守護大名の勢力分断を図るようになっていく。

四職家のうち、山名、京極の両家は後嗣問題で内政干渉を受け、一色義貫に至っては謀叛の嫌疑により自殺にまで追い込まれてしまった。
このように四職家の三家までが、義教の強圧策に左右されたため、赤松家では非常な警戒心を持っていたに違いない。


『看聞御記』の永享十年(1438年)三月十五日の条には、赤松の家人、頼(依)藤と言う者四人が湯起請(ゆぎしょう)にかけられた。
これは起請文を書かせ、灰にしてのみ込ませ、熱湯の釜の底の石をとらせる裁判の一種で、三人はたちまち手が焼け損じて切腹した。
名までは明らかではないが、当時の依藤は赤松惣領家の中でも年寄衆に属する重臣と考えられ、事情は不明だが、主君の赤松満祐の義教に対する怒りは、かなりであっただろうと想像できる。

他にも庶子家との対立に将軍が干渉するなど、満祐は身に迫る危機を感じ取り、将軍暗殺と言う強硬手段に出たに違いない。結局、満祐は幕府の追討軍と戦うことになるのだが、依藤もまた赤松八十八家の一つとして、満祐と行動を共にするのである。
最初は満祐の長男彦次郎教康を大将とした一隊に入り、明石の和坂(かにがさか)において、緒戦を飾るが、幕府の追討軍も日を追い数を増し、赤松軍は城山城に籠城する事になる。結局、満祐は自刃し依藤太郎左衛門も壮絶な最後を遂げるのである。
(太郎左衛門の伝説)

足利義教の首塚がある兵庫県安国寺

千本にある西播磨最大級の依藤太郎左衛門の五輪塔

続いて「応仁の乱」での依藤氏の活躍について、紹介します。

『応仁別記』に「応仁元年(1467年)六月八日、一条大宮猪熊の間にて、山名相模守ひかえたりけるに、赤松次郎政則懸合いて、数刻合戦有。

赤松側には、浦上・小寺を始めとして爰(ここ)を詮と戦けり。

中にも依藤豊後守、弓手(ゆんで…左)の瞼を射られ、其矢折かけて相模守一門常陸守と組で、上に成り下に成しが、常陸守を取押え、頸カキ切、太刀の先に貫き、山名常陸守をば、依藤豊後守討取ったりと声高に名乗りける。

古(いにしえ)の鎌倉権五郎景正にも劣らぬ高名哉とぞ各褒美せられける。」とある。

ここで言う依藤豊後守は依藤則忠と思われるが、左目に矢を射こまれながらも山名常陸守と組み打ち、上になり下になりての死闘の末、山名常陸守の頸を高々と差しあげて、勝どきををあげた。

この頃、依藤氏は赤松家の中でも、筆頭に位置する武将であったと思われる。


応仁の乱勃発地(京都市)

現在の一条大宮猪熊付近

藤原惺窩の父、冷泉藤原為純を救援した依藤太郎左衛門の話

兵庫県東条町の栄枝に嬉野(うれしの)という所がある。

ここも依藤一族が拠点とした一帯であるが、その近くに細川荘という荘園があった。
細川荘は藤原家ゆかりの荘園で『千載集』の撰者として有名な歌人、藤原俊成の所領で、十三世紀の始めに俊成の子、定家の支配下にあった。

やがて細川荘は、定家の子の為家に譲られたが、為家が死ぬとその子の為氏と為相という、異母兄弟の間に激しい相続争いが起こった。

為相の母、阿仏尼が為氏を相手取って訴訟を起こそうと、鎌倉に下向した時に綴った『十六夜日記』はよく知られている。
その後細川荘は為相の家系である冷泉家の荘園として、為相の子孫の為純とその長子の為勝に受け継がれる事となる。(為勝の次子は、儒学者で朱子学の開祖、藤原惺窩である)

前置きが長くなったが、為純の時、別所長治がこの細川荘を夜襲した。この時冷泉家を救援した依藤氏がいる。

この依藤は、冷泉家の後継ぎである冷泉為勝を伴い、奮戦の末脱出を試みるが多勢に無勢、小高い丘の上に来たところで、我が城が炎上するのを見るにつけ、もはやこれまでと覚悟を決め、為勝の介錯をし、自刃したと言われている。
時に天正6年(1578)4月の事である。

現在ここは「依藤太郎左衛門・冷泉藤原為勝自刃の地」として供養碑が建てられている。

地元のお寺のご住職に聞いた話では、この場所には、依藤公の鎧、兜が埋められており、そのせいか、周りには今も草が生え
ないとの言い伝えがあるとのこと。

なお、この天正6年の事象に関連した文献等が少ない上に辻褄の合わない部分が多く、依藤の人名・人物が正しいかどうかは何とも言えない。
【写真参照】

依藤太郎左衛門と冷泉為勝の墓
(左)依藤太郎左衛門・冷泉為勝自刃の地の碑
(中)依藤太郎左衛門と冷泉為勝の墓
(右)冷泉家の荘園である細川荘にある[藤原惺窩像]

このように赤松氏とゆかりの深い依藤氏であるが、その赤松氏と戦国時代宿敵であった山名氏は、平成2年5月に「山名・赤松両氏顕彰会」を結成、但馬竹田城跡に両軍陣没諸霊供養碑を建立する事になった。
依藤氏も一族の方々が協賛、竹田城址の副碑に名を連ねている。

世間ではこれを「平成の手打ち式」と銘打ち、話題となった。


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